【特別対談】それぞれのドキュメンタリー、それぞれのフィクション――『隣ざかいの街‐川口と出逢う‐』をめぐって(前篇) 星野智幸×岡本和樹


▲左|岡本和樹監督 右|星野智幸さん /撮影:石田亮介

岡本和樹監督作『隣ざかいの街−川口と出逢う−』(2010)の上映会が、7/2(月)UPLINK-FACTORYにて開催されます。

この作品は、川口市情報・映像メディアセンター メディアセブンで2009年11月~2010年3月に行われた映像制作ワークショップ「記憶の手触り-川口と出逢う-」を通して製作されたものです。
ワークショップは15名の映像制作未経験の参加者とともに、映画監督・岡本和樹の指揮、同じく映画監督・大澤未来によるサポートのもとに行われました。「ある街を複数の眼によって観察する」という趣旨に沿って、ビデオカメラを渡された参加者たちは街に出て、自ら被写体を探し、取材をしました。2週間に一度のペースで行われたワークショップの場で岡本・大澤とともにディスカッション、指導を重ね、最終的に岡本の手によって編集が行われ121分の本編が完成し、同時にワークショップそのものの風景をドキュメントした作品『記憶の手触り-川口と出逢う-』(監督:大澤未来/56分)も製作されています。
なお、今夏には同メディアセブンにて、岡本和樹演出による新しい映像制作ワークショップの開催を予定しています。

今回は上映会の開催にあたって、岡本監督のたっての希望で、小説家の星野智幸さんとの特別対談が実現しました。2回に分けてお送りします。なお全文は7/2の上映会にて配布のパンフレットに収録されています。

|上映会概要

日時|2012年7月2日(月)19:00開場/19:30上映開始
会場|UPLINK-FACTORY http://www.uplink.co.jp/top.php
料金|1000円(ドリンク付き/予約できます)
上映作品| 『隣ざかいの街−川口と出逢う−』(2010)
トークゲスト|諏訪敦彦(映画監督)
         萩野亮(映画批評/neoneo編集主幹)
         岡本和樹(本作監督)

※ご予約などくわしくはこちら

 

 ▲『隣ざかいの街‐川口に出逢う‐』より

|震災後の状況で

 岡本:今回対談をお願いしたのは、もともと僕が星野さんのファンだったということもありますし、震災後の状況の中で、星野さんは、あらゆる表現者の中でも、最も誠実に、発言をし、作品を作っているなという思いが、僕の中に強くあったからなんです。特に、現在「群像」に連載中の『夜は終わらない』という作品で、「自己」と「他者」との間にある問題を描いている。その点こそが、現在の社会状況で、精神的な部分においては、最も深刻な問題なのではないかと僕は思っているんです。それは被災地であれ、被災地以外であれ、多くの人が共有しているものなのではないか。多くの人が、少なからず、考え方や立場の違いなどから生じる人間関係の断絶や、そこからくる痛みみたいなものを感じて生活していると思えてならないからです。

不遜な言い方をすれば、僕らがこのワークショップ(以下WS)でやろうとしていたこと、そして次のWSでもやろうとしていることも、まさに同じ問題で、「私」が「他者」にどう出逢っていくか、「他者」の気持ちを少しでも解ろうとするかというものだと考えていたので、何か共通するものがあるのではないかという思いがありました。また、星野さんが「路上文学賞」というホームレスの人から作品を募る文学賞をやっていることとも、それは重なる部分なのではないかという予想もありました。まずは率直な感想をお聞かせください。

 星野:『隣ざかいの街』を一番最初に見たときの感想としては、ふつう表現者は自分の名前でやっていくから、そこに自分がどう出て行くかみたいなことを、特に若い表現者なんかは重視していくのに、岡本さんは自分のことが、どうでもいいっていうわけじゃないと思うんだけど、そうとさえ見えるくらいに、岡本さんの自我で場が作られていないっていうことにすごく驚いたんですね。そこにいろんな人が入って作っているので、みんな自分をどうにか見せてやろうとか、自分に拘泥するっていうところから離れた作品になっていて、それが見慣れないものになっていた。ドキュメンタリーで、こういう感触を受けるものがあまり無かったから、驚くと同時に、風通しの良さを感じました。

 それで、今回もう一度観ても、その印象は変わっていなくて、むしろそういうことがもっと必要になっているなってことを痛感しました。これは震災前からだけど、震災後に特に強く感じることの一つとして、「自分にわかるようにしてくれ」という傾向がある。要するに、情報でも政治的なことでもなんでも、自分にわかるようにしてくれる、自分にとっていいようにやってくれる人を評価するみたいな傾向がすごく強い。これは実際には無力感からきていると思うんですけど、誰かが何かをすぐにやってくれることばかりを強烈に望んでいるような感じが強くあるわけです。それに対して、このドキュメンタリーでは、否が応でも取材対象者にアポを取って行かなきゃならない。そもそもカメラをやったことのない人がカメラを回すっていうこと自体からして、なにか能動性がないとできないことだと思うので、そういう意味で、ここにはいろいろな意味での能動性の契機がたくさんあって、その能動性は最終的に他人と関わるということに向かっていくということに、すごく感銘をうけたんです。結局、否が応にも自分で知りに行って、自分で相手と関わって、そこで「これは言っちゃまずいことなんじゃないか」とかそういうことも自分で考えて、失敗もあったかもしれないけど、更にそれを不特定多数の人に見られて、いろいろ言われちゃうという経験もする。そうする中で人と会って、それは長い付き合いなのかもしれないし、その場で終わっちゃうかもしれないけれど、とにかく自分でやってみよう、自分で情報をとってみようとする。その結果、自分の住んでいるこの場所、この街を、自分で引き受けてみようと。そこまで言葉にしているかわからないけど、そういう気持ちが作った人たちの中に芽生えている感じを、特にメイキングを見て受けたんですね。これにはすごく感銘を受けました。それで、今必要なのはそれだなって、切実に思いますね。

