【Interview】動画も掲載!和製マイケル・ムーアを目指したら、誰かを糾弾することはできない自分に気づいた ——『無知の知』石田朝也監督インタビュー text 早川由美子

11月1日からポレポレ東中野で公開される映画『無知の知』は、石田朝也監督がひたすら“突撃”する映画だ。3年前の東日本大震災と福島第一原発事故。あの時、何が起きていたのか。首相官邸では?フクイチでは?そして福島の現状は……。菅直人や枝野幸男、与謝野馨といった政治家、班目春樹や藤家洋一といった原子力の専門家、そして福島県南相馬市で、今も避難生活を続けている人々。終始自分が画面に出ては、聞いて、聞いて、聞きまくる。
しかし、石田監督のマジックは、会う人、会う人が監督の「聞きたいこと」に答え、対話を成立させてしまうところにある。観ている人は、さらなる「本当のところ」を聞きたくなるだろう。話す人にも、そして石田監督にも。
いわばプロフェッショナルな“突撃屋”の石田監督。インタビューでも「本当のところ」をぶっちゃけてくれるだろうか?そう考えて、映画『さようならUR』(11)で見事な“突撃”を見せてくれたドキュメンタリスト・早川由美子監督にインタビュアーをお願いした。
(取材=早川由美子・佐藤寛朗 構成=早川由美子

※全文インタビュー動画掲載(撮影:早川由美子)!こちらから

−−私はドキュメンタリーを作り初めて8年目位になりますが、失礼ながら石田監督のことをこれまで存じ上げませんでした。『無知の知』は2作目とのことですが、これまではどんなお仕事をされてきたのですか?

石田 13歳ぐらいでスピルバーグの映画にはまって、どうやったら映画監督になれるか?と考えていた、18歳の頃からの話をすれば良いですか(笑)? 映画をやりたいと思って生きてきたけど、実はあんまりどっぷり映画にはまっていないんですよ。なぜかというと、将来にとって一番大事な18~19歳の頃にギャンブルにはまって、パチンコで生活するようになってしまって。

−−パチプロということですか?

石田 そうですね。それで、友人たちが大学を卒業して一流企業に就職する時に、「お前の生活はゴキブリみたいだ」と言われたのがショックで、やはり映画をやろうと決めました。フランス映画が好きだったので、フランスに留学して映画を学びました。30歳のころ日本に戻り、中川陽介監督の下で助監督をしていたら、撮影監督の芦沢明子さんと出会って、意気投合しました。成瀬巳喜男さんのドキュメンタリー映画の制作に誘われ、第1作目となる『成瀬巳喜男 記憶の現場』(05)を監督しました。

−−第1作目の完成はいつ頃ですか?

石田 10年ぐらい前です。成瀬監督にまつわる、とても著名な方々にお話を聞かせてもらいました。でも、僕は駆け出しの何も分からない状態で話を聞いていたので、自分が思うような映画には仕上がりませんでした。それが、文芸座で上映されたらとても高い評価を受けたので、俺は天才だ!と調子ぶっこいて……。そんな自分に気がついたら、うつ病とパニック障害になってしまったんです。お金も、愛する嫁も失って、その後7年ぐらい地獄を見ました。

ボロボロの生活を送っていましたが、ある意味、東日本大震災をきっかけに、少しずつ自分の日常生活が戻ってきました。そこからまたテレビの仕事を始め、また映画をやってもいいのかな?と思い始めたときに、この映画の企画をプロデューサーから頂きました。もともとドキュメンタリーに強い興味はなく、劇映画を撮りたいほうなのですが、自分自身の“再生”みたいな感覚もあって、ドキュメンタリーを作ってみようと思いました。

−−プロデューサーから話が来た当初は、どんな企画だったのですか?

石田 実は、最初は劇映画の企画だったんです。長崎の原爆についての。でも僕としては、長崎の原爆はあまりにも遠い世界でした。それよりは、自分の中に「世界で唯一原爆を浴びた日本が、原発事故を起こした」というのが、ひとつの言葉としてあったんですね。だから原爆ではなく、原発を撮りたいと思うようになりました。

−−実際に制作を始めたのはいつですか?

