そして3・11が起きた
——原村監督は震災の前から天栄村に通い続けていらっしゃったわけですが、初めて天栄村を訪ねた時の印象は、どのようなものでしたか。
原村 私が天栄村をはじめて訪れたのは、2009年の3月です。別の豪雪地帯の取材からそのまま訪ねたのですが、雪解けの季節は、大抵の地域は秋の草が枯れていて、風景としてはあまりきれいではないんですね。でも僕、驚いたんですよ。「なんてきれいな村なんだろう」って。
今では当たり前の光景になっちゃったけど、吉成さんの前で「きれいな村ですね!」と思わず口にしたんです。そうしたら、吉成さんは「そうでしょう?僕らの村は、みんなできれいにしましょう!ということで、雑草をきっちり整備しているんですよ」って。そこはインパクトがありましたね。この人はこの村をきれいにしたかったんだ、って。
——ところが、現実には東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故が起きて、天栄村にも大量の放射性物質が流れてきてしまいます。そことの闘いが映画の話のメインになっていきますが、監督は震災直後、どのような動きをされていたのですか。
原村 東日本大震災が起きた時、僕はすぐには天栄村には行けませんでした。東京だって大丈夫かな、という空気がありましたし、新幹線もなかなか動かない。会いに行くことに関しては、僕は後ろ向きでした。すぐに行ってみようという報道的な感覚は無かったです。結局、震災後にはじめて天栄村に行ったのは4月のことです。
——その様子は映画にも出てきますが、4月の段階で、村の空気はいかがでしたか。
原村 やっぱり沈んでいました。若い職員も子どもたちもみなマスクをしているし、車もあまり通らない。今から考えられないぐらいに重苦しかったです。映像って正直で、吉成さんの表情はまさにあのような感じでした。
——一方で、いつもと変わらない自然の風景もカメラに収めていますね。
原村 中には自主避難した人もいましたが、みなさん淡々と生活していて、風景としては、変わったところは何も見えないんです。吉成さんは「桜も咲くのにねえ」と言っていました。子どもたちは、あまり外には出ていなかったですけどね。
——その中で、天栄米栽培研究会の人たちの間に、放射能に負けない米を作ろう、という動きが始まります。動き始めた時、実際にはどのような雰囲気だったのですか?
原村 天栄村の人たちは、3月末の段階で既に「今年も米作りをやる」と決めていました。いろいろな方策を練って、放射能汚染をなくすようにやるぞ、とその時点でもう言っていたんですね。
とはいうものの、本当にできるかどうかは半信半疑でした。4月8日までは、福島県が制限を要請し、耕作が一切できないことになっていました。僕が撮影に行った時も、カリウムの話はとんちんかんだし「放射能に負けない米を作る」と言っても、具体的にどうすれば良いのか、誰も分からなかった。その中で、吉成さんだけが「放っておいて補償だけを求めても、何も良いことは無いだろう」と言って、カリウムとゼオライトについて何度も何度も説明し、みんなを鼓舞するんです。
吉成さんは、3月の時点で米作りができる確信を持っていたと思います。これは僕の想像ですが、3月31日に、村では「吉成さんがそこまで言うのなら俺たちもやろう」という話になっていたのでしょう。彼らのお互いの信頼関係は凄いですから。いちばん困っていたのは、田植えの時期が迫っているのに資材が集まらない、ということです。僕が訪ねた時には、すごく切羽詰まっていたんです。
——吉成さんはデータを重視する、実証主義的な方のようにお見受けしました。しかし映画では、放射性物質が土にどう影響を与えるのかとか、カリウムがどう効くのかいうのは、データでは一切示していません。これには何か理由があるのですか。
原村 おっしゃる通り、一切入れていません。唯一、米の検査で、玄米からND(問題なし)という検査結果が出た、それだけです。僕は悩んで、編集の途中では説明のCGも入れてみたんですが、やっぱり何かが違うんです。それで、今回はそういう解説はいらないだろうと決断しました。
