【Interview】“人生の時間”を撮るということ——『三里塚に生きる』(大津幸四郎・代島治彦監督)代島治彦監督インタビュー

代島治彦監督

『三里塚に生きる』(大津幸四郎・代島治彦監督)は、かつて激しい空港建設反対闘争が行われた(今も続いている)成田空港の周辺・三里塚に生きる人々の“今”を描いた映画だ。映画は三里塚に生まれ、四十数年前の激しい闘争で中心的な役割を果たしたかつての“青年行動隊”のメンバーを中心に展開され、彼らの人生を支えたある“仲間”に対する思いが浮き彫りにされていく。
もうひとつ映画の鍵を握るのは、撮影・監督をつとめた大津幸四郎さんだ。かつて『三里塚の夏』(小川紳介監督)のキャメラマンとして闘う人々の姿を収めた大津さんは、その後事情があって三里塚を離れるが、四十数年の時を経て、かの地で生き続ける人々との“再会”を果たしていく。時の経過が撮る側と撮られる側の相互に与える影響も、本作の見どころだ。
かつて三里塚に住み、映画を撮り続けた小川プロダクションなどの手による膨大な資料映像をはじめ、いくつもの印象的な言葉、そして現在の風景など、
三里塚の“昔”と“今”が交錯するなか、編集・構成をつとめたもうひとりの監督・代島治彦さんは「この作品を、闘争を知らない若い人たちにも伝えたい」と言い続けている。その言葉に込められた思いを伺った。
(取材・構成=鈴木規子 取材・構成協力=佐藤寛朗)

四十数年ぶりに三里塚を撮る

——今回、三里塚を撮り始めたきっかけを教えてください

代島 共同監督の大津幸四郎さんは、1968年に『三里塚の夏』をキャメラマンとして撮ったあと、小川監督と袂を分ち、三里塚とも袂を分かつことになります。その後、三里塚を撮り続けた小川プロダクションは、『三里塚の夏』を撮り終えたあとにできたのですが、“小川プロ”という個人の名前を冠した組織に属することに大津さんは納得できず、一人一人が自立した関係で映画を制作していた土本典昭監督のチームに行き、水俣病の映画を撮ることになります。しかし大津さんには、闘争半ばで三里塚を去ってしまったことに悔いの気持ちが残っていたんです。

その後40数年経って、2012年に発売された「小川プロダクション『三里塚の夏』を観る」(太田出版)というDVDブックの解説を語るために、大津さんは『三里塚の夏』を久しぶりに見直したんですね。そうしたら、あらためて魅力的な人々が映っている魅力的な映画だと思えて、今、この人たちがどう生きているのかが気になって、会いに行きたくなったんです。

そのDVDブックに少し採録されていますが、「三里塚・芝山連合空港反対同盟・青年行動隊」の中心メンバーだった島寛征さんと会って話をしたら、いろんなことが心に込み上げてきたそうです。そこでDVDブックができあがったときに、「これを手土産に、『三里塚の夏』に映っている人たちに会いに行きたいので、一緒に行ってほしい」と僕が声をかけられたのがきっかけです。その時は、映画にできたらいいんだけど……という程度で、絶対映画にする、という感じではなかったですね。

——お話を聞いていると、大津さんには、40数年前に三里塚で出会った人たちのことをもっと知りたかった、という思いが強くあるように感じましたが、撮影の際、そのような話をされたりはしませんでしたか。

代島 撮っている時には、そういう話はしなかったですね。

『三里塚の夏』は闘争の映画で、一人一人を撮るというよりは、日々移ろう闘争の局面を撮っている映画なんです。小川監督もそういう形でまとめて、闘争の映画として面白いものができた。『圧殺の森 高崎経済大学の記録』(67)から『現認報告書 羽田闘争の記録』(68)、そして『日本解放戦線 三里塚の夏』(68)……という流れでできたからそうなっているんですが、出ていた人たちのことをもっと知りたいという気持ちは、大津さんの中にも確実にあったと思います。

大津さんが一番会いたがったのは、島さんをはじめとする青年行動隊の人たちです。農家の息子として元々三里塚に住んでいた彼らは、当時は若かったから過激に闘ったんですが、一方で柔軟に反省もしたんです。イデオロギーで闘うのではなくて、自分たちがどうしたら勝てるか、空港をつぶせるか、ということを考えて、その戦略を柔軟に持っていました。

