【Review】方舟と郷愁をめぐって――舩橋淳監督『フタバから遠く離れて 第二部』 text 村松泰聖

©2014 Documentary Japan, Big River Films

閉鎖される避難所

埼玉県加須市、旧騎西高校の校舎がスクリーンに映し出される。

第一部と変わらない避難所の光景、見知った中庭や美術室がそこにあるという事実に私たちは懐かしさを覚えるはずだ。しかし一時は1400人あまりの双葉町民が暮らしていたこの避難所も、震災から一年が経った本作冒頭の時点では400人を切るまでに退所者が続いている。ある世帯はいわき市をはじめとする福島県内で、また別の世帯は県外の自治体で新たな生活を開始し、一方で役目を終えた旧騎西高校の校舎は、やがて閉鎖の瞬間を迎えることになるだろう。私たちはそれが自然な帰結であると知りながらも、あの避難所が失われてしまうという事実に一抹の寂しさを感じてしまうかもしれない。そこは故郷を離れた町民が小さな共同体を形成していた場所だったからだ。『フタバから遠く離れて 第二部』では、こうして閉鎖へと向かっていく東日本大震災最後の避難所・旧騎西高校と、依然として避難生活を続ける双葉町民たちの約3年間の経過が描かれていく。

前作に引き続き、ドキュメンタリー作家としての舩橋淳の手法は一貫している。被写体に寄り添いながらも行き過ぎた感傷を排し、あくまで冷静な態度を保ちながらも超越的な目線になることを避けようとする独特の距離感――すでに新しい時代の潮流として定着してきたようにも思える観察者の姿勢――は、本作においても遺憾なく発揮されており、避難所で暮らす双葉町民のあいだを流れる時間を丁寧に描き出している。監督自身も述べているように(舩橋淳「フタバから遠く離れて――避難所からみた原発と日本社会」岩波書店)、もしも極端な主知主義に走ってしまえば、人々の有機的なつながりを描くことはできない。反対に作家の主観的な感情を前面に押し出してしまえば、不要なスペクタクルを映像に求めてしまうことになる。それは単なる撮影技術の問題にとどまらず、被災者にカメラを向けることの倫理を考える上でも、同時代的で洗練された筆致であるに違いない。

しかし一方で、こうした手法が前作から踏襲されているからこそ、舩橋監督のカメラは以前と異なる双葉町の姿を偽りなく映し出してしまうことになる。避難を続ける町は、今や新しい問題に直面しているのだ。結論から言ってしまえば、それは「分断」の問題、すなわち町民のあいだに生じる齟齬の問題にほかならない。閉鎖へと向かっていく避難所の動きに呼応するように、仮の役場を中心とした町政は次第に混乱を極めていく。上からの一方的な賠償基準による対象者の線引きは、場合によっては町民のあいだに対立をもたらすかもしれない。様々な次元に走る亀裂は、作品全体の印象をまったく異質なものに変えてしまうほどの問題として私たちの目に映るはずだ。

そして同時に、こういった町の分裂はこの作品の手法そのものを揺るがす事態としても表出されることになる。というのも、旧騎西高校の避難所が閉鎖されるということは、これまで定点観察を主眼としてきた『フタバから遠く離れて』というドキュメンタリー作品が、撮影の立脚点を失ってしまうことを意味しているからだ。足場を失ったことによって、それまで観察者であったはずのカメラもまた、町民たちと同じように自身の新しい環境を模索していく必要に迫られるのである。

©2014 Documentary Japan, Big River Films

 観察者=カメラの変容

たとえば、町の分断は町議会をめぐる一連の場面に象徴されている。私たちは第一部のなかで町の歴史や復興政策を語ってくれた井戸川克隆町長(当時)のことを覚えているだろう。その町長に対して不信任案が可決されようとしているのだ。ここで傍聴席に置かれた舩橋監督のカメラは、議決を待つ町長の姿を正面から捉えている。しかし次のショットで場面が旧騎西高校の教室へと変わると、まったく同じ町長の姿が今度はテレビ画面に映る議会中継の映像として観客に提示される――テレビの前に集まった町民が議決の結果を見届けようとしているのである。

この議場から避難所への場面の跳躍は、たしかにショットの繋ぎとしては何気ない編集なのかもしれない。しかし、それにもかかわらず私たちがどこか違和感を覚えてしまうのは、それまで避難所の親密な空間を観察の定点としてきた『フタバから遠く離れて』という作品において、町議会との絶対的な「遠さ」を感じさせる瞬間が初めて到来したように思えるからではないだろうか。議場と避難所という、遠く離れた二つの場所で同時並行してカメラが回されている(ように見えてしまう)こと自体、両者の耐え難い距離を証し立ててしまっているように感じられるのである。

――試みに前作の一場面を思い返してみるならば、あのとき教室に置かれたテレビに映し出されていたのは、東京電力による会見の中継だったはずだ。

ここに暗示されているのは、前作では双葉町と国政とのあいだに生じていた隔たりが、双葉町の内部に生じてしまっている現実にほかならない。もっとも、この隔たりは第二部を撮影する段階で初めて生じたというよりも、むしろ震災の直後、7,000人の町民が全国に離散したときから存在していたに違いない。ただ、舩橋監督は撮影を開始するにあたって町役場が置かれた旧騎西高校に赴いたのであり、前作は終始この避難所という「ノアの方舟」(この表現は第一部の冒頭で使われていた)を舞台とすることで、限られた空間のリニアな時間性を取り出すことに成功していた。長期にわたる定点での撮影によって、奇妙なことにその方舟は多くのドキュメンタリーが主題としてきた土着性を懐胎した場所(それは小川紳介にとっての三里塚や牧野であり、佐藤真にとっての阿賀であるだろう)として存在していたのである。

