【Review】『消えた画』の波の機能について/失われた時間、声、そして私一人――『消えた画 クメール・ルージュの真実』 text 奥平詩野・藤澤貞彦

「人と映画をつなぐこと」をテーマとして、「映画ライター講座」と「映画配給・宣伝講座」から成る私塾「シネマ・キャンプ」(主催:キノトライブ、企画・制作:カプリコンフィルム)が、受講者およそ20名をかぞえる盛況のうちに第一期を終えた。ライター講座では、講師陣に千浦僚、寺岡裕治、結城秀勇、金子遊、萩野亮のいずれも30代の若い書き手たちが就き、受講者たちと「ともに」映画について考える場所として、手さぐりのうちに講座のあり方が模索された。その成果の一端を、修了作品の掲載をもってここにご紹介したい。

先に掲載した小川学さんの修了作品「作家・佐藤泰志という光と闇――『そこのみにて光輝く』」(担当講師:金子遊)は、わたしたちの想像を超えた大きな反響を呼び、主催者と講師一同をよろこばせた。また、同じく修了生の常川拓也さんも、修了作品が「nobody」に掲載されたのち、本誌にも講座終了後に『物語る私たち』評を寄せてくれた。つづいて今回は、萩野亮が担当した奥平詩野さんと藤澤貞彦さんによる修了作品2篇を掲載する。

課題作品に『消えた画 クメール・ルージュの真実』(リティ・パニュ監督)を選んだのは、このフィルムがカンボジアの虐殺という想像を絶するテーマを描きながら、かつその虐殺の映像が存在しないという事実に映画作家が土人形とジオラマを作ることによって向き合った、そのおどろくべき手法がどのようなことばを喚起させるのかを見届けたかったからだ。2篇はまったく異なるアプローチから、それぞれのことばをつむいでいる。

なお『消えた画 クメール・ルージュの真実』はきょう9/27(土)より、下高井戸シネマ、川崎市アートセンター、金沢シネモンド、京都シネマで公開される。

(シネマ・キャンプ講師/neoneo編集室 萩野亮)

 

『消えた画 クメール・ルージュの真実』の波の機能について

奥平詩野

 

粘土人形を使ったミニチュアの再現世界と、歴史上のまさにその時間に撮られた記録映像、そしてその二つとは少し距離があるように思われる現在的な心情の記録の三層が入り組むリティ・パニュのカンボジアを、私たちは最初の、それらのどれにも属さない波の映像を入口に発見し、何度も繰り返されるその波によって遠ざかり、最後の波を機に去らなければならない。しかし、一番はじめに襲いかかるあの波以前にあり、最後の波の後にあるものが、この映画を通して強調され、重要な意味を持つように思われる。それは、冒頭の傷んだフィルムの山であり、エンディングのクレジットロールと共に流れる製作風景であり、それらの属する場所、つまりこの映画を観ている立場という意味での「現在」である。

恐らく私たちが目撃したのは、クメール・ルージュ下のカンボジアの暗い歴史であったと言う以上に、リティ・パニュの「現在」であったのではないだろうか。更に言えば、このリティ・パニュの「現在」というのはこの映画に付けられたナレーションの内容の現在性という意味での現在と言うより、もっと差し迫った、映画の上では不在である彼の「現在」であり、前者がこの映画を作っている現在性という意味での現在であり、それがフィルムに収められている以上あくまでこの映画の内容上にあり、そこからは解放されていない事に対し、後者の「現在」とは、彼が製作したこの映画とは離れた、今何処かで生きている一人の人間の生が存在する場であるという意味での「現在」であり、この映画において私たちはまさにそこに彼の居場所を認知する事が出来るのである。