1971年の「東峰十字路事件」(※1971年9月16日、空港建設反対派の土地に第二次行政代執行が行われた際、警備にあたった機動隊が武装集団に襲撃を受け、3名が死亡した事件)で機動隊が3人殺されて、青年行動隊の人たちは凶器準備集合罪、公務執行妨害、傷害致死罪などの容疑で逮捕されます。1年以上拘留され、取り調べを受けた人もいます。あまりの取り調べの厳しさに黙秘を貫けない人もいましたが、メンバーの柳川秀夫さんは完全黙秘を貫いて、出てきたときは髪の毛が真っ白になっていました。その後、10年以上裁判闘争が続いたんですが、傷害致死罪の容疑をかけられた人には、ずっと傷害致死罪のレッテルがついて回った。そのような20代から30代を過ごした人が、今なお三里塚で生きているということに、大津さんは非常に興味を持ったんです。国に本気でぶつかって、警察に容疑をかけられ、それでも闘ったことを、彼らはどう受け止めているのだろうか、と。

『三里塚の夏』を撮影していた時、大津さんは30代半ばでしたが、『三里塚に生きる』の撮影を始める時は78歳になっていました。当時20代だった青年行動隊の人たちも、今は60代になっています。大津さんは「同じ時間を経てきた人たちが、その後をどう生きたのかを知りたい」と言っていました。

そこでまず、中心メンバーの柳川さんや島さんに会いに行きました。しかし柳川さんは「百姓仕事や今の生活は撮ってもいいけど、昔のことは絶対に喋らない」という条件を出してきたんです。島さんも話はするものの、肝心なことは喋ってくれない。「もう三里塚で何かを描く時代は終わった」と言って、撮影を完全に拒否した人もいます。そんなわけで、最初大津さんと2人で回ったときは「これは撮れないんじゃない?」という感じでした。

三里塚での大津幸四郎監督

——人間関係を作ろうにも、結講難しい状況ですね。その中で、どのように撮影を進めていったのですか。

代島 最初の頃は、本を読んでいろいろと勉強して、三里塚の全体像をとらえようとしていました。しかし古村と開拓の関係などは本当に複雑怪奇で、どう映画に描けるのか、全く見えてこないんです。そんな時大津さんは、「闘争の全体を描こうとしてもそれは絶対に無理だから、自分たちが出会った、三里塚の“夢のあと”を描けばいいんだよ」って言ってくれて、少しホッとしたりもしました。

とはいえ、大津さんも、島さんの所に行くまで40年以上三里塚を訪ねていないから、三里塚に関しては浦島太郎状態なんです。「この坂を降りると辺田部落っていう美しい村があるんだよ」と大津さんが言って車で降りて行くと、家が一軒も無い。「あれ、ここ辺田部落かな?」って。大津さんも、辺田部落が集団移転して消えたことを知らないんですね。

そのように、現場でひとつひとつ驚きながら、この人は今こうなっているとか、この人は死んじゃったとかが、周辺を歩きながらだんだんとわかってきて、撮影していいよと言ってくれた人から撮り始め、最終的に10人の人間を描くことになりました。

インタビューというかたちで依頼をすると、ほとんどの人が撮影に難色を示すんです。もう闘争は終わっているし、今更昔話をしてもしょうがないでしょ、って。島寛征さん、石毛博道さん、秋葉清春さんはインタビューをしていますが、それ以外の人は、みんな出会い頭で雑談を始めて、大津さんもなんとなく後ろで撮り始めて、撮っているうちにいろんな話が出てきた、という感じです。

例えば、二番目に登場する萩原勇一さんは、たまたま辺田に行ったときに、田んぼの脇で30分くらい話をしてくれたんです。萩原さんは、小川プロの映画の中では、村のまとめ役としていつもかっこいいことを言っていた人なんですが、そんな萩原さんが「実は俺、最初は迷っていて、あいつは(空港建設)賛成派になるんじゃないかって後ろ指さされそうだったから、一応反対派になったんだ」とポロッと言った。特に大津さんはまた勇ましく語るだろうと思っていたので、撮影が終わったあと、二人で「すごいことを聞いちゃったね」と顔を見合わせたりしました。

撮影を続けるうちに分かってきたのは、やはり三ノ宮文男さん(※三里塚の辺田部落に住んでいた青年行動隊のメンバー。1971年、22歳で自ら命を絶つ)の死は、みんなにとって大きかった、ということです。元青年行動隊の秋葉清春さんや石毛博道さんを訪ねると、秋葉さんは文男さんの話になるとカメラが回っていなくても泣いちゃうし、冷静な石毛さんも、文男さんの話になると感情がぶれてくる。島さんや柳川さんと話していてもそう。決して彼らが文男さんを死に追い込んだわけではないですが、みんな文男さんの死を受けとめながら生きてきたんですね。東峰十字路事件が闘争の大きな分岐点になっていることが、僕の中で大きく見えてきたんです。

『三里塚に生きる』より

▼page2 三ノ宮文男さん、という存在  に続く