●運命
実際、どうしてプリンスが日本で人気がなかったのかは、よく分からない。そういえば、プリンスが1作目(1989)の音楽を担当した『バットマン』シリーズも、その高い評価にも関わらず、今に至るまで日本での人気はパッとしない。
プリンスは子供のころからバットマンが好きだったそうだ。だからってわけじゃないけど、このふたりには共通する部分があるように感じられる。ふたり、ってのも変ないい方だ。プリンスとスーパーヒーロー、っていった方がイイかな。その共通点は、諦念とか切迫感、とでもいえるもの。このふたつ、相反するようだけど、そうでもない。目標がハッキリしていれば筋道も立てられるけど、諦めても諦めきれない場合は焦燥感が募るだけ。人間、そんなにカッコよく物事を諦められるわけじゃないし、諦念に陥ったひとがみんな、虚無や無頼に至るわけでもない。
バットマンでもスパイダーマンでもスーパーマンでも、彼らは何だってあんなに一生懸命になって悪と闘うんだろう。どうして必死になって正体を隠そうとするんだろう。そんな問題も含めて、ヒーローという存在そのものをクリティカルに描いたのが近年のアメコミ・ヒーロー映画で、そこには大体において運命論のようなものが見てとれる。「プリンス」という、どう考えても芸名としか思えない名前は本名で、プリンス・ロジャー・ネルソン。そのように名付けられた者、あらかじめ選ばれた者が、必然的に抱え込む懊悩と使命感が、諦念や切迫感となって表れているんじゃないか。
●切迫
タイトル曲「サイン・オブ・ザ・タイムズ」の「オブ」は、原語ではピースマークになってるけど、歌詞の内容は暴力、死、ドラッグ禍、戦争が渦巻く世界の描写だ。99%の絶望を描いたうえで、終盤でやっと「手遅れになる前に恋をしよう」ってフレーズが出てくる。プリンスは、世界がピースで溢れているなんて、これっぽっちも思っちゃいないし、ピースを訴えればピースになるわけでないことも、たぶんわかっている。メイク・ラブしたからといって、ウォーがなくなるわけじゃない。でも、じゃあ、何もしなくてイイかっていうと、そんなわけにもいかない。何もせずにはいられない/何かせずにはいられない。でも何ができるかっていったら、せいぜい恋をすることぐらいだ。それ以外、何ができるっていうんだ。キャント・ヘルプ・フォーリン・イン・ラブ!
映画中盤の「プレイス・オブ・ユア・マン」は、集中もっともノリのいいスピード感のあるヒット曲だけど、歌詞は男に捨てられた女の悲しみを描いていて、語り手は、一晩だけならキミの相手になれるけど彼の代わりにはなれない、と言う。注意喚起ステッカー誕生の元になった「ダーリン・ニッキー」(本作ではプレイされない)は、確かにエロエロな内容だ。エロいお姉さんに誘惑されたボクは官能の一夜を体験した。でも目が覚めたら彼女はいない。戻ってきてよ、もっとヤリたいよー。…まるっきりのエロ男爵だけど、ザラついた声で振り絞るように叫ぶ王子のボーカルに感じられるのは、むしろ渇望感。繋がりが断ち切られることを恐れる、不安や切迫感だ。プリンスの歌には、そんな絶望や哀しみや癒しがたい渇きのようなものが詰まっている。まったき個でしかない人間が、どうやったら他者と触れあえるのか、どうしたら世界と交わることができるのか、どうしたらピースな状態になれるのか。エロはエロでも「もっと腰ふれよベイベェー、天国までイカせてやるぜェ!」的なエロ・マチズモは、プリンスにはない。
多作であることも、そんな切迫感の表れだ。マイケル・ジャクソンのアルバム・リリースは数年に一枚、マドンナだって2〜3年に一枚。だけどプリンスはほとんど毎年出す。時にはそれが二枚組になる。曲のストックがありすぎて、その数は500曲とも1000曲ともいわれる。曲を作らずにはいられないのか、勝手にできてしまうのかはわからないけど、とにかく作らなきゃ、という衝動が感じられる。天才ゆえの悲劇が、ここにはある。悪と闘わざるを得ないスーパーヒーローが正義の奴隷であるなら、曲を作り出さざるを得ないプリンスは音楽の奴隷だ。それが、選ばれた者の宿命だ。プリンスもまた、バットマンであり、ジョーカーだった! ゲット・ザ・ファンク・アップ! バットマ〜ン!
