【Interview】型破りな父 エドモンド・ヒラリーの偉業――『ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂』 ピーター・ヒラリーさん text 萩野亮

1953年5月、ニュージーランド出身の登山家エドモンド・ヒラリー卿が、テンジン・ノルゲイとエベレスト初登頂を遂げた。映画『ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂』は、俳優による再現映像や貴重な証言の数かずによって、その偉業にふれるドキュメンタリー・ドラマだ。
2013年の初登頂60周年を記念して、ヒラリー卿の母国ニュージーランドで制作されたこの映画は、同じくニュージーランドが生んだ異才 ピーター・ジャクソン監督による『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのスタッフが関わっていることでも特筆される。

公開を機に来日されたのは、エドモンド卿の長男で、自身も登山家であるピーター・ヒラリーさん。アドバイザーとして作品への協力を惜しまなかったヒラリーさんにお話をうかがった。(取材・文=萩野亮、撮影=内田啓太氏[共同PR ])

 

――映画の制作にヒラリーさんも協力を惜しまなかったと伺いました。今回の企画をもちかけられたときにどんなふうに感じられたのでしょうか

ピーター・ヒラリー(以下PH) お話をいただいてすごくうれしかったですね。エドモンド・ヒラリーは非常によく知られた人物ですし、これまでもその生涯については何度も劇映画やドキュメンタリー映画の題材になってきました。20世紀を生きた男のなかでも、ものすごい人生を歩んできた数少ない人物のひとりです。

エベレストに登り、南極を探検し、ガンジス川をジェットボートで下り、ヒマラヤに学校を建てた、そうしたいろんなことをしてきた人なので、父のドキュメンタリーとなると、エベレスト登頂について5分、南極2分、ヒマラヤの学校1分、とか、そういう扱いだったんです(笑)。今回はエベレスト登頂というひとつのテーマにしぼっていた。テンジン・ノルゲイ氏と初登頂に成功したというのは、もちろん父の人生のなかでとても大きな出来事だったので、これはいい企画だと思いましたね。

ぼくからは、父についてのいろんなバックグラウンドについてお話しさせてもらったりとか、こういうふうにしたらいいんじゃないか、というアドバイスやフィードバックをしたり、そういうことを協力させてもらいました。

――具体的にはどのようなアドバイスをされたのでしょうか。

PH 俳優が演じることについては当初から決まっていたのですが、当初はエベレストで撮影しようという話だったんです。けれど、エベレストは撮影できるような生ぬるい環境ではない。いろんなアドバイザーがこの作品には就いていますが、ぼくはニュージーランドの南アルプスで撮影したほうがよいと提案しました。ビジュアル的にも環境的にも嶺の感じがすごく似ているんですよ。頂上手前の有名な「ヒラリー・ステップ」も、とてもよく似たスポットが南アルプスにある。この映画ではそうした場所をいろんな角度から撮影しています。

――今回の作品は3Dです。ヒラリーさんから見て、映像の臨場感はどうでしょうか。

PH うまくいっていると思いますよ。最初に話を聞いたときは「これは新しい発想だな、大丈夫かな」と思っていたのですが(笑)、スクリーンで完成版を見たとき、そもそもエベレストに登るということはとても3D的な体験なんだということを再度実感しましたね。道を歩く、というような単純なことではないんです。尾根伝いに嶺を登っていったりだとか、まさに360度的な体験なので、そこをうまく再現していると思いました。こんにちの映画観客というのはとても目が肥えていますから、上質で新しい体験をつねに求めていますよね。そういう意味でも観客の期待にかなうものになったと思いますよ。

――日本の記録映画作家の土本典昭氏は、「記録なくして事実なし」ということばを残しました。登山もまた記録映像がなければ登頂の事実が証明されない領域だと思うのですが、登山と記録との関係についてはどのようにお考えでしょうか。

PH 登山の技術と同様に、記録の技術も着実に進歩してきましたね。けれども、ただ記録しただけでは、映像にふれた人に十分に伝わるかといえば、必ずしもそうではありません。記録したものをどう見せるかは、メディアや監督の力量にかかっています。アインシュタインが相対性理論を発表したからといって、ただそれを知らされてもわたしたちは理解しているわけではありませんよね(笑)。

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――つい最近も、エベレストでシェルパのかたが事故に遭われたという報道がされていました。いまシェルパの位置づけというものをどのようにお考えですか。

PH ネパールは非常に貧しい国です。建設現場に出稼ぎに行ったり、英国軍やインド軍の傭兵になったりしないと生活が成り立たない家庭が多くあります。そうしたなかにシェルパという登山隊のポーター役の仕事もあります。つまり、とても危険な仕事をしなければならない人たちが多くいるわけです。今回の事故はとても残念ですし、亡くなった彼らだけでなくエベレストのふもとの村落にも多大な影響をあたえています。たとえばぼくが何度か訪れたクンジュムという村では、3人の青年がこの事故で亡くなっていますが、それは3つの家庭が一家の大黒柱を失うということでもあるわけです。

