【Interview】ドキュメンタリストの眼⑪ 『イラク・チグリスに浮かぶ平和』綿井健陽監督 インタビュー text 金子遊

綿井健陽さん

 綿井健陽さんといえば、2003年のイラク戦争時にバグダッドから中継を続けたジャーナリストとして知られている。この度、綿井さんの2本目のドキュメンタリー映画『イラク チグリスに浮かぶ平和』が公開された。2005年に発表した『リトルバーズ イラク戦火の家族たち』の映像を引きつぎながら、アメリカによる大義なきイラク戦争後に混迷を深めていくイラク情勢を、戦争被害者である庶民たち、特にアリ・サクバンさんの家族の目線から撮った良作である。足かけ10年の追跡取材を終えて、作品を公開した綿井さんにインタビューを試みた。(写真・聞き手=金子遊)


フリージャーナリストになる

——読者が興味を持つと思うので、綿井さんがフリージャーナリストになるまでの経緯を、簡単にお話して頂けないでしょうか。

綿井 小学生のときに学級新聞をつくっていたのですが、当時から新聞記者志望でした。大学へ通っていたときも「日本大学新聞」という学生が取材・編集する新聞に、2年間だけですが関わっていました。就職活動も新聞社を中心にしましたが、残念ながら受からなかったのです。ただ当時から、たとえ就職しても、いつかはフリーランスになりたいとは思っていましたが、結局最初からフリーランスで始めることになりました。1990年代の前半はまだ小型ビデオカメラでジャーナリストが取材するという方法は一般的ではなく、フリーのフォトジャーナリストとして文章を書き、写真を撮るところからはじめました。僕より上の年代の人は、文章と写真からはじめて、途中でビデオ取材に移った人が多いですね。アジアプレスに参加してから、小型ビデオで撮影した番組をMXテレビや朝日ニュースターでつくりました。地上波でも小型ビデオカメラで撮影した番組が徐々に放映されるようになった時期です。それまでHi-8規格だったのが、Mini Dvのビデオカメラが出回るようになって急激に画質がよくなった。それから自分は同じスタイルでずっと続けていており、ビデオカメラが自分にとって最も合っている記録・表現手段と思っています。

——アジアプレスには入社という形になるんですか?

綿井 大学に入学した90年は、前年に天安門事件があり、イラクのクウェート侵攻があって湾岸戦争が勃発する、という世界的に大変動があった時代でした。その後もソ連崩壊、カンボジアPKOで自衛隊派遣もあり、それらをニュースで見ていて、自分もそこへ行って見たいという気持ちが強くなりました。ベトナム戦争の本や写真集にもたくさん触れて、特に故・近藤紘一さん(『サイゴンから来た妻と娘』/当時サンケイ新聞ベトナム特派員)に強く憧れましたね。97年からアジアプレスに関わるようになって、翌年にメンバーになりました。当時は、まだ専従スタッフ制度があって、最初は給料制でした。メンバーは基本的には個人の取材活動がベースですが、僕の場合最近は「フリージャーナリスト/映画監督」という肩書を使うことも多くなっています。アジアプレスの場合は、誰かからの依頼があって取材へ行くのではなく、自分が行きたい場所や自分が追っているテーマで、自分で取材に行くというのが基本です。


イラク戦争の取材

——『リトルバーズ イラク戦火の家族たち』と『イラク チグリスに浮かぶ平和』で共通に描かれている2003年3月のイラク戦争開戦についてうかがいます。実は私も1999年9月に2週間の旅程で、経済封鎖解除のアピールとバビロン音楽祭に参加するためにバグダッドを訪れたことがあります。チグリス川沿いのシェラトンホテルに泊まりましたが、綿井さんは向かいのパレスチナ・ホテルだったんですね。ですから、2本の映画では、バグダッドの町が段々と戦争へむかっていく様に実感がわくので、戦慄しました。

綿井 いま行くと、バグダッドのシェラトンホテルは一泊300ドルぐらいで、海外の要人やイラクの政治家たちが泊まることが多いですね。僕の常宿は、以前はパレスチナホテルでしたが、10年前は一泊40ドルだったのが、現在は一泊200ドルもします。こちらは報道陣が多く、メディアの支局が多数入っていた時期もありますが、いまはイラク人宿泊客が多いですね。イラクはインフレで物価がとても高くなりました。宿泊・通訳・車・食費などで、一日200~300ドルぐらいの取材経費がかかります。 イラク取材の前には、9・11後の米軍による2001年10月のアフガニスタン攻撃の取材をしました。現地に入ってみるとマスメディアはいないので、日本のテレビでのレポートの依頼が多く舞い込んできたきのですが、そのかわり落ちついてじっくり取材・撮影をすることができなかった。  

その反省から、イラク戦争のときは「空爆される側から見た戦争」をしっかり取材したいと思っていました。2003年のイラク戦争開戦前も、国連による大量破壊兵器の核査察が行き詰まってきて、いよいよ戦争が近いという状況でした。開戦の10日くらい前に何とかビザを取得して、ヨルダンから遠距離タクシーでバグダッドに入りました。その頃から日本のマスメディアは、逆に撤退をはじめていた。しかし、共同通信記者の原田浩司、有田司さんらたち3人は、バグダッド陥落直前にもどってきましたね。4月9日に米軍の地上部隊によるバグダッド制圧があるんですが、そのときバグダッドに残って取材していたのは、日本のフリーランスでは20人くらいでしょうか。

