【Interview】現代中国に渦巻く矛盾、人間の内なる暴力を問う――『罪の手ざわり』ジャ・ジャンクー監督 text 萩野亮

© 2013 BANDAI VISUAL, BITTERS END, OFFICE KITANO

第66回カンヌ国際映画祭脚本賞を受けたジャ・ジャンクー監督の新作『罪の手ざわり』が、2014年5月31日より渋谷Bunkamura ル・シネマにて公開されている(他全国順次)。
登録者がじつに5億人ともいわれている微博(ウェイボー。中国版Twitter)で中国全土を震撼させた4つの事件に着想したこの作品は、「暴力」への省察のうちに現代中国に渦巻く社会格差と矛盾を明るみにさらそうとする。土地に根づいた「武侠もの」に想像力を駆り立てられながら、まるで『一瞬の夢』(98)や『プラットホーム』(00)、『青の稲妻』(02)、『世界』(04)、『長江哀歌』(07)といったこれまでの監督作品の人物たちの「その後」を描くかのようでもある。
長篇劇映画としてはじつに7年ぶりの作品となったジャ・ジャンクー監督に話を聞いた。

(neoneo編集室・萩野亮)

 

ジャ・ジャンクー監督


|4つの事件

――今回の映画でまず鮮烈に記憶しているのが、トマトが路上に散らばる冒頭すぐあとのシーンでした。

ジャ・ジャンクー(以下JZ) この映画は4つのエピソードから成っていますが、どの場面から語り起こすかはずいぶん考えました。考えたすえに、自分の個人的な記憶に根ざしたものからこの映画を始めることにしたんです。

あのシーンはぼくの故郷である山西省で撮っているのですが、美術の学生だった20才くらいのころ、交通事故の現場に遭遇したことがありました。その経験がとてもショッキングで、陽差しが強いなか、あんなふうに路上にトマトが散らばっていた。そのトマトの赤が血のように見えたんです。

運転手はその事故でおそらく亡くなったと思いますが、同乗の青年が救急車や誰かの助けを待ってそこに立ち尽くしていたのを見たとき、若かった自分は何もしてあげられないということを感じました。人生のなかにはこうした残酷なことが起こるのだなということが鮮烈な記憶としてあり、4つのエピソードのはじめに置くことに決めたんです。

――この4つのエピソードは、中国で実際に起きた事件をもとにしていると伺いました。4つのケースのどこに興味をもったのでしょうか。

JZ 日々いろんな事件が起こりますから、ほかにも忘れられないものはたくさんありました。いままでのぼくの作品は、極端なできごとではなく、日常であったり、そのなかで生き抜いていく人びとを描いてきたのですが、人のありふれた日常のなかにも、暴力であったり異質なものが突出したりという極端なできごとは起こりうる。この4つのケースは、日常に発生する極端なできごとの、それぞれ異なる面をもったものです。

山西省を舞台にした1つ目のケースは、社会からもたらされた影響の強い暴力です。司法や法律の不公正さもあるし、何か行動しようとしても阻害されてしまう、そのことが彼を暴力に向かわせた。2つ目は、より個人に萌したもので、そこで生きていても希望を見いだせないような、田舎の窒息しそうな精神的な困難に根ざしています。3つ目の女性のケースは、ひと言でいうと尊厳の問題です。人間としての尊厳を傷つけられたときに、自分の価値を守るための、暴力に対する暴力としてあらわれる。最後のケースは、暴力には隠されたものがあるということ。「ちゃんと食べていけているの?」というような家族の心配であったりとか、直接的ではない隠された暴力的なもの。

「暴力」について考えるときに、この4つのどれもがまったく違う側面をもっている。それと同時に、撮影地が北から南へと移動するように、空間的に、またビジュアル的に異なるものとしてこの4つのケースを順に配置したということもあります。

――この映画を見ると、加害者に共感するところがあるのですが、実際に事件が起きた際の世間の関心のありかたはどうだったのでしょうか。彼らへの「共感」は、監督が演出したものなのでしょうか。