●矛盾
実はプリンスは、そんな自らの天才性に抗っていたんじゃないだろうか。プレスまで済んでいたアルバムを一週間前に発売中止にするとか、プリンスという名前を捨てて変なマークを名乗るようになるとか、本作以降のプリンスは次第に迷走をはじめる。男女のシンボルマークを合体したようなマークは、誰も読めないので便宜的に「アーティスト・フォーマリー・ノウン・アズ・プリンス(かつてプリンスとして知られたアーティスト)」ってことになったけど、日本ではもっぱら「元プリ」と呼ばれた。またプリンスに戻ったときは「元元プリ」「今プリ」「またプリ」などと、わけの分からないことになった。当時は天才ゆえの奇行と受け取られていたけど、実はワーナーとのゴタゴタが背景にあったらしい。アーティストとしての創作の自由を守るための、ドン・キホーテ的な行動だったということなんだ。けど、実は自分で自分の才能をコントロールできなくなっていたズレが、奇妙な形で表れてしまったんじゃないか。自らワーナーという悪を作り出して、それと対決する正義の味方。それは、ワーナーとの契約から解放されたあと、個人レーベルでのネット販売に主軸をおいたくせに、最近はネット上の海賊行為はムカツク、規制をかけなきゃ新曲は出さない、と言ってることからも伺える。天才はいつだって、矛盾と孤独の中にいる。
そうだ。天才は団結なんかしない。孤高だからこそ、天才は天才としての価値がある。それが集団を率いれば、独裁者になるのはあたりまえだ。革命にも新世代にも、ハナから自由も平等も博愛もありはしなかった。だから本当は「赤プリ」というのが的を射た名前だ。しかし、「バットマン」の年に共産主義国家が崩壊したように、独裁者は民衆に打ち倒されるのが歴史の条理。考えてみれば、レヴォリューションである以前にプリンスだ。王子は、革命で打倒される側の人間じゃないか!
あの、首を絞められた鶏のような甲高い絶叫は、永遠に解決しようのない矛盾への止みがたい発露だ。完全主義は、堅牢な音で身の周りに作った要塞だ。でも、裸になって誰かと繋がりたい…。そもそもエロは、常に死と二律背反の関係にある。陶酔をもたらしてくれるかもしれないけど自由は得られないし、渇望を癒してくれるかもしれないけど制限がつきまとう。矛盾に満ちて捉えがたいエロは、理性で解決できるものじゃない。「口ではイヤイヤ言ってても、ほら、身体は反応してるぜ」ってなもんで、理性なんて吹っ飛んじゃうのがエロの力だ(あっ、これってエロ・マチズモだね。反省!)。
●無駄
プリンスがエロをテーマにしたのは、理性的なものへのプロテストだったんじゃないか。バタイユは、非理性的なもの、無意味なものの重要性を指摘した。「非-知」とか「呪われた部分」とか難しい言葉を使ってるので本当のところはよく分からないけど、たぶんそうだ。だって、人間だけがそれをするんだから。あらゆる動物のなかで、人間だけが生殖を伴わないセックスをするし(それがエロティシズムだ)、生命の維持には不必要な芸術なるものを生み出した。バタイユによると、芸術は無駄だからこそ意味があるんだそうで、そうすると、この映画の無駄な演出も重要かもしれないと思えてくる。
本作には、ライブシーンの合間にちょこちょこ、スタジオセットでの寸劇シーンが入る。プリンスが裏道で女の子を追いかけたり、楽屋で居眠りしたり。でも、それらがどういう意味を持つのか、コンサートとどう関係するのか、さっぱり分からない。監督もプリンス自身だから、ちゃんとした意図はあるはず。でも、ディープなファンなら、あるいは歌詞が理解できれば分かるのかもしれないけど、どうも無駄なシーンとしか感じられない。いや、バタイユに沿えば、この映画自体が無駄だってことになる。まあ、芸術が無駄なものだってことはあたりまえだし、その無駄なものがないと人間は生きていけないというのも事実。ここにも、所与のものとしての矛盾がある。