だからこそ、その場所が失われようとしている本作において、観察を続けるカメラと観客は伝統的なドキュメンタリーの慣例がもはや通用しない事態に困惑するとともに、双葉町の人々がそれぞれ異なった時間と空間に置かれている状況をあらためて認識することになる。ひとりの町民と町議会議員とのあいだで起きる小さな諍い、福島県の仮設住宅で暮らす者と埼玉県の避難所で暮らす者との意見のすれ違い。元をたどれば人々が同じ土地で同じ時間を共有することができないという不条理が、双葉町という共同体に様々な分断の線を引いていく。

したがって、カメラはこれまで以上に個人の様相を映し出すことになる。たとえば、それはいわき市の新庁舎を拠点に町の除染作業を進めていく伊澤新町長であり、町長職を辞した後も国の復興方針をめぐって闘い続ける井戸川前町長であり、そして震災後も原発作業員として事態を収束しに向かおうとするひとりの町民の姿である。やがて、彼らをはじめとする町民たちの異なった時間を繋ぎ留めようとするカメラは、それぞれが共有している郷愁を代理するように双葉町へと入っていくだろう。依然として高い放射線量を記録しているその町は、人の立ち入りを拒みながらも、双葉町民やこの作品の繋留点であり続けている。

©2014 Documentary Japan, Big River Films

 連帯する双葉と『フタバ』

舩橋監督が繰り返し強調しているように、原発によって安逸な生活を享受してきた私たちは、双葉町が直面している事態に対して当事者としての責任を負っている。そればかりではなく、この状況は単なるエネルギー政策の範疇を越えて、市民社会のあり方を考える上でも避けては通れない問題であると言って過言ではない。全国に離散する双葉町民が共同体としての連帯を試みていくことは、現代社会のなかで分断された私たちが連帯していくことと不可分の問題であるからだ。グローバル化や情報化のもたらす流動性に象徴される今日の社会状況が、前世期に描かれた未来図とどこかで異なっているのだとすれば、それは人々をつなぐはずの新しいネットワークが、かえって人々のあいだに断絶をもたらしてしまうという逆説であるに違いない。そのような社会のなかで私たちは考え続けなければならない――土地に根を下ろすことのない人々が連帯することは果たして可能なのだろうか?

たしかに、現代とは分断された個人の多様性が称揚される時代なのかもしれない。それは震災後に高まった市民運動にも象徴されていると言える。ここでその可能性を子細に論じることはできないが、しかし少なくとも言えるのは、たとえ近代を乗り越えようとする多くの言説が人々のあいだの差異や隔たりを肯定するものだとしても、やはり私たちが何らかの土着的な同一性を必要としていることに変わりはないということだ。そうでなければ、今日の運動は災害に仮託した終末論や、主体性のないアナーキズムになってしまいかねない。

無論、双葉町民とこのドキュメンタリーがそうであるように、離散する私たちはその同一性を「郷土」に求めることはできない。しかし、それでも「郷愁」を抱くことによって連帯は可能であると信じたい。それは「郷土なき郷愁」という奇妙な事態にほかならないが、ここで言われる郷愁とは過去に存在した土地への郷愁でもなければ、現在の離れた土地への郷愁でもない。矛盾した言い方かもしれないが、それは未来に投影された土地への郷愁でなければならない。いわば理想郷としての郷土を共有すること――それよりほかにどんな連帯の方法があり得るだろうか。

『フタバから遠く離れて』の撮影は現在も続けられていると聞く。今後、双葉町の姿を描出することはますます困難になっていくだろう。それでも一連の作品が公開されることによって、観客は現代における共同体のあり方を問い続けることができるはずである。何よりも本作はクラウドファンディングの力を借りて制作されたのだ。分断された双葉町の時間を繋ぎ合わせようとするこのドキュメンタリー作品は、制作自体がネットワーク社会における連帯の可能性を指し示す作品として、郷土なき大海に浮かぶ「方舟」の役割を担っていくに違いない。

【映画情報】

フタバから遠く離れて 第二部
(2014/日本/114分/HD/カラー)

監督:舩橋淳 テーマ音楽:坂本龍一[for futaba]
撮影:舩橋淳、山崎裕 音楽:鈴木治行
プロデューサー:橋本佳子
配給:Playtime 宣伝:佐々木琉郁

公式HP:http://nuclearnation.jp/jp/
Facebook:https://www.facebook.com/futabakara
Twitter:https://twitter.com/futabakara

★11月15日(土)より、ポレポレ東中野ほか全国順次公開!

【執筆者プロフィール】

村松泰聖 (むらまつ・たいせい)
1992年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学部在学中。専攻は仏文学――のはずが、最近はもっぱら大西巨人に関する評論を構想中。ジャンルを問わず同時代に通底する「物語の経験」を読み解く。批評誌『スピラレ』同人。<mrmt_t015@asagi.waseda.jp>