——『リトルバーズ』も『イラク チグリスに浮かぶ平和』も、イラク戦争開戦時の空爆シーンが入っていますね。パレスチナホテルから見て、ちょうどチグリス川をはさんだ向こう側に、大統領宮殿などがある政治的な中心地がある。そこへ米軍がすさまじい空爆をくわえるところを、ホテルの窓や屋上から撮っているわけですね。

綿井 開戦の日(2003年3月20日)の空爆は小規模だったので、映画に入っている大規模空爆のシーンは、撮影日付としては開戦2日目の模様です。あの頃は、衛星電話はありましたが、映像を送信することはできなくて、僕が撮った空爆の映像は帰国してからいろいろと使われました。あれと同じような空爆の映像は、海外通信社も撮影していたので、みなさんもニュースなどで見ていることでしょう。今みたいにインターネット経由で映像を送信することが簡単にはできなかったので、イラク戦争当時はロイターやAP通信のバグダッド支局へ行って、Mini Dvで撮った映像を日本のテレビ局へ、衛星回線をつかって電送していました。  現在は物理的にはネット経由で送れますが、結局それは時間がかかる。外国の通信社は日本のテレビ局と契約を結んでいるので、今でも通信社へ行っておくってもらうことが多いですね。イラク戦争の当時のニュース番組などにおける中継リポートですが、それもロイターやAP通信の支局に通信施設がありました。そこへ行くとマイクとイヤホンがあって、カメラマンがいるので、そこへ向かってしゃべると、その映像と音声を日本のテレビ局にライブで送ることができる。現在はスカイプを使うことも多いです。  

これは余談ですが、ベトナム戦争の頃は、撮影したフィルムは空輸していました。ベトナムからバンコクや香港へ飛行機で運び、香港からは衛星回線があったそうです。ですから、ベトナム戦争では完全な「ライブ中継」はなかった。湾岸戦争のときになって、はじめて CNNのピーター・アネットが戦争の実況生中継をして評判になりました。CNNはサダム・フセイン政権から許可をもらって衛星電話を持ちこみ、電話回線もヨルダンとケーブルでつなぐという何段構えからの準備をしていました。湾岸戦争開戦時には、他のメディアもバグダッドに入っていたんですが、通信手段がなかったのであれだけのCNNの独占スクープになったということです。

——フセイン政権は通信手段にうるさくて、僕の友だちが国境のところで、ノートパソコンのモデムを取り上げられていました。

綿井 僕が最初イラクへ入ったときは、こっそり持ち込みましたね。国境で係官に見つかったんですけど、50ドル紙幣をわたしてウィンクしたら、それで通してくれました(笑)。

——『リトルバーズ』ではアリ・サクバンの家族が中心に描かれているものの、やはりイラクのさざまな人たちへの取材が広範に扱われています。人間の盾のウズマ・バシルさん。クラスター爆弾の犠牲になったハディールちゃん、アフマド君。多くのフッテージを映画にまとめる上で、『リトルバーズ』のときに狙ったものは何だったのでしょうか。

綿井 『リトルバーズ』は、イラク戦争開戦から1年が経った2004年4月ごろに、「今までの取材映像を映画化してみないか」と、当時ソネットチャンネル・プロデューサーの小西晴子さんからオファーをいただいた。自分なりのコンセプトは、「攻撃される側から見た戦争」でした。プロデュースと編集は安岡卓治さん、編集アシスタントが辻井潔さんでした。映像素材はその時点で120時間分くらいありました。頭のなかで構成は考えますけど、僕はテレビメディア出身なので、『リトルバーズ』のときは、NHKのポストイット方式をつかいました。それぞれのシーンを書いたポストイットを壁にはっていき、それを貼りかえたり入れ替かえたりしながら、番組の構成を決めていくというやり方ですね。『リトルバーズ』は開戦から1年半までを撮っていますが、いろいろなことが次々と現場で生じていて、それを必死で追っていく、とても動きの速い作品になっていると思います。  欧米の人たちに比べると、イラクは日本人であることで取材や撮影をしやすい国だと思います。バグダッドには91年の湾岸戦争がはじまる前までは、1万人くらいの日本の駐在員が住んでいたこともあり、日本人は非常に歓迎されるんですね。2003年のイラク戦争のときに、病院で3人の子どもたちを米軍の空爆で失ったアリ・サクバンと出会ったわけですが、彼の家を訪ねていくたびに少しずつ打ちとけていきました。そういうこともあって、アリさんと奥さんと生き残った当時7歳の娘ゴフラン、そしてアリさんの両親に関しては、家の中はふつうに撮らせてもらました。ところが2013年に訪ねたときは、亡くなったアリ・サクバンの娘ゴフランはもう17歳の年ごろになっていて、僕やイラク人通訳は大人の男性ですから、撮影するのが結構難しかったですね。イスラムの女性を男性が撮ることは、他のどの国でもとても難しいですね。

©ソネットエンタテインメント/綿井健陽

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