【Review】写真的記憶とは何か――「原始の記憶」を追い求めて/上田義彦「M.Ganges」展 text 影山虎徹

© Yoshihiko Ueda

写真家の上田義彦自身が主宰を務めるギャラリー916で「原始の記憶を辿る」ことをテーマにしたMシリーズが展示されている。今回は、インドのガンジス河で撮影された「M.Ganges」がギャラリーの壁を飾る。上田の写真に写されるインドの色鮮やかな民族衣装に陽があたる光景はどれも美しい。また、人々が裸になり聖なる河ガンジスで沐浴をする姿は神聖であり、それまで受け継がれてきたインドの文化や伝統を感じさせる。

しかし、展示される写真のほとんどは、これらの光景をはっきりと見させてくれない。大半の写真はぼんやりとかすんでいて、そこからはっきりとした被写体の像や表情は見て取ることができない。私たちが、その写真から分かることは、そこで行われている行動(沐浴、着替え、礼拝、遊泳……)や風景(陽、河、空、街)のぼんやりとした様態である。我々はこの写真から何を受け取り、何を見ることができるのだろうか。

|記憶の働き

「視線の先にあるのは私の記憶、いや、遠い昔の何故か私自身のものではないと想える記憶」(展示会パンフレット、以下同じ)と上田自身は語っている。上田は「記憶」追い求め、ガンジスに赴き、アウトフォーカスで撮影をした。「写真は眼差しの記憶、遠い場所、過ぎ去った人々や時の記憶」とさらに上田は語る。上田が写真に使い追い求めるものは、自分自身やある何かに関する個人的な「記憶」ではないそれである。上田はそれを「原始の記憶」と呼ぶ。上田は、その「原始の記憶」を追い求め、ガンジスに辿りついた。そして、ガンジスを通し、「原始の記憶」を導き出そうとしている。

80年代からファッション写真家としてキャリアを歩み、広告写真と自らの作品との間を行き来しながら、自分の写真を見つめてきた上田にとって2011年の春に訪れた屋久島での撮影(『Materia』)は、彼の写真に大きな影響を与えた。90年代にアメリカのワシントン州で森を対象として撮影を行った上田だが、この作品(『QUINAULT』)と屋久島で撮られた森と間には、大きく異なる表現の違いが見て取れる。

『QUINAULT』では、シーン全体にはっきりとピントが合っており巧妙に計算されたアングル、構成を観ることができる。それに対し『Materia』では、明らかな露出オーバーや核となる巨木を隠して撮ることをしたり、部分的にボケているといったような技術的ミスとも呼びたくなる表現手段が用いられている。この表現手段の変化は、自分の理想を追い求める完全主義的な写真者からカメラが捉える偶然性を愛する撮影者への変化を表しているように感じる。

そして、これは上田自身が対象を個物として捉えるのではなく、それに関わる様々な要因(例えば、葉の影から差し込む太陽の陽)をも撮影対象としたことを示している。この『Materia』での撮影で上田の撮影対象は自然界全体に向けられ、上田自身も自然界が作り上げる歓喜に魅了される撮影者となった。

© Yoshihiko Ueda

上田が求める「原始の記憶」、さらに言えば写真が我々に見せてくれる「記憶」とは何だろうか。この問題を考えるにあたってフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの哲学をここでは参照したい。ベルクソンの考察が身体の知覚のあり方を根幹に置いており、上田の言う「記憶」、さらに写真における「記憶」の捉え方に近いものがあると思われるからである。

ベルクソンは、「記憶」を脳のどこかに仕舞われているものといったような静的なものと捉えず、それ自体で存在し必要に応じて運動を繰り返すものとして捉えた。例えば、細道を歩いていて目の前から人が来た場合、我々はその対象に合わせてぶつからないように避けることが可能である。さらに、その対象が知人であれば挨拶や込み入った立ち話をすることもあるだろうし、避けたい人物であればその対象が見えたときに思わず来た道を引き返したり、顔を伏せて場をやり過ごすこともするであろう。