各国の登山隊は何度も登頂に成功しているわけですが、遠征が重ねられてゆくうちに技術も進歩し、より安全になったと思いたいものです。けれどもことエベレスト登山に関してはそうではありません。人びとが遠征を繰り返しているからといって、それだけ安全になったとはとてもいいきれません。それだけ大変な山なんです。これからも多くの人が登ることと思いますが、残念ながらその分犠牲になる人も出てくると思っています。

エベレスト観光は成熟してきているといわれますが、去年だけでものべ8人のかたが亡くなられています。それは報道されていません。そろそろ安全に人を登らせる手段を組織だって考えるべき時期に来ているように思います。フランス東部にシャモニー=モン=ブランというアルペンリゾートがあるのですが、そこではノウハウが蓄積されていて、観光を独自にアレンジしてきた歴史があります。そういったところではどういう策が講じられているのか、そうしたことを皆で考えなければなりません。

機材の改良が必要だとか、アイスフォールまではヘリで機材や資材を運ぶべきだとか、ロープウェイを作るべきだとか、いろいろ話は出てきているんです。なかには、「いやいや、それは登山の精神に反するよ」というような意地もあったりするのですが(苦笑)。とあるアメリカのジャーナリストは、シェルパはイラクの前線に立つ兵士よりもはるかに危険な状態にさらされていて、死亡率も高いといっています。

――ヒラリーさんはヒマラヤで非営利の事業をされているとうかがいました。

PH 父から受け継いでいる仕事です。父は登山を通じて地元のシェルパたちとの交流が深まっていくなかで、彼らの手助けになることをしたいと思っていました。それで何が助けになるのかを彼らに聞いてみたところ、一様に子どもに教育を施したいといいました。それで父はヒマラヤに学校を建てたんです。彼らが寄付してくれた土地を使って、42校ほど建てました。その仕事をぼくも引き継いでいます。あとは飲用水のシステムを作ったりですとか、そういうこともやっています。それまでは女性たちが何十キロも歩いて水を汲んでいたんです。

――あらためて今回の映画は、ヒラリーさんにとってどのような作品でしょうか。

PH この作品はエベレスト初登頂ということで、人が未踏の領域に挑戦するという逆境のなかでも、限界を超えて偉業を成し遂げるということを描いていると思っています。そういう人間の偉業は、のちの人間の道を拓くことでもあると思うのですね。現に1953年当時は医療従事者でさえ、人間の身体が8800メートルの高所に耐えきれるのかが議論になりました。でもそれが可能だということが証明されて、いまは当時よりももっと険しいルートで登る人も出てきています。

今後もこういうプロジェクトがあればぜひ協力したいし、ぼく個人としては今後もヒマラヤに通って、ネパールの若い人たちを助けていきたい。シェルパの事故で一家の大黒柱を失う子どもたちも出てきているわけですから、そうした子どもたちがちゃんと教育を受けられるように協力していきたいですね。(了)

(2014年5月15日 KADOKAWA本社にて ※産経新聞社、共同PR社との共同取材)

|公開情報

ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂 
Beyond The Edge 3D
監督・脚本:リアン・プーリー 製作:マシュー・メトカルフ 
編集:ティム・ウッドハウス 撮影:リチャード・ブラック
キャスト:チャド・モフィット、ソナム・シェルパ、ジョン・ライト、ジョジュア・ラター、ダン・マスグローブ、エロール・シャンド、フリンジ・ツェリン、ジミー・クンサン
2013年/ニュージーランド/英語/93分/カラー/アメリカン・ヴィスタ/5.1ch
配給:KADOKAWA 宣伝:ポイント・セット 協力:ニュージーランド政府観光局  
公式サイト tenku-itadaki.jp
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|プロフィール

ピーター・ヒラリー Peter Hillary
1954年12月、ニュージーランドのオークランド生まれ。2人の妹サラとベリンダがおり、エドモンド•ヒラリー卿と彼の最初の妻ルイズの間で生まれた3人兄弟の長男。
エベレストに5回行ったことがあり、そのうち1回は西稜ルートで8,300メートルに到達、2回はサウスコル・ルートで頂上まで到達した。1990年のエベレスト山の初めての登頂で、彼とエドモンド卿は偉業を成し遂げた初めての親子となった。2002年5月の2回目の登頂は、1953年のエドモンド・ヒラリー卿とテンジン・ノルゲイの歴史的な初登頂の50周年を記念したナショナル・ジオグラフィック・ソサエティの登山の一環だった。その記念登山には、ピーター・ヒラリー、ジャムリン・ノルゲイ、ブレント・ビショップ、エドモンド卿の子供たち、テンジン・ノルゲイ、1963年に頂上到達に成功した初のアメリカのチームのメンバーのバリー・ビショップ博士が集まった。
また、彼はオーストラリア・ヒマラヤ基金の責任者でもある。ネパールの高高度の地域でヘリコプターによる独立系救援サービスを運営・管理するために立ち上げた非営利の独立系基金であるEverest Rescue Trustの後援者でもある。

萩野亮 Ryo Hagino(取材・文)
1982年生。映画批評。本誌編集委員。編著に『ソーシャル・ドキュメンタリー』(フィルムアート社)。