イラクから日本への警鐘
——フセイン像をハンマーで叩いて喜んでいたイラク人に、綿井さんが「イラクがこんな混乱状況にある責任は誰にあると思いますか」と尋ねると、「戦争に関わったすべての人々に責任がある。政治家、普通の人、学者。私のような市民にも。話すことを恐れて黙っていたからこんな状況になってしまった」とインタビューで答えるシーンが強く印象に残りました。
綿井 こうした場合には、「アメリカのせいだ」と答えるかと思ったら、意外な返答でしたね。彼は戦争被害者であるにもかかわらず、自らも戦争への罪責感を抱えている。その被害と加害の二重性の意識が、日本の人たちにむけての警告の言葉にもなっていると思いました。政治が混乱して、妙な方向へむかっているときに、市民がおそれて口をつぐんでいれば、あなたたちもこのようになってしまいますよ、と静かに警告している。彼の場合は、アメリカ軍施設でも働き、家や車を買うことができたということもあるので、より複雑な感情が背後にあるのだと思います。彼が抱いた10年前の夢や希望と、10年後の現実の落差。これは他のイラク人たちも同じでしょう。
——独裁者だったサダム・フセインが倒されて、アメリカ軍が駐留し、2005年や2006年あたりは誘拐事件や人質殺害事件、武装集団の問題など治安の悪化が言われてきました。私などは怖くて、ヨルダンからバグダッドまでも行ける気がしません。そのなかで2008年にアリ・サクバンさんがお店で殺害されています。『イラク チグリスに浮かぶ平和』に見られるように、イラク戦争後を継続的に取材なさってきて、バグダッド市民の日本への意識や変化はどのようなものだとお考えですか。
綿井 イラクは全般的に親日の人が多いのですが、バグダッドの街は直接的に自衛隊が展開したわけではないので、自衛隊への意識や関心が総じて薄い。今でもアメリカ軍によって広島や長崎に原爆をおとされたのにもかかわらず、戦後は経済的にめざましい発展をとげた日本はすばらしいという人が結構います。しかし、10年前と比べると日本人の存在感はとても薄れています。開戦から10年後の2013年に僕がバグダッドを歩いていても、電化製品から日常用品まで韓国・中国製が多くなって、「中国人か?韓国人か?」と聞かれることがほとんどでしたね。韓国ドラマや音楽も含めて、イラクに限らず、中東ではこの10年で中国や韓国の存在感と影響力が本当に大きくなりました。
——綿井さんの取材姿勢について、いつも尊敬するのは「イラク戦争は日本政府が支持し、支援した戦争だった」ことをはっきり発言していることです。イラクと日本は友好的な国であったのに、あの戦争ではイラク市民まで「日本はなぜアメリカを支持するんだ?」と怒るまでになった。2004年の小泉政権の時代には、自衛隊のサマワへの派遣もありました。今もイラクで起きていることには、日本政府や日本人にも責任があるという他のジャーナリストの人たちがあまり明確にしたがらないことを、綿井さんがテーマにするのはなぜなのでしょう。それによって、テレビ局、通信社、新聞社、雑誌など、発表できる媒体が狭まってしまうということはないのでしょうか。
綿井 それは、取材をする過程で出てきた結果です。たとえば、イラクへ取材に行く前から「イラク戦争の取材をとおして、日本の戦争責任を問いかける」という狙いだけで、撮影しているわけではありません。あくまでも、10年後のイラク人の姿と言葉と表情、彼らの「その後の人生」、「失われた人生」、「あり得たかも知れない人生」を通して、イラク戦争を自分なりに総括して映像化するという狙いです。 『イラク チグリスに浮かぶ平和』のなかで、車いすテニスの女性が「日本にも戦争責任があるんですよ」と話すシーンがあります。僕が彼女の父親にインタビューしているとき、彼が「これは誤爆だから仕方がない」と答えているときに、彼女がそこに割って入ってきて、日本の戦争責任の話を急にはじめたんです。そのような一連のハプニング的な流れがあったから、映画のなかのシーンとして重要だと思いました。
日本の戦争責任について自分が聞いているインタビュー場面ではなかったときに、彼女があのようなことを言ったので、逆に印象が強くなった。「あなたたち日本人にも責任の一端はある」と静かに問いかけるシーンだからこそ、強さと深みがあると思いました。そこがドキュメンタリー映画として重要なことです。ある結論を拾うためだけに、取材や撮影を進めていく手法は、ドキュメンタリーとは違うのではないかと思っています。取材や撮影をしていく中で拾った結果から、何かしらのメッセージが見つかる。
イラク戦争における日本政府や日本人の責任の根幹部分は、イラク人ではなく、日本人への取材と撮影で突き詰めないと描けないと思います。だからその部分は、『イラク チグリスに浮かぶ平和』の中では、映画の核になる部分ではなく、この映画を観る日本人たちへ呼び掛けるキャッチコピー・メッセージとしての要素が大きい。日本政府や日本人の責任を打ち出すことによって、発表媒体が狭まるということは特に考えていません。読売新聞や産経新聞では扱われない、という程度でしょうか(笑)。