【Interview】小川プロの映画にはじめて“映像のアジア”を見た! 石坂健治さん(東京国際映画祭アジア部門ディレクター/日本映画大学教授)インタビュー

東京国際映画祭アジア部門ディレクターに聞く!
今観るから面白い!小川プロ特集2014年のツボ

6月21日(土)から『小川プロダクション全作品特集上映』が渋谷・ユーロスペースで開催される。解散から20年、今なお繰り返し特集上映される小川プロ作品の「よみがえり」の力に、あらためて驚嘆する。その源泉はいろいろ考えられるが、ひとつには、現在にもつながる「発見」の要素が、小川プロ作品の中には、たくさん内包されているからだろう。その思いを秘め、今回、ゲストトークのほとんどの回で聞き役をつとめられる石坂健治さん(東京国際映画祭アジア部門ディレクター/日本映画大学教授)に、「今観るから面白い!小川プロ特集2014年のツボ」をお聞きした。
(取材・構成 佐藤寛朗)


 

『ニッポン国古屋敷村』は、1984年の六本木凱旋上映でブランド力を高めた


——石坂さんと小川プロ作品の接点は、どういうところから始まったんですか

石坂 私は1960年生まれで、成田空港反対闘争の世代のシッポだから、「三里塚」シリーズは大学内で新左翼がやっている上映付きの政治集会なんかで見ていたのだけれど、そのときは小川紳介という監督名は全然意識していなかった。そもそも「作品」として静かに鑑賞するなんていう雰囲気ではなかったし。

それが、がらっと変わったのは、『ニッポン国古屋敷村』(82)がベルリン国際映画祭で受賞した(1984年1月)、そのあとですね。凱旋上映がその半年後に「シネヴィヴァン六本木」(1983-99年に存在したミニシアター)という、セゾン系の、ゴダールとかタルコフスキーをやるような、要するにアート系のおしゃれな映画館であったんです。のちに佐藤真(1957-2007)の『阿賀に生きる』(92)もあそこでやって、要するにヨーロッパのアートフィルムに加えて、いくつかのドキュメンタリーやアジア映画もあそこで上映されることで一種のブランド力が高まるんだけど、『ニッポン国古屋敷村』はその最初ですね。

だから、学生の分際で、六本木でやるなら見にいこう(笑)という、バブル前夜ならではのスノッブな気分もありました。それまでドキュメンタリーに縁の薄かった評論家たちもこの作品から参入してきて、映画好きとしてはこれは観なきゃ、という雰囲気があったと思いますよ。雑誌の『話の特集』に連載されていた蓮實重彦さんの句読点のない映画時評も、この映画を取り上げていて、すごいインパクトがありました。

——当時のミニシアターブームのなか、『ニッポン国古屋敷村』の印象はどのようなものでしたか。

石坂 「こんなすごい映画があるんだ」って、びっくりして一気にハマっちゃった(笑)。実は、あの映画は小川プロが当時住んでいた牧野村ではなくて、ちょっと離れた古屋敷村で撮られている。小川プロにとっても、古屋敷の人々は隣人とはいえ、他者といえば他者なんですね。自分たちの住んでいる村ではないところに通って撮っているという微妙な緊張感なり、はじめて接する人たちとのファーストコンタクトの部分も含めて、地元で撮らなかったがゆえの完成度の高さもあるのかなと、今にしてみれば思うんですけど。

そんなわけで、その2年後に完成する『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(86)は相当楽しみにして待っていました。あの映画の東京での封切館は(最近、閉館して話題になった)吉祥寺のバウスシアターだったけれど、イベント上映的なこともかなりやっていて、たしか観たあとで牧野産の米を買って帰った記憶があります(笑)。

映画としてのまとまりでいえば、『1000年刻みの日時計』よりは『ニッポン国古屋敷村』の方に軍配が上がると思うんです。でも『1000年刻みの日時計』は、それまでドキュメンタリーの範疇に入ってこないような撮り方があったり、劇映画みたいな要素が入っていたり、演劇的な要素が入っていたり、なにか未知のものにぶつかっているような、非常にゴツゴツした感じで、『ニッポン国古屋敷村』の「いい映画観たなあ」というのとは違う感覚がありました。

『ニッポン国古屋敷村』 

小川紳介に“映像のアジア”を見た


——石坂さんが『ニッポン国古屋敷村』や『1000
年刻みの日時計』でハマった感覚というのは、もう少し俯瞰的に言うと、どのような映画体験なのですか。

石坂 たとえば私と同世代の是枝裕和監督(1962−)や、ちょっと下の行定勲監督(1968−)にしても、1980年代のあの頃の映画で影響を受けたのは台湾ニューウェーブの作品群だと公言しています。それはどこかで小川プロにも通じているところがあって、私などは80年代、ホウ・シャオシェン(侯孝賢 1947-)の初期作と小川プロの後期の作品を観て、生まれつつある映画の新しい形を感受したような気がします。そういえば是枝さんも、この特集のチラシのコメント欄に80年代の影響として小川・土本(典昭)の名もあげていますね。