 岡本:震災以後、星野さんもブログで似たニュアンスのことを書いていたと思うんですけれど(2011年6月1日のブログ「言ってしまえばよかったのに日記」)、考え方や立場は一緒なんだけれども、実際に会ってみると、どうもこの人は信用できないんじゃないかと思えてしまう人がいる一方で、考え方や立場は違うんだけども、この人は信用できると感じる人もいる。ここにある問題は、実はとても大事なことなんじゃないかと思っているんです。何よりもまず他者に出会うことで、何らかのイメージや壁が壊れる。そして、自分の考えを疑ってみると同時に、自分と違う考えも受け入れようとする。そこから、何かが始まると思っています。勿論、それによって、考え方も単純ではいかなくなり、更にどうしていいかわからなくなる場合も多いですが、そこは避けて通るべきじゃないものなのだと思います。そういうことが、あのWSで少しはできたのかなぁと思っているんです。

 星野:本当にそうですよね。特にあの本編で出てくる工場の中側っていうのがね、いつも見慣れている光景でありながら、全く越えられない世界だったわけですよね。越えようとも思ってもいなかった世界だけど、踏み込んでみることで、ものすごく具体的な、そこに人がいるっていうことがね。しかも、その人は中国から来た人で。あの中国の人は2度めにはかなりはっきり本音を言っていて、驚きました。最初に工場の中で言ってたのと違うじゃん、って思いながら。そういうのも、やっていく中で出てくるわけじゃないですか。

震災直後の情報手段としてTwitterがすごくありがたかった、と僕自身も感じていることでありながら、その後の言説状況では、もう本当にTwitterが嫌になっちゃっていて。要はワンフレーズ的な価値判断をどんどんどんどん推し進めることになってしまっているわけじゃないですか。言葉がコミュニケーションのツールではなくて、特に震災以後、それぞれの人が抱えているストレスや、ずっと抱えて行かなくちゃならない重苦しい日々の感じを発散させるためのツールになってしまっている。でも、その言葉をぶつけられるのは生の人間なわけで、ぶつけられた方はたまらないわけですよね。そしてさらにそのストレスが別の人にいくっていう、悪い連鎖になっている。具体的な人を目の前にしていないからできる言葉の使い方ですよね。

そう考えると、やっぱり必要なのは、まず一歩踏み出して、具体的な生身の人間と向き合うということ。生身の人間に向き合うっていうことは、自分をも相手側に曝け出さなきゃならないわけだから、一方的にぶつけるだけということはできない。だから、発言している自分も引き受けなきゃいけない。そのことが、本当は震災後の社会を、生きやすくするっていうのかな、この重苦しい感じを軽減させるために一番必要なことだと、すごく思っているし、岡本さんのTwitterとかを見ていても、それを繰り返し言っているように、すごく感じましたね。

 岡本:そういう意味で、カメラを持って都市に出ていくと、自分が思っているイメージが全部壊れていくんです。これは自分も含めてですが、Twitterだと自分がどこかで聞いたり、読んだりして覚えたことをただ吹聴しているだけという場合も多い。でも、街に出ていくとそれが全部壊れてしまう。そして、他人の意見が入ってくるともう何を言っていいかわからなくなってしまう。例えば、路上文学賞を昨日読んでいて思ったんですけど、社会運動などの文脈では「ホームレスの問題を自己責任論に摩り替えるな」とよく言われますが、実際のホームレスの人が「自己責任でホームレスになっている奴ばかりだ」というような主旨のことを書いていました(第二回路上文学賞:文学部門<佳作>鈴木太「ガリとカラスと鳩」と同時掲載されている鈴木太「絶望」参照)。当の本人にそう言われてしまうと、ではどう考えたらいいんだろう、どうしたらいいんだろうと混乱してしまう。ドキュメンタリーをやっていると、こういうことって本当に多いんですよ。でも、それが社会というか、他者がいる世界だと思うんです。(後篇につづく)

 

|プロフィール

星野智幸 ほしの・ともゆき
1965年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。2年半、新聞記者を務めた後、メキシコ留学。1997年『最後の吐息』で文藝賞を受賞し、デビュー。2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞。2003年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞。2011年『俺俺』で大江健三郎賞。他に、『ロンリー・ハーツ・キラー』『無間道』など。2002年と2004年〜2007年、早稲田大学で創作の教員を務める。

岡本和樹 おかもと・かずき
1980年生まれ。表現と現実との関わりをテーマに作品を作っている。これまでの作品:『帰郷‐小川紳介と過ごした日々‐』〈共同監督〉(2005年)/『あがた森魚 月刊日記映画「もっちょむぱあぷるへいず」2007年1月~8月号』〈共同監督〉/『演劇実験室・天井棧敷の市街劇や元劇団員の現在を追った『世界の涯て』(2007年)/写真映画「ヤーチャイカ」のメイキング『もうひとつのヤーチャイカ』(2009年)