JZ 世論としても、彼らを理解しているんじゃないかとは思います。かつてに比べて進歩したと思うのは、善悪だけで判断するのではなく、複雑な世の中でなぜこうした事件が起こったのかを考えだすようになってきていることです。ただ裁判では「善か悪か」しか判断基準がありませんから、そこでは法律上の判断が出てくる。だからぼくらが映画を撮るのは、事件に対し、そういった法律的な善悪では計れない別の見方を差し出すということでもあるんです。

© 2013 BANDAI VISUAL, BITTERS END, OFFICE KITANO

|カタルシスを拒む「暴力」

――監督のこれまでの作品では、ひとつの土地、ひとつの空間のなかでの若者の閉塞感を描かれてきたように思います。けれども今回の映画では、山西や奉節など、これまでの作品ですでに聞きなれた土地を、むしろ人びとはあてどもなくさまよっています。

JZ 現代社会のなかで人が流動してゆくということはほんとうに重要なことだと思っています。「暴力」について撮りたいと思いながらもずっと決心が固まらなかったのは、「こういうふうに撮りたい」という決め手になるものがなかったからなんですね。ところがあるとき、昔からぼくらの国にある武侠小説であったりアクションものであったりというものを借りて現代を撮ってみたらどうなるんだろう、という発想が生まれたんです。

中国の武侠小説やアクションもののなかで、いちばん重要なメタファーは「渡世人」ということですね。武侠ものの主人公にとって、「移動する」ことは「世を渡る」ことであって、主人公たちは親の仇や何かを遂げるために「移動」している。そういう「移動する人物たち」というジャンルは昔からあったわけです。

もうひとつは、貧しい地方からゆたかな都市へ、西の陸の不毛から、東の沿岸へ、そうした流動社会のありようは方角としてもはっきりとあらわれているということです。人びとは自分が生きてゆくための可能性をもとめて移動するわけですね。この映画を見たあるかたに「きみの映画はひどい状況からひどい状況へ移行して終わったね」とふざけて云われたこともありますけど(笑)。

――今回の映画は、先のお話にもあったような武侠もの、とりわけキン・フー監督の映画から影響をうけたと聞きました。けれどもかつての武侠片に強固なカタルシスがあったのに対し、今回の映画にはそうしたものがまったくない、むしろカタルシスを拒否しているようにさえ感じられます。

JZ いままでぼくらが見てきたアクション映画というのは、まさに暴力によるカタルシスが最後にありました。けれどもぼくの映画はそれが目的ではありません。暴力を通して、いったいなぜこうしたできごとが起こったのか、その背景を考えたかったし、理解したかった。「暴力」に対する向き合いかたが違いますから、作品から受ける印象もまちがいなく違うはずです。

ぼく個人としては、最後のおだやかな結末をもつエピソードに、「何かつらいな」というものを感じます。程度の差はあっても、最後の青年のものがもっともはっきりとしない暴力であり残酷さなのですが、人間というのは長い歴史のなかで、たえず誰かに傷つけられているし、たえず誰かを傷つけている、ただそれはどんな「暴力」かはわかりません。

ぼくは100%こうした「暴力」がなくなるかといえば、決してそうはならないと思っています。より文明が発展して、より理性的になることで、それをある程度減らすことは可能かもしれません。けれどもぼくは、人間の本質的な部分に「暴力」が根ざしているじゃないかと思います。そうした無力感のようなものをこの映画を通して自分でも感じています。

――かつて監督は『青の稲妻』の短い演出ノートをこのように結んでいます。「わかるだろうか、暴力が彼らにとって最後のロマンであることを」。時代が移り変わって、今回の映画で描かれた4つの「暴力」もまた「最後のロマン」だったのでしょうか。またこの「ロマン」という語は何を指し示しているのでしょうか。

JZ その文章を書いたことはおぼえています。今回の映画に通じるものがあるとすれば、3つ目の重慶のエピソードがそうでしょうね。青年は、この村にいることがつまらない、銃声を鳴らす瞬間だけがスカッとする、という話を妻にする。彼は村の暮らしに自分のいのちを輝かせてくれるものを見出すことができなかった、そうした無力感とはだれもが闘うものですが、たとえばぼくの場合は映画を撮ることでそれを克服してきたところがあります。間違った選択だとは思うけれども、その人は銃声を聞くことに心地よさを感じてしまった。「ロマン」ということばはそういう意味です。

 

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