このとき、我々の「記憶」は、ここで行う行動に密接に関わっている。まず、対象を見るときに「どのくらい避けるか」ということはほとんど反射的に判断する。このときに用いる「記憶」は目の前から来るモノが人かどうか判断するだけで良い。しばらく歩いて知人であると気付いた場合、我々の「記憶」は、「どのくらい避けるか」というような反射運動と溶け合った記憶ではなく、その人との関係性や用事を思い出すに至るまで膨張する。そして、その対象に合わせて何をするべきかという行動を決定する。

この行動に関わっているのが「記憶」である。我々がとる行動の必要性に見合った分だけ「記憶」は生成される。「記憶」は、対象や知覚、自分の感情などに大きく関わり、現在の行動に応じて不断に膨張、収縮といった運動を行う。そして、この膨張、収縮といった運動を通し、私たちの記憶内容は根本からどの内容を変え続けていくのである。このように「記憶」と私たちとは一体化しており、離れることはできない。

© Yoshihiko Ueda


|カメラによる記憶

では、上田の関心にある「原始の記憶」とはなんであろうか。ベルクソンの記憶概念に沿って考えるならば、「記憶」の運動が最大限に膨張している様態のことであると言える。つまり、行動に適用される以上の水準を持った「記憶」、生き物の行動とは無関係に存在する過去、それ自体で存在する過去の「記憶」。これこそが、上田の求める「原始の記憶」ではないだろうか。

もはや、例えばそれを人と認識することもせず、宇宙の中にあるひとつの運動体として認識すること。そのときに、我々が行動のために行っていた「記憶」の収縮の働きのストッパーは外れ、「対象そのもの」を見ることができるのである。

このためには、自らも行動の主体であることを放棄し、ただじっと見る主体となる必要がある。そして、これこそがカメラの知覚なのだ。上田の「写真は眼差しの記憶、遠い場所、過ぎ去った人々や時の記憶」という発言は、カメラのこの知覚を理解し、自らもカメラの知覚として物それ自体を見つめていることからくるものであるように思われる。

カメラの知覚が我々の知覚と最も異なっている点は、知覚(見るという行為)が行動のために行われない点である。先ほども述べた通り、全ての行動には、その行動に合わせた水準の「記憶」が関わる。しかし、カメラの知覚は、目の前に対象に対して行動の必要性を持たない。このとき「記憶」は限りなく膨張を行う。目の前にあるものを行動のための収縮をすることなく見る。それは、我々の知覚とは比べ物にならないほど膨大な物質を見ることに他ならない。

© Yoshihiko Ueda


|光の痕跡が見せる潜在性

上田の写真における「記憶」は、このようなカメラの知覚の特異性から生まれる。そして、上田の写真の場合には、それを光や色といった物質に還元した表現に特異性があるように思われる。

写真を撮ることは、対象を光という物質の痕跡としてフレームに写し出すことである。冒頭で述べたように、上田の写真に写る大半の写真には、はっきりと被写体は写らない。その代わりに写真の本質である光の痕跡が、光や色彩となって写し出される。それは、飛躍的な意味でなく――記号学者パースが写真をインデックス(指標的)な記号であるとしたその意味において――光という物質を通して被写体と繋がっている。カメラの知覚にとっては、そこに写っているものが人であろうと動物であろうと物であろうと関係ない。

カメラの知覚は、行動をすることをしないがゆえに収縮されることなく、全てをありのままに写し全てを「記憶」する。我々が、忘却の彼方、見ることすらできない無限の潜在性を余すところなくフレームに収める。記憶内容が私たちの行動のために収縮され、変えられているとしても写真に蔓延している光という物質が持つ潜在性を疑うことはできない。そして、我々は光という物質を通してその潜在性と交流するのである。