もちろん天栄村の空間線量や、ある土地では(残留放射能が)1000ベクレルを超えたとか、そういう事実は入れています。もっと言えば、2011年10月の段階で知事が安全宣言を出したのに、その後500ベクレルを超える米が出てきたとか、天栄村の米はNDで大丈夫だったとか、プルシアンブルーでどういう効果があったかとか、いろんな情報がありました。しかしそういうデータを入れるのは、一切止めにしたんです。
この映画を見て、プルシアンブルーはどうなったのかとか、ゼオライトを入れるとどうなるとか、気になる人はいるでしょう。でも、それを入れると農家の人たちの気持ちに寄り添って見れなくなってしまう。映画って、全部を分からせる必要は無いんじゃないかと思うんです。いちばん伝えたいことを伝え、分かってもらうことが大切なのでね。天栄村の人たちがどういう気持ちでやったのか。背景にはどういう暮らしがあったのか。今回の映画で僕が伝えたいのはそこだ、と。
実際に農家の人たちは吉成さんを信頼してやっているだけで、科学的なことはそれほど分からない。分からないけれども、とにかく挑戦してみよう。その気持ちを伝えることが大切だと思いました。
——天栄米栽培研究会の人たちも、講演会で話を聞くとか、東京へ説明に出て行くとか、ずいぶん積極的な動きをされていましたね。武田邦彦先生の講演会に顔を出したり。
原村 吉成さんは、武田先生のブログはめちゃくちゃ読んでいました。2011年当時、武田さんは救世主的な存在でしたから。もうひとつ、吉成さんが武田先生の講演会を聞きたがったのは、同時に彼らの米を食べてくれるような、都会の市民の反応を聞きたかったからなんですね。ものすごい数の人がきて、足の踏み場も無いぐらいの熱気だったけれども、その場にいる、村の外の人たちの意識というか、反応を知りたかったんです。
東京に行ったというのは、端的にいえば天栄米が売れない、ということです。NDが出たけれども、売れない。これでは数値の結果を出すだけじゃ駄目だ、自分たちの取り組みを積極的に知らせなきゃ、と思って動いたんですね。
——作ることだけではなくて、消費者に対する目線や発想があることが、天栄米栽培研究会の大きな特徴だと思いますが、未検出でも買ってくれない、というのは厳しい現実ですね。
原村 正直なところ、ND(未検出)が出れば、みんな安心して食べるだろうと天栄村の人は思っていました。ところが、未検出でも食べてくれない。風評だか実害だか分からないから、僕は「風評被害」という言葉を絶対に使いたくはないのだけれども、これにはいろいろと難しい問題があるのです。
安全な食べ物を求める多くの人たちにとっては、どんなにNDが検出されても、福島のものは危ないから食べない、という発想になってしまう。農家にとっては、それがいちばんショックだったと思います。
吉成さんは、2011年の11月の段階で、安全性や自分たちの取り組みを、お客さんの元へ直接出向いて知ってもらうしかない、と言っていました。それを聞いた時に、僕は2年目の撮影のメインはそこだ、と思いました。映画のテーマが変わってきたと直感しました。
——そのなかで、東京・八王子の幼児園で開かれた講演会で、研究会のメンバーがお母さんたちと話をするシーンが、ひとつのクライマックスになっていきます。
原村 彼らはそういう全国行脚を5、6ヶ所やっていました。しかしあれだけ内容の濃い取材ができたのは、後にも先にもあの幼児園だけでした。他にも撮影させてもらいましたが、ほとんど吉成さんの話を聞いて素晴らしかった、で終わってしまう。あのように、農家の石井さんが自分の言葉で語り出したり、保護者の中にいらした被爆二世の方の気持ちが出てきたり、本音で重層的な話し合いができたように思えたのは、あそこだけだったんですね。あの幼児園での話し合いが撮れた時に「これで映画が完成できる」と思いました。そこから編集に取り組んだんです。