あの頃、ホウ・シャオシェンを見たときに、多くの論者が「これは古き良き日本だ」とか言ったわけ。確かに日本統治時代の家屋がそのまま残っていて、そこに台湾人が住んでいるのだから、日本人にとってはデジャビュ感覚みたいになるんだけど、そういうレベルを超えて「新しいけど懐かしい」「懐かしいけど新しい」みたいな不思議な世界ができあがっている。それは映像の力です。特に『童年往事 時の流れ』(85)『恋恋風塵』(87)のキャメラマンのリー・ピンビン(李屏賓)の映像は圧倒的でした。のちに是枝さんは『空気人形』(09)、行定さんは『春の雪』(05)でリー・ピンビンと一緒に組んで、それぞれ20年越しのラブコールを実らせているけど、それぐらいの強い影響力がありました。一方で小川プロはたむらまさき(田村正毅)さんの映像ですよね。自然、というとちょっと違うんだけど、田んぼや畑や森、空でも川でも何でもいいけど、ありのままの存在が映っている。ありのままというとおかしいけど、曰く言いがたい存在論的なありのままさ。うーむ、うまく言えないけど。台湾ニューウェーブと小川プロ作品は、監督の力はもちろんだけれど、キャメラマンのつくる画の力にハマったという感じがありますね。

言ってみれば、それは「映像のアジア」だったんだ、と今になって思うんです。映像のアジア、アジアの映像というものを、台湾ニューウェーブと後期小川プロ作品で、私たちははじめて経験していたのではないだろうか。湿気があって、稲が育っていて、ジトーッとしている。西洋発の映画というのは、乾いたコントラストの世界が、白黒時代でもカラーになっても乾いたままでスコーンと抜けているけど、湿った、原色ではない、どんよりした空気の中に稲が映っていたり田んぼがあったり、大家族が皆でご飯を食べたりしている、そういう「映像のアジア」を、あの頃いくつか国をまたがる形で経験したと思うんです。晩年の小川紳介は、稲作文化をきちんと映像化した監督としてアジアでは認識されていた部分がありました。1992年に小川さんが亡くなったとき、台湾のウー・イフォン(呉乙峰1960−/『生命(いのち)―希望の贈り物』など)たちが直ちに追悼上映会を開催して追悼ビデオも作っていますが、それを見ると一貫して稲作を撮った監督というまとめ方です。彼らが後期の小川紳介に影響を受けていたことがよく分かります。

——“映像のアジア”の先駆者ということで、小川紳介のアジアの映像作家への影響力は大きいのですか。

石坂 ベルリンでの受賞以来、国際的な交流の場に出ていくことが多くなった晩年の小川さんに直接接したのは、台湾のウー・イフォン、中国のウー・ウェンガン(呉文光1956-/『私の紅衛兵時代』など)、韓国のビョン・ヨンジュ(邉永ジュ(「女」へんに「主」)1966—/『ナヌムの家』など)、フィリピンのキドラット・タヒミック(1942-/『僕は怒れる黄色 虹(キドラット)のアルバム』など)など、いまやアジア各国のリーダー格になっている作家たちがいますが、彼らはぎりぎりリアルタイムで小川作品を観て、小川ファンになった。だけどその後の世代にとっては、翻訳書の影響が圧倒的に大きいですね。

小川さんの語りの記録で山根貞男さんが編集した『映画を穫る ドキュメンタリーの至福を求めて』(1993年に筑摩書房より刊行→現在は太田出版の増補改訂版)は、最初は90年代に台湾のペギー・チャオ(焦雄屏)という評論家が翻訳して出版し、その後いちど絶版になったんですが、今度は日本語の堪能なフォン・イェン(馮艶1962−/『長江にいきる 秉愛(ビンアイ)の物語』など)たちが尽力して2008年に中国で出版され、いまなお中国語圏のインディペンデント映画作家たちのバイブルになっています。面白いのは、映画作りの技術面のお手本というよりは、精神的な指南の書になっている点。映画的な技法でいえば、彼らはむしろフレデリック・ワイズマン(1930-)の「観察映画」のような、改革開放の後に紹介された作家の影響を受けていますが、小川紳介は「アジアの作家たちよ、がんばれ!加油!」と檄を飛ばす存在として、精神的な支柱になっています。

【次ページへ続く】