失われた時間、声、そして私一人
藤澤貞彦
「消えた画」、ミッシング・ピクチャーとは何か。クメール・ルージュの時代以前のフィルムに記録された画。あるいはその時代に行われた残虐な民衆弾圧、その決して記録されることがなかった画。それとも、生き残った者たちの消したくても消せない記憶、失われてしまった死者たちの未来……。
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映画の冒頭に写しだされるのは、朽ちかけたフィルム缶だ。過ぎし日の失われてしまったフィルムの数々。1975年カンボジアの首都プノンペン陥落から始まるクメール・ルージュによる一党独裁政治では、文化が徹底的に破壊された。都市は無人化し、市場・通貨は廃止され、学校教育も禁止された。失われた文化の代表として、おそらくどこかに隠されていただろうフィルム、その中から奇跡的に見つけられたカンボジアの伝統舞踊アプサラを写した貴重な映像が流される。アプサラは、元々が宮廷舞踊であったことから、彼らの思想「純粋な共産主義」にとって、もっとも忌むべきものだったはずだ。そのため振り付けを記録した書物は消失し、実に踊り手の90%以上が処刑されてしまったという。あの美しい踊り手にも過酷な運命が待っていたことだろう。「消えた画」の第1は彼らの文化であることが、これによって象徴されている。
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通常ならメイキング映像で使われそうなシーンではあるが、本作の主人公になる人形を作る場面が丁寧に紹介される。「死者の埋まる水田と土と水を使い、手を動かして土人形を作る」その言葉どおり土で出来た人形一体一体が丁寧に削られ、色が塗られていく。そこに「白い服を着たこの人を抱きしめたい。これは私の父です」そんなナレーションが重ねられる。この製作過程を観ていると、人形に特別の気持ちが籠められていることが強く感じられるのだ。
そもそも監督によれば、人形を使ってドキュメンタリー映像を作るというアイデアは、製作の過程で偶然生まれてきたということなのだが、これは、むしろカンボジアの伝統的な農村文化の発想のように思える。カンボジアは、稲作文化ということで、日本との共通点も多い。例えば、精霊崇拝。あちらこちらに大きな木や石に精霊を祀る祠が置かれていたりする。人形に魂を入れるという発想はまさにそこから来ているのではなかろうか。文部省の官房長であった彼の父親は、元々は貧しい農家の出身だという。監督自身は都会っ子とはいえ、おそらく「自分には農民の血が流れている」そんな意識を父親から引き継いでいたはずだ。これは例え偶然から生まれたものであっても、そんなバックボーンから辿りついた発想であったに違いない。
住民の農村への強制移住、それに続いた拷問と処刑。その犠牲者は万とも200万とも言われている。実にカンボジアの人口の4分の1。日本で言うと、名古屋市の住民がすべて消えてしまう計算だ。もしこれを実写でやったとしたら凄惨なものになったことであろう。例えば、『愛する者の名において』(82/ロベール・アンリコ監督)という作品がある。ユダヤ人中流家庭に生まれ、家族の中でただひとり助かった男が、ナチスの時代から現在までを回想することによって自殺を思いとどまり、逆に生きる意味をみつけていく話だ。ホロコーストの時代、彼が14歳だったという背景も含め、本作と共通するテーマを多分に含んだ作品であるにも関らず、この作品ではテーマそれ自体より、強制収容所のやせ細ったユダヤ人たちの遺体が次々と穴に投げ込まれるシーン、その実写フィルムの衝撃のみが記憶に残ってしまう。そのことで逆に映画全体の印象がぼやけたものになってしまっていた。
もちろんカンボジアには、そうした映像自体が存在しない。それらは永遠に「消えた画」になってしまっている。だからといって本作は、次々と遺体が穴に投げ込まれるシーンを再現フィルム的な映像にはしていない。あくまでも人形数体を穴の中に放り込むことに留めている。それが『愛する者の名において』と違い、逆に本作を豊かなものにしたと言えるだろう。恐怖そのものではなく、その向こうにある大切なもの、すなわちひとりひとりの人間の尊厳を、この人形たちはしっかりと感じさせてくれるのだ。それはあたかも文楽において、例え首を刎ねる残酷な場面にあっても、観客に不快な印象を与えることなく、かえってその先にある人間の奥深い部分を表出させるのとよく似ている。
本作ではポル・ポト時代の記録映像がふんだんに取り入れられていることにも触れておかなければならないだろう。もちろん真実は「消えた画」、写されることのなかった画であるため、それはこの時代の強者の歴史、いわゆるプロパガンダ映像に過ぎない。そこでは、ポル・ポトが各地を巡回し、大勢の人から拍手で迎えられ、満面の笑顔でそれに答える様子が映されている。建設現場では、大勢の人が土を掘り運ぶ様子が映し出され、いかに民衆が新しい国家建設に一丸となっているかが訴えられている。山にあるポル・ポトの家は簡素で、壁にはレーニン、スターリンの肖像画が飾られ、小さな机の上には、マルクス、毛沢東の書籍が置かれている。ポル・ポトが清貧の人で、国のことを真剣に考えているということを示したものだろう。
これらの映像にも、わずかではあるが真実が含まれていることを映画は指摘する。ポル・ポトを迎える大勢の人の表情は硬く、建設現場では、年端もいかない子供たち、痩せて弱っている人たちまで働かされているのが後ろに写り込んでいる。また、ポル・ポトの家はまるで映画のセットのように作られていると。監督によれば、「土や水からできた人形に魂を宿すという作業が、クメール・ルージュが絶滅をめざしたのに対しての抵抗のジェスチャーだった」(neoneo web「人形に魂を込めることが、虐殺へのレジスタンスだった」)ということなのだが、それだけでなく、生の映像が嘘であり、人形たちが作りだすジオラマの世界のほうにより真実があるというコペルニクス的逆転発想自体もまた、あの時代への抵抗になっているのではないか、そんな思いがする。
