【Interview】動画も掲載!和製マイケル・ムーアを目指したら、誰かを糾弾することはできない自分に気づいた ——『無知の知』石田朝也監督インタビュー text 早川由美子

−−政治家や専門家は、知識が豊富で弁も立ちます。どのように情報収集をして、切り込みましたか?

石田 何も情報収集しないでインタビューに臨もうと決めていました。いちばん最初の挨拶さえ、考えないで行こうって、決めていたんです。情報収集は、ウィキペディアを印刷したものだけ。知識がなくても、インタビューをすれば相手が答えてくれるから、それで知識が豊富になっていくじゃないですか(笑)。でも、インタビューでは、相手にものすごく怒られました(笑)。藤家洋一さん(元原子力委員会委員長)の秘書には、インタビューの後で「石田さん、あれはひどい。もうちょっと勉強なさったらいかがですか?」と言われました。

唯一、頑張って情報収集したのが、渡部恒三さん(元衆議院議員)。ある政治家から「あの人が福島に原発を持ってきたんだよ」と聞きました。それが本当かどうか、相当調べましたが分かりませんでした。とりあえず彼に直接話を聞いてみようと思って、104(電話番号案内)で、「会津若松のワタナベコウゾウさん」の住所と電話番号を調べたら、同姓同名が20人ぐらいいて。だからそれを1軒1軒訪ね歩いたのですが、ぜったいこの家だ!とカメラマンと確信する家を見つけました。

その時は綿密に取材の計算をしましたね。SPがいてもおかしくない雰囲気だったので、どこに車を停めるかも考えて。インターホンを押したら、奥様が対応してくださって、玄関口に寝巻き姿の恒三さんが出てきました(笑)。家を片付けてもらっている間に、恒三さんはビシッとスーツ姿に着替えて、インタビューに応じてくれました。

恒三さんは「福島に原発が来たとき、まだ国会議員はやっていなかった」と答えましたが、僕は事前に調べていたので、その次に言うべきセリフがあったのです。でも、言えなかった。取材が終わった後、カメラマンは僕のお尻を思いっきり蹴飛ばして、僕のふがいなさを責めました。でも、そのときに分かったんです。自分がやりたいのは“糾弾”ではない、と。「和製マイケル・ムーアやります!」ってクラウド・ファンディングで宣伝したけど、「あぁ、俺はマイケル・ムーアは出来ねぇな」って、その時に思いました。糾弾よりも、むしろ自分のロードムービーに近いかもしれない(笑)。ドキュメンタリーって何?とか、いろいろ考えました。

映画『無知の知』より

−−インタビューで登場する政治家は、民主党の人が多いです。震災当時が自民党政権だったら、取材は難しかったと思いますか?

石田 それはあると思います。自民党の中では、与謝野馨さん(元衆議院議員)が取材をすぐにOKしてくれたので、驚きました。まず無理だろうと思っていたので。実はその時、僕は与謝野さんが咽頭ガンだということさえ知らなかったんです。なんで取材をOKしてくれたのかな?と考えたとき、もしかしてもう残り少ない……という思いもあったのかもしれないと思いました。

当時政権にいた民主党の人たちは、取材を引き受けてくれました。インタビューをしていて、当時のことを色々話したいんだな、と感じました。ただ、枝野幸男さん(3・11当時の内閣官房長官)や福山さんがしきりに言っていたのは、「あの時に何があったか真実を語っても、言い訳と思われたら困る」ということでした。それでインタビューを渋っていたというのはあります。

そんなつもりはないと説得してインタビューに応じてもらいましたが、この映画のレビューを書いたある週刊誌では、「言い訳ばかりしている」と批判されたこともあります。まぁ、それでも話題になってくれるのは良いことなんですけど。

−−福島原発事故を題材にする場合、作り手の立ち位置をどこに置くかが重要だと思います。色んな政治家や専門家に話を聞いて、立ち位置をどこに据えようと思いましたか?

石田 僕はこの映画を、普段ドキュメンタリーにはあまり関心がないとか、原発に関して自分の立場がはっきりと分かっていなくて、関心が薄まっている人たちのために撮りたいと思っていました。それは、まさに自分自身がそうだから。そのスタンスは変えないようにしようと思いました。反原発と推進という極端な軸があったとすると、ちょうどのその真ん中を行ったり来たりする感じ。映画が完成したとき、トークショーには原発に反対の立場の人も、推進する立場の人も、両方が登場してくれるような映画にしたいと思っていました。

映画『無知の知』より

【次ページへ続く】