プリンスが抱える矛盾は「ほこ×たて」以上だ。これが、いまプリンスに触れる大切さだ。いま、繋がり症候群に陥った人々は、現実の関係性よりもネット上の関係性を重視するという転倒を、平気で肯定している。人々は常にメッセージを発し、犬が電柱におしっこをひっかけて位置情報を刻み込むように、自分の足跡を残していく。ゲートを通るたびに個人情報が電子の網を駆け巡り、自販機で買うジュース一本ですら機械まかせだ。自由を求め、多様性が尊ばれる一方で、監視されたがっているし、管理されたがっている。ラブとピースは別物だし、エロスとタナトスはお互いを見えにくくしている。日本ではすっかり過去のひと扱いだけど、プリンスが抱える矛盾はそのまま、いまを生きる僕らの矛盾とパラレルだ。だから、この映画で、歌詞に日本語字幕が付かないのは問題だ。これじゃあ、プリンスのメッセージが伝わらないじゃないか!
…だけど、それでいいのかもしれない。いくら世界が矛盾に満ちていたって、僕らはそれをやり過ごして進んでいく。解決しようのない矛盾に、ときに抗い、もがきながら、容赦なく過ぎていく時間を生きていく。僕らにできることといえば、ほんのひととき「時代の印」を見つめること。それがピースマークであればいいけど、そんな保証はどこにもない。「本当に人は死ぬまで幸福になれないという/Some say a Man ain’t happy unless a Man truly dies」のだから。それに、この圧倒的なライブ・パフォーマンスに、そんな矛盾や絶望や諦念は感じられない。音楽は、理性ではなく感情に訴えるものだから。矛盾を押し殺して、エンタテインメントは進んでいく。ショウ・マスト・ゴー・オン!
マイケルもマドンナも超メジャーなエンターテイナーで、映画とも積極的に関わったけど、そのステージを記録した本格的なライブ映画は作らなかったし、作っていない。バックステージやリハーサルをフィーチャーしたドキュメンタリーはあるけど、ミュージシャンなのに全編がライブという映画はない。映画(俳優)にうつつを抜かしたのはプリンスも同じだけど、この映画を作った。これだけで、プリンスの勝ち。これだけは、いささかの矛盾もない、確かなことだ。ひょっとしたら、合間に入る寸劇は、映画館で踊り出さないように観客をクールダウンさせるための計算かもしれない。さすが天才! 戦慄の貴公子!!
プリンスがデカく見えるのは映画のマジックじゃない。ひとりの矛盾に満ちた男が自らをさらけ出して屹立する。そんな、裸になれる人間の勇気だけが使えるマジックが、プリンスをデカく見せている。
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【映画情報】
『プリンス サイン・オブ・ザ・タイムス』
(1987年/アメリカ/HDニューマスター/84分)
監督:プリンス
撮影:ピーター・シンクレア
出演:プリンス、シーラ・E、シーナ・イーストン他
2014年1月25日(土)より、渋谷HUMAXシネマ、吉祥寺バウスシアター他にて公開
全国順次ロードショー!
【執筆者プロフィール】
越後谷研 えちごや・けん
1965年生まれ。元雑誌編集者、ライター、DTPオペレーター。 十数年のブランクを経て、最近少しずつ文章を書き始めている。