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記録映像で語られるのは歴史であるのに対して、ジオラマで語られるストーリーは、監督自身の体験であり、その大部分を著書『消去』(リティ・パニュ、クリストフ・バタイユ著、現代企画室刊)によっている。また新しく映画のために書かれた言葉も、引き続きクリストフ・バタイユとの共同作業になっている。共同作業となったことで、過度に感傷的になることもなく、かつ言葉に詩的な響きさえも感じさせるものとなった。あくまでも人形自身がしゃべるのではなくて、穏やかなナレーションが監督自身の言葉を紡ぐというスタイルが魅力的だ。
彼の父親が自らの尊厳のため食べるのを止めて、家族の前で静かに息を引き取って行く場面。同じ集団の中で、子供が親を告発するという過酷な場面。小さな従兄が飢えて死んでいく場面など。語りが静かであればあるほど深い悲しみが画面を満たしていく。辛い場面の後では、温かい色に包まれたプノンペンの自宅が現れ、画面には明るい音楽が満ち溢れる。不思議なことに、同じ人形を使用しているというのに表情がまるで違って見える。リティ少年は父親に勉強を教わり、母親とお盆のごちそう作りをする。兄はバンドを組んでギターをかき鳴らす。これは、回想でもあり、あるいはこのような歴史に巻き込まれなければ、その後も変わらず続いていたはずの「消えた画」でもある。逆に言えば、それは「作られた画」でもあるのだ。
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「作られた画」の中で極めて目立っているのが、監督が自作について、テレビでインタビューを受けている場面である。そこに亡くなった家族たちが現れ「一体息子は何をわけのわからないことを言っているのだろう」と、彼の現在の姿を見てつぶやく。はっとした。「消えた画」とは、監督自身の物語でもなく、あの時代の歴史の真実の映像でもなく、ましてや失われてしまったポル・ポト以前の記録映像のことでもなく、亡くなった家族や親戚、友人たちの画のことであったのだと。いや、それ以上に彼が描きたかったのは、あくまでも亡くなった人たち、声を出して過ぎ去った時代を語ることができない人たちの“言葉”だったのだ。もう一度亡くなった肉親たちの言葉を聞きたいという思いを監督はずっと抱えてきたことだろう。人形に魂が込められることによって、亡くなった彼らが何かを語ってくれるかもしれないと彼は考えたのではなかろうか。
過去の作品を振りかえれば、『ネアックス・スラエ、稲作の人々』(94)では、クメール・ルージュ以後の家族を描く。『ボファナ、カンボジアの悲劇』(96)では拷問のうえ殺害された一人の若い女性を描く。『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』(02)では、加害者と被害者双方から拷問の真実に迫ろうとする。著書「消去」では、拷問の責任者だった男の内面を白日の元に晒そうと試み、かつ自分自身の体験を語る。これまで語られてこなかったのは、亡くなった人たちの“声”なのである。それこそがまさに究極の「消えた画」なのだ。人形たちだけでなく、拷問を受け亡くなった人たちの、その直前に写された写真も決して黙ってはいない。彼らの目が何かを語っている。そういう意味では“声”は失われたとしても、亡くなった彼らが真実を語るということは不可能ではないのである。それを“画”として定着させた本作の目的は、何より彼らの人間としての尊厳を取り戻すことだったと言えるだろう。
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藤澤 貞彦 Sadahiko Fujisawa
映画ライター。東京国際映画祭第4回批評家プロジェクト佳作入賞。主に映画サイト「映画と。」にてレビュー、インタビュー記事を執筆する他、トーキョーノーザンライツフェスティバル等に寄稿。映画サークルCinevision主催。
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|公開情報
消えた画 クメール・ルージュの真実
脚本・監督 リティ・パニュ
テキスト クリストフ・バタイユ
音楽 マルク・マーデル
人形制作 サリス・マン
編集 リティ・パニュ、マリ=クリスティーヌ・ルージュリー
2013年/カンボジア・フランス/フランス語/HD/95分
配給 太秦 宣伝 スリーピン
公式サイト http://www.u-picc.com/kietae/
★9/27(土)より、下高井戸シネマ、川崎市アート・センター、金沢シネモンド、京都シネマにて拡大公開!
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|シネマ・キャンプ
主催:キノトライブ
企画・制作:合同会社カプリコンフィルム
〒151-0071 東京都渋谷区本町1-7-10 ヴィラ初台101
Tel:03-6300-5836 Mail:info@kapricornfilm.net
※お問い合わせはメールでお願いします。
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