【Interview】人形に魂を込めることが、虐殺へのレジスタンスだった――『消えた画 クメール・ルージュの真実』 リティ・パニュ監督に聞く text 萩野亮

リティ・パニュ監督の最新作『消えた画 クメール・ルージュの真実』が7/5(土)より渋谷ユーロスペースで公開される。極左政党クメール・ルージュの時代に生を享け、フランスにおいて劇映画とドキュメンタリーの双方でキャリアを重ねてきたリティ・パニュ監督は、『S21 クメール・ルージュの虐殺者』(2002)、『ドッチ 地獄の鉄鋼所長』(2011、日本未公開・未上映)といった近作でクメール・ルージュの虐殺を描いてきた。これらの作品に一貫している出発点は、「カンボジアの虐殺には映像が欠落している」という事実と認識だ。『消えた画』は、監督みずからの物語を土人形とジオラマによって再現している。

なお、公開館のユーロスペースでは、ロードショーに先駆けて作家初の特集上映「虐殺の記憶を超えて」が開催されている。

(通訳=人見有羽子氏、取材・文=萩野亮 )

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|映像は見つけなければならない

 ――今回の映画でまず関心をもったのは、パニュ監督ご自身の物語を語られていることです。

 リティ・パニュ(以下RP) どんな映画でも自分の物語は入り込んでくると思うのですが、今回の場合はその分量が多いということですね。人形を使って一人称で語らせていますから、自分というものがよりストレートにあらわれているといえるかもしれません。自分自身を語るというのは、非常にデリケートなところがあります。ですから、それにふさわしい方法を見つけなければなりませんでした。今回の映画のような方法を採ったことで、わたし個人の物語ではありますけれども、だれもが共有し、アクセスできるような映画になったのではないかと思っています。

ドキュメンタリーの場合は、多分に映画的に新しいもの、ひとつの映画的提案をしないといけないと思っています。同じテーマをくりかえしくりかえし語ることに甘んじていてはいけません。今回の映画について、とりわけこれは大事なことです。

もちろん語る内容も大事だけれども、どういう表現の形式で語るのかということが、とても重要になってきます。そこには一気にたどり着くのではなく、映像や音響、ナレーション、そういったものを重層的に組み合わせることが必要です。プロパガンダ映像とはまったく別のものを作らないといけません。

――人形とジオラマで再現されるかつての光景は、おどろくほどディテールに富んでいます。あれらの光景ははっきりと監督のなかに記憶されているものなのでしょうか。

RP すべてではありませんが、かなりのものははっきりと見えています。ひとは、時間とともに記憶は薄れてゆくといいます。あるものはたしかに消えてゆく、けれどもいっそう明晰になってくるものもある。何度も何度も思い浮かんでは、想起の精度が増してくるものがあるのです。虐殺にかぎらず、いろんな悲劇を経験した人間というのは、時間が経つにつれてなお精度を増す、そうした記憶をもっているのではないでしょうか。それはイメージの精度だけでなく、苦痛の鋭さにおいてもそうです。映像でそれを語るというのは、非常に興味ぶかいことではあるけれども、とても複雑な作業でもあるのです。

――監督の裡に焼きついているイメージを、人形たちで再現されたということですか。

RP ノン。それは面白くない。映像は見つけなければいけないのです。わたしがこの映画で、なぜフィクションではなくドキュメンタリーという手法を選んでいるかということを考えなければいけません。フィクションでは不可能なもの、ドキュメンタリーでしか表現できないものがあるのです。そのドキュメンタリーのなかでも、さらに内容にもっともふさわしい方法を選ばなくてはなりません。単なる報道映像的なものとはまったく異なるものです。ルポルタージュというのは、新しいものを見つけだす必要がない、そこにあるものを撮ればよいのですから。けれども映画ということになると、自分のフォルム(形式)を見つけなければなりません。そうすることで、別の意味を映像がもってくる。

ジェノサイド、あるいはそこで亡くなった人たちを、その記憶を、映像においてどのように表象するか、今回の場合は「人形」ということがわたしの提案だったのです。しかも動くことのない人形。これもひとつの選択でした。アニメーションではなく、動かない人形であるということ。再現されるのは亡くなった人たちです。けれどもそこには魂がなくてはなりません。魂がなくては、単なるミニチュアになってしまうことでしょう。

人形を彫刻してくれたスタッフは、わたしが考えていたことをちゃんと解釈して、まるで役者のように表現してくれた。彼らがどのようにわたしの提案を解釈したかをわたしがさらに解釈し、そうして人形たちにクリエイティブな動作があたえられ、彫刻家の手作業によって人形たちが生まれていったのです。

あとはわたしがカメラでそれを映像化してゆくわけですが、どのようにカメラを動かすか、どのようなサイズにするか、そしてどのように編集するか、とても複雑なプロセスをふまえています。映画づくりとは毎回毎回ゼロからの出発で、とても大変な作業です。

|人形を彫る動作そのものが、抵抗のジェスチャーだった

――彫刻家のサリス・マン氏とは旧知の仲だったのですか。

RP 彼のことは数年前から知っていましたが、彼がこのような技術をもっていたことは知りませんでした。田舎で働いていた若い青年で、家具を作ったりしていました。わたしの映画美術のスタッフとして養成していたひとりだったのです。

彼の彫刻には純粋なものがあると思います。そのことを発見したのは、まったくの偶然だったのです。投げやりにやるのではなく、誠実に刻んでくれました。表現というのはボリュームからも出てきます。そういう技術や感性をもっていましたね。この人は偉大なアーティストだ、というのは、しぐさを見ていればわかります。今回の映画のストーリーを語るためには、彼の人形が必要だということを感じたのです。

映画というのは、それぞれの作品が「映画」について語っていると思うのです。たとえばこの映画の人形は粘土で作られています。そうした自然のものが、挿入したプロパガンダ映像に対立するようにしたいと思いました。

――映画のなかには、人形が手作業で彫られ、生まれてゆくシーンも印象的に挿入されます。

RP 彼が人形を作る動作そのものがレジスタンスの行為でした。なぜならそこにはクリエーションがあるからです。いまはいない死者たちにもう一度生命をあたえるという作業ですから、そこには創造の力があります。土や水からできた人形に魂を宿すという作業ですね。土、水、そして手。乾燥させるためには太陽や風も必要です。そうして死者を再生させるのです。クメール・ルージュが絶滅をめざしたとすれば、人形に魂を宿す行為はそれに対する抵抗のジェスチャーだったのです。

――死んでいった者たちが埋められた土で人形を作る、そこにはキリスト教的な「創造」のモチーフもあったのでしょうか。

RP 当然だよ。そうじゃなかったら木で作っていた。土や水に生命を吹きこむということ、そしてわたしたちは死んでまた土に還ってゆきます。ただ神というよりはもっと精神的なものを考えていましたね。創造にはつねにそうしたスピリチュアルな側面というのがあるのです。

 

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