写真は、対象がカメラの前に居たことのみを提示する。そして、それは光の痕跡という物質によって届けられる。アウトフォーカスで全体がぼやけた写真は、被写体の存在を曖昧なモノとするのではない。むしろその逆に、我々にその鮮やかな色やそのような形があったことを光を通して教えてくれる。被写体を光、色に還元し、そこに写る対象の痕跡を見せる上田の写真は、溢れ出さんまでの無限の潜在性を「記憶」として我々に提示している。

ベルクソンは、「記憶」は際限なく膨張していくと宇宙全体の「記憶」とひとつになると言った。そのとき、見える世界は豊かな物質に溢れかえる世界である。翻って、豊かな潜在性に溢れ帰ったありのままの世界を見ることが、宇宙全体の記憶、言わば「原始の記憶」と繋がることなる。写真は、その豊かな物質の世界の一瞬をタブローに写す行為でしかない。しかし、その一瞬は豊かな物質に溢れた潜在性を見せてくれる。我々は行動をする生命体であるがゆえに、その潜在性の中では生きていくことは不可能である。それは、行動の必要性によって我々は見ることに制限を加えているからに他ならない。それは、あくまでも瞬間的なものとして私たちに到来する。

「ぼんやりとした光と影、色と形だけが残り、不思議な懐かしさが強く心に染み込んできて、突然の嗚咽となって私を襲う」(上田義彦)

© Yoshihiko Ueda

|開催情報

上田義彦「M.Ganges」展
会期 : 4月18日金曜日 – 6月21日土曜日
会場:Gallery916 www.gallery916.com/
開館時間 : 平日 11:00 – 20:00 / 土曜・祝日 11:00 – 18:30
定休 : 日曜・月曜日(4月29日、5月4~6日、祝日を除く)
入場料 : 800円、学生 / 500円 (Gallery916及び916small)

★同時期開催 【News】5/31まで開催中★北原一宏写真展 『ENLATABLA DE CORTAR』Gallery 916にて

上田義彦 Yoshihiko Ueda

1957年生まれ。代表作に、ネイティブアメリカンの神聖な森を撮影した『QUINAULT』(京都書院、1993)、「山海塾」を主宰する前衛舞踏家・天児牛大のポートレイト集『AMAGATSU』(光琳社、1995)、吉本隆明や安岡章太郎といった著名な日本人39名と対峙したシリーズ『ポルトレ』(リトルモア、2003)、自身の家族に寄り添うようにカメラを向けた『at Home』(リトルモア、2006)、ミャンマーの僧院での白日夢のような時間の記録『YUME』(青幻舎、2010)、Leicaで撮ったフランク・ロイド・ライト建築のポートフォリオ集『Frank Lloyd Wright』(エクスナレッジ、2003)などがある。 2008年以後、Paris Photoなどの国際アートフェアに出展。2010年には Michael Hoppen Gallery(ロンドン、UK)および TAI gallery (サンタ・フェ、USA) にて展覧会を開催、「QUINAULT」シリーズを発表した。

2012年2月には、屋久島で撮り下ろした森の写真「Materia」を発表し、写真展をGallery 916にて開催。2013年3月には、屋久島の川をアウトフォーカスで撮ったシリーズ「M.River」、同年5月には福井県・東尋坊で冬の日本海にデジタル一眼で迫ったシリーズ「M.Sea」を発表。同年11月、Galerie taménaga Franceにて個展を開催。作品は、Kemper Museum of Contemporary Art (USA)、New Mexico Arts、HermesInternational (FRA)、Stichting Art & Theatre、Amsterdam (NLD)、Bibliothèque nationale de Franceなどにそれぞれ収蔵されている。

|プロフィール

影山虎徹 Kotetsu Kageyama
1990年静岡県生まれ。愛知大学文学部人文社会学科西洋哲学専攻を経て、現在は立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻前期課程在籍。 ロラン・バルトのイメージ論を中心に、映像イメージについて研究している。