【Interview】『ファルージャ イラク戦争日本人人質事件…そして』伊藤めぐみ監督インタビュー

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——じゃあ伊藤さんは、匿名や名無しでネットに中傷を書くような人を「相手にする必要は無い」みたいには思わない?

伊藤 思わない、ですね。

——自分なりの仮説を教えてもらえますか。バッシングした人の気持ちはどんなものだったか。

伊藤 うーん……。不満や苛立ちを抱えていて、それをああいう形で表現せざるを得なかったのかなと。向かっていく方向は全く違いますけど、世の中への不満や違和感そのものについては、反原発のデモに集まる人達とだって通じるものはあると思っています。根っこにある熱自体は、うまく表現できる人もバッシングのかたちをとってしまった人も、実はそんなに変わらないんじゃないか。

今井さんも未だにソーシャル・ネットで中傷的な書き込みをされていて、そういう人達に対して腹は立てているけど否定はしないんです。「もしかしたらこの人達は、引きこもりかもしれない。家庭や職場で居場所がないのかもしれない。いろんなやり場のない気持ちをたまたま自分にぶつけているのかもしれない」とおっしゃっていて。そこまで考えられる彼は、凄いなと思っています。

——せっかくなのでもう少し、「ゼロ年代」を特集したneoneo3号と絡めてお話を伺います。伊藤さんはどんな10年間だったと思いますか。例えば「生きづらさ」というキーワードが定着し始めたのがゼロ年代の後半でした。僕なんかは「古今東西、生きやすかった時代など存在するものか」とつい簡単に答えてしまうのですが、「不景気しか知らない私達の気持ちは若木さんには分からないでしょ」と20代の人に言われて、ちょっと落ち込んだんです(笑)。

伊藤 私自身は恵まれてきたほうですからなんとも言えないんですけど、生きづらさを訴える人の感覚は分かる気はします。現在の60~70代位の方達を見ていると、怒りが原動力で、批判すべき対象、目に見える敵がいて。そこを崩すために表現活動ができた世代だと思います。でも私と年の近い世代だと、なかなかハッキリと「あいつが敵だ!」みたいなことは言えないんですよね。

敵の姿が見えにくいのもありますし、簡単に敵と割り切ることもできないんです。視点によっては、自分も批判している相手の一部だと思わざるを得ない局面も出てきますから。

——2001年のニューヨークの同時多発テロ、いわゆる「9.11」の時は?

伊藤 あの時は高校2年生で、物凄くショックでした。イラク戦争の時もそうでしたけど、「9.11」も社会のことを考えるようになった大きなきっかけです。どうしよう、どうやって生きていったらいいんだろう、ぐらいに動揺して、街頭募金や署名活動を始めたりしました。学校にボランティア部があったし、一所懸命話したら「じゃあ手伝うよ」と付き合ってくれる友達もいたので。それにしても、勢いだけでやっていましたね。


最後の最後に撮れたインタビュー

——映画の質問に戻ります。先ほど、ATPの企画に応募する前から高遠菜穂子さんに会いにイラクの隣国ヨルダンへ行っていたと伺いました。構想の段階から、いずれファルージャにロケすることありきと考えていたのですか。

伊藤 いえ、その時は(いつか番組にできるといいなあ)という下心はありましたけど、個人的に高遠さんと会ってみたい気持ちの方が上回っていました。ロケを考えるようになったのは、ATPの企画募集があることを知ってからです。

——撮影のクレジットが3人。パートごとに担当が違ったのでしょうか。

伊藤 そういうわけでもないんです。イラクに同行したのは大月啓介さんで、途中まで彼ひとりにお願いしていたんですけど、別の仕事が入ってしまい、伊藤寛さんというベテランのカメラマンに入ってもらって、でした。

大月さんはディレクター業も兼ねている人で、高遠さんの紹介なんです。イラクにロケだと戦場経験がある人が心強いという話になって。

——ファルージャの病院での、米軍の劣化ウラン弾の影響が疑われる先天異常の赤ん坊。よくぞ粘って撮っているな、粘って編集したなと打たれました。ちゃんと見せねばと思う前も後も、ずいぶんしんどい思いや逡巡があったろうと想像されますが。

伊藤 見世物みたいにはしたくないし、あの赤ちゃん達を標本みたいに並べたくはないとは凄く思っていました。最後のインタビューで高遠さんが「この子達が短い生命をもって、私達になにを直視しろと言っているのかをちゃんと受け止めたい」とおっしゃっていたことが強く残っていたので。

FJ_sub15b『ファルージャ』より © 2013 有限会社ホームルーム 一般社団法人全日本テレビ番組製作社連盟 

——夜の、広い建物のなかで高遠さんが、バッシングを受けて自暴自棄になったときにお母さんにひっぱたかれた逸話などを一気に話すインタビュー。カメラがしっかりと高遠さんに寄っていて、周りのザワザワしたガヤ音までが魅力的に粒立って聞こえてくる、素晴らしい場面です。あれはどこで撮ったのですか?