リティ・パニュの「現在」は紛れもなく、子供時代に彼が生きていた歴史的な状況に支配的なほど影響を受けているが、その歴史的な状況というのは当時の虐げられた全てのカンボジア人達のものである。働き続けるカンボジア人達の白黒の記録映像には、リティ・パニュ本人が映っていなくても、「彼ら(クメール・ルージュ)は僕たちの息づかいをも監視している」という風な表現のナレーションが見受けられる様に、記録映像に出てくる人々は常に「リティ・パニュ達」として出現しているかのように感じられる。記録されたカンボジア人達とリティ・パニュ個人との間にそのような一体性があるのは、彼が当時のカンボジア人達と強烈な惨痛を共有したという感情的な思い出による親密感があるからであると言うよりはむしろ、彼がそことはとうに違う場所、それを乗り越え、それを観る「現在」に属しているからであり、使用されるえげつない記録映像も、何かを語り出しそうでいて何も語らない奇妙な人形たちも、彼のカンボジアの全てが彼を形作っている要素であり、彼がこの映画で行った事は、自分を形成している重要なものを自分から取り出し、切り離し、物質化、可視化して、消化しようという試みであったのではないだろうか。だから、彼はそれを行うことが出来る、この映画を観る立場の「現在」に属していると言えるし、その事がこの映画と生身のリティ・パニュとの距離、そこから離れてどこか遠くに居るリティ・パニュを想い起こさせるのである。

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監督の居場所が何処かという話であったが、もちろん私たち観客も「現在」から映画を観るのではあり、この映画に於いて私たちにとって観ることとは、リティ・パニュが行ったであろうと考えられる様に自ら対象化したものを消化する行為であるのではなく、何かを目撃することである。私自身とはあまり関係のないクメール・ルージュ下でのカンボジアでの体験を目撃することで、倫理的教訓が引き出され得るような、歴史的な事実やレコードに対するショック、恐怖心、憎悪というものが立ち現われてくることは容易に想像出来るが、私に起こったネガティブな感情の中で不思議と最も印象に残るのは、私の記憶でないどこかから引き出される、過ぎ去ったことへの無念さというものである。

特に、動物実験のショッキングな映像や、子供が自分の親を密告する再現劇等以上に、その様な過酷な生活の中で彼が見た夢がミニチュア世界で物質化した時の異様な歪さ、そもそもあの粘土人形が夢を見ているという事自体奇妙だが、本当らしさを一切削ぎ落とされた合成の歪さ、不器用さ、不気味さに、彼の無念を痛感することが出来、その無念は読み取られるものである以上にまるで私の無念であるかのように感じられる。個人の現実が個人の過去にあり、その過去が同時にその時に存在していた全ての人々のものであり、開示されることによって、それがその過去に属さない全ての人々のものにもなるという事が考えられるが、しかしその条件はあくまで彼個人の視点でそれらが語られていると言うことである。つまり、このドキュメンタリー作品は、歴史という社会的な全体性を呈したものに見えながら、彼の純粋に個人的な体験への回顧の記録であり、彼のこの個人性と現実性が、その歴史に文脈を持たない私たちに自分の記憶のような彼の記憶のような過ぎ去ったあるものの印象を貸し出してくれて、物語とも記憶とも記録ともつかないその体験が私のもののようになるのである。

私に彼のドキュメントがあたかも私のものにでもなりそうな切迫を体験させる一方で、同時に、彼が既にそこには居らず、それを乗り越えたどこかに離れていることを感じさせる感動的な機能があり、その機能の正体は、映画の内容にあるというよりは、作り手である彼とそうでない私達を含む他者との境界、撮られた映画と「現在」との境界についての、強調された自覚的な意識であり、目撃者としての観客にとってのそれを観る「現在」と彼にとってのそれを観る「現在」についての自覚的な意識である。そしてまさにあの何度も現れる圧迫感のある波が、映画の中で語られるあの黄味がかって乾燥した物語とそれらの「現在」との境界を鮮明にし、より自覚的に意識させるのである。

奥平詩野 Shino Okuhira 
1992年生まれ。国際基督教大学除籍。映画論述。信心深い動物好き。

 

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