石田 2年前(2012年)からです。今さら福島に行っていいのかな?と悩みました。「再生エネルギーは日本を変える事が出来るか?」とか、一生懸命机の上で構成案を考えました。当初は、日本全国の再生エネルギーに取り組んでいる方々を、訪ね歩いてみようという企画だったんです。

それが、昨年3月の日比谷公園の脱原発イベントを取材して、南相馬の女性と出会って変わりました。「そんなに構える必要ない。うちらのところに遊びに来ればいいよ」って言われて。それで、本当に南相馬に行って、全てが変わりました。南相馬市小高区の、駅前の風景が衝撃的で。駅前の商店街に、誰もいないのに電気がついている。自然のものすごい濃密な音しか聞こえなくて、人の息吹が一切ないんです。遠くでパトカーがうごめいているのが聞こえて……夢中になって撮影しました。

−−その時の体験から、構成が作られていったのですか?

石田 構成は、最後の最後まで常に変わりました(笑)。ただ、唯一最後まで変わらなかったのは、歴代の首相にアタックしたいということ。日本に原発が来た中曽根康弘さん以降の総理大臣に。でも、素人の勝手な思い込みとして、多分全員取材はNGだろうなと思ったのですが、なぜか細川護煕さんだけは大丈夫なのではないかと思ったんです。小津安二郎監督の『東京物語』のラストをイメージして、僕と細川さんが湯河原のアトリエの、池のほとりでしゃべっていて、細川さんが「ごめんな」って謝る……なぜかそんなシーンを勝手に想像していたんです(笑)。

だから去年の12月に、細川さんに手紙を書いて取材を申し込んだら、一発でOKしてくれて、アトリエで撮影させてもらい、その直後に細川さんが都知事選に出馬したときは、本当にびっくりしました。

映画『無知の知』より

−−他の政治家、専門家の取材申込はいかがでしたか?

石田 色んな手法でアタックしました。最初は、どうアポを取ればいいのかも分かりませんでした。最初、小高区を見て、小高の人たちに会いたいと思ったので、仮設住宅を訪ねました。そこで、初めて会った人たちに話を聞かせてもらうと、皆さんが当時の政権を批判するので、じゃぁ政治家に会ってみようという流れになって、福山哲郎さん(3・11当時の内閣官房副長官)に会うことが出来ました。福山さんが「なんだか訳が分からないけど、面白そうだね」と思って協力してくれて、そこから菅直人さん、下村健一さん(3・11当時の内閣広報審議官)……と、紹介してもらったのです。

歴代の首相に取材を申し込んで、不愉快な思いも沢山しました。例えば麻生太郎さんの秘書とか(笑)。手紙とファックスで取材申込をしても、何の返答もないので電話をしたんですね。秘書が「ちょっと確認します」と電話を切ったので、もう1回電話をしたら、その場で手紙を読んでいるのが丸分かりだったんですが、「てにをは」のチェックが始まって! 「ここは“は”じゃなくて、“を”じゃないですか?」なんて言うんですよ! で、最後には、「申し訳ないですけど、あなたの想いが足りない気がするんです」とか言い出して! お前が言うのか!と、それは大ゲンカしましたね。

−−東電への取材申込はいかがでしたか?

石田 東電が毎週開いている記者会見に行きました。誰でも入れると言っていたのに、記者の資格がないから入れないと言われ、もめました。何とか取材しようとしましたがダメで。今、別のルートで交渉中です。

この映画の中では東電内部については全く扱っていません。それはどうなんだ?という思いも自分の中にありますが、構成をしてみて、東電は扱っていないけれど、浮かび上がってくるものはあるな、と思って。それに、今回は色んな方に取材をしたので、これで東電も盛り込んだら収拾がつかなくなるという思いもありました。 第二弾もやるつもりでいたので、今回は性急には取材しないで、東電はあのような形(←観てのお楽しみ)で入れるに留めました。
【次ページへ続く】