伊藤 帰路のドバイ空港です。イラク滞在中は毎日が忙しくて、なかなかまとまったインタビューをする時間がとれなくて。それに私が最初の頃、焦って踏み込み過ぎてしまって、自己責任やバッシングについて悪いタイミングで聞いてしまったんですね。それで高遠さんに「あんた、まず待ちなさい。私がここで何をやっているのか見てからにしなさい」と叱られたんです。

——それは……、物凄くためになるお話です(笑)

伊藤 問わず語りのかたちで、当時のことを話そうとしてくれていたんですよ。その時、私が「カメラ回して」とカメラマンに言ってしまって。その場では高遠さんは堪えてくれたんですけど、後でホテルの部屋に戻ってから「あれは無かったよね」。まとまらないことをなんとか言葉にしようとしていたのに、急にカメラを向けられたのは辛かったよ、と率直に言ってもらいました。

それで滞在中はインタビューは出来ず、最後の日に病院内でする予定だったんですけど、治安の関係で早く出発しないといけないことになり。飛行機に乗る際も、カメラマンだけ残されるトラブルが起きたりしたんです。なんとか無事にドバイの空港で合流出来て、最後の最後に撮れたのがあのインタビューです。

(カプリコン・フィルム岩井=宣伝担当) 実は僕が同席した高遠さんの取材でも、彼女がその時のことについて話していたのですが。イラクにいる間は、取材といっても伊藤さん達は自分が連れてきたのと同じで、万が一でも伊藤さん達の身に何かがあったら生きていけない、と思う位に気を張っていたそうです。「インタビューどころじゃなかった」と(笑)。だからドバイで合流出来た時、一気に安心して、それで「長く話しちゃった」そうです。

——いろいろなことが重なって、あのインタビューなんですね。ビデオは不思議です。同じ画素数でも、自ずと厚みのある画面というものが生まれる。

伊藤 本当に、高遠さんに助けられたことばかりでした。

——それに、いつも飄々とした受け答えをする今井さんが、スッと少し本気の顔で心情に触れるところ。あそこも手前に物があったりカメラが傾いていたりして、セッティングしてのインタビューではないところがかえってヴィヴィッドな良さを感じたところです。

伊藤 あそこはお話を聞きたいとは伝えてあったのですが、あそこまで率直に話してくれるとは思っていませんでした。私が撮ったもので、画面はもっとガチャガチャ歪んでいて。ずいぶん編集で直しました(笑)。

——インタビューでは聞きたい言葉が出てくるまで粘りますか。それとも予断を持たずに臨んで、その人なりの本音や肉声を引き出せればよいと考えますか。二択で割り切れるものでもありませんが。

伊藤 どっちだろう……。相手のリズムに乗るほうが多いですかね。もちろん聞きたいことも事前にはあるんですけど、聞いていくうち質問も変わりますし。

——いや、これは質問のほうが曖昧でした。いざ編集の段になって、ああ、ここでもう少し突っ込んで聞いておけばよかったのにと後悔する場合もあれば、取れ高のなかで構成していくよりないんだと腹を括る場合もあるでしょう。

伊藤 それは、割り切れているほうかもしれません。ええと、答えになっていないかもしれませんけど、私はあんまり映像に向いてないのかも、と思うんですよ。話を聞く時に、同時に映像に撮って残していくことへの気配りというか、配慮が自分の中で薄いんですね。話を聞いて、(ああこの人はこんなことを考えてるんだ)と納得できたら、もうそれだけで満足してしまう(笑)。そのために撮りこぼした分は、けっこうあるんです。そこを意識できていたらもっと表現できたんだろうなと思う後悔や甘さへの反省は、凄くあります。

FJ_sub02『ファルージャ』より © 2013 有限会社ホームルーム 一般社団法人全日本テレビ番組製作社連盟

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