【Interview】劇映画だけでは撮れない人の魅力に気付く——『中国・日本 わたしの国』ちと瀬千比呂監督インタビュー

中国残留邦人の2世のパワフルな女性の個人史に光を当てる
劇映画志望の監督がドキュメンタリーを撮って発見した魅力とは?

現在ユーロスペースで公開されている『中国・日本 わたしの国』。
過去の歴史的なつながりや、最近の盛んな経済交流もあって、日中間に生きる人々のドキュメンタリー映画は双方で多数制作されているが、この映画は、山田静さんという中国残留邦人の2世のパワフルな女性の個人史に徹底的に光を当てているのが特徴だ。なぜ、そこを貫いたのか。この作品が劇場公開デビュー作となるちと瀬千比呂監督に話を聞いた。
(取材・構成 佐藤寛朗)

 

初の劇場公開作品がドキュメンタリーになった

——監督はもともと劇映画を志向していたそうですが、初の劇場公開となるこの『中国・日本 たしの国』は、ドキュメンタリー映画という形式になりました。なぜそうなったのですか。

ちと瀬 僕ははじめからドキュメンタリーを志向していたわけではありません。劇映画の助監督を長年やっていましたし、初の監督作品の準備もしていましたから。ところが、その劇映画がちょっと頓挫してしまいまして、その時にプロデューサーから「こんな面白い人がいるんだけど、撮らないか」と声をかけていただいたのがきっかけです。彼がたまたま乗ったタクシーの運転手が静さんで、彼女の身の上話を、1時間の道中、延々と聞かされたそうなんですね。

僕が昔、原一男監督のCINEMA塾に通っていたのをプロデューサーは知っていて、それで声が掛かったと思うんですが、正直、僕としては、ドキュメンタリーをやっていたことすら忘れていたというか、端の方に置いていたんです。

——今も原さんは「CIMEMA塾」の講座をアテネ・フランセで開催していますが、そこに行ったきっかけはどのような理由ですか。

ちと瀬 その頃、原さんは『全身小説家』(94)を撮り終えて、劇映画を撮ろうと志向していたので、CINEMA塾では深作欣二監督と「ドキュメンタリーとフィクションのボーダーを越えて」という対談をやっていたりしました。僕の学生時代ですから、1995年の話です。

今思うと、僕は劇映画に行こうとしている原さんに魅力を感じていたのかもしれません。原さんのドキュメンタリーが面白いと思ったのも、ドキュメンタリーという枠でやっている感じがしなかったからなんですよね。面白い「映画」であれば、ドキュメンタリーであろうと劇映画であろうと関係ない。「面白い映画」を目指していた、ということだと思いますね。

——そもそも「映画」にのめり込むきっかけは何だったのですか。

ちと瀬 もとをただせば、高校生の頃、実家で小川プロの『ニッポン国古屋敷村』をみたことですかね。1990年代にBS放送が始まった頃、長野の僻地にある実家のそばに、共同アンテナというのが建ったんです。山間部の村落の一カ所につけちゃえば、村のみんなが衛星放送を見られるという。まだBSがぜんぜん普及していなかった頃の話です。そこで偶然放送されていた『ニッポン国古屋敷村』に、えらく感銘をうけましてね。

失礼な話、僕の実家も田舎なんで、もっと田舎があるんだ、ということにもびっくりしましたが(笑)、大の大人が模型を前にして冷害の検証をしたり、みんなで何かをやっている姿にとても感動したんです。後半の村の人々の話も魅力的で、それまで映画って画一的なコードがあり、それに沿って撮られているという私の浅はかな先入観があって、作家の個性は出しにくいメディアだと思っていたんです。けど、個性を出していいんだ、という驚きね。具体的には『ニッポン国古屋敷村』と寺山修司の『田園に死す』だったんですけれども、映画って作家の個性を表現できるメディアなんだと、そこで気づいた気がしますね。

山田静さん、という「個」を描く

——中国残留邦人2世というのは、社会的な文脈で捉えることもできますが、この映画では山田静さんという「個」を徹底的に描いており、それが映画の「個性」につながっているように思いました。撮影中は、そのような視点を意識していましたか。

ちと瀬 ひとつ種明かしをしてしまうと、準備していた劇映画が群像劇で、何人もの主人公がいたんで、ドキュメンタリーをやるなら群像劇とは逆の作品にしたい、という思いがありました。でもそれが山田静さんという個人を描くことで良いのかどうかは、最初は分からなかったですね。

はじめの頃は、僕も彼女を通して中国を知りたい、という発想で接していました。静さんのご苦労は、共産圏にいる人ならでは、というところを撮りたいと思っていたんですね。実際に文化大革命の時には差別を受けていますし、他人に尽くすことに喜びを感じる傾向のある人でしたから。

彼女も最初「日中の架け橋になりたい」ということをおっしゃっていた。でも僕には、その言葉は中国残留邦人2世の常套句のように聞こえてしまって、ストレートには使えないなという思いもありました。

静さんの話を聞いていくと、最終的には痴話げんかとか夫婦関係とか、いつも人間的な葛藤の話になっていく。彼女は、国から受けた制裁云々という話よりも、そういう話をする方が生き生きとしてくる。国のことを意識して撮っているうちに、だんだん人の方に寄ってきた、そういう映画じゃないですかね。誰が撮っても、静さんと接すればそのような映画になる気がしますね。

もっとも撮っているあいだは全くの手探りで、本当にどうしていいか分からなかったんで、最初の1年は、とにかくフラットに静さんのところに通って、彼女の話を聞くことに徹していました。

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映画『中国・日本 わたしの国』より(山田静さん)