【Interview】“人生の時間”を撮るということ——『三里塚に生きる』(大津幸四郎・代島治彦監督)代島治彦監督インタビュー

三ノ宮文男さん、という存在

——三ノ宮文男さんという存在を抱えながら生きている三里塚の方々を、代島監督はどのように感じられましたか。

代島 僕は青年行動隊の人たちより10歳ぐらい年下で、三里塚闘争の頃は中学生でしたが、もし60年代後半に大学生だったら、三里塚に行っていた気がします。途中で意思がくじけて、小泉英政さん(後述)のように立派には生きられなかったかもしれない。もし三里塚で生まれていたら、百姓として闘ったような気もします。線が細いから、三ノ宮文男さんのように自殺していたかもしれない。文男さんのお母さんの三ノ宮静枝さんのところで、文男さんの遺書や写真を見せてもらったら、すごくシンパシーを感じたんです。それが一番大きいですね。そういうところに共感しながら撮っていました。

静枝さんに文男さんのことを聞くのは、やはり気が引けました。三里塚の人たちは「文男の話はお母ちゃんの前でしちゃいけない。かわいそうだよ」と言っていたので、恐る恐る切り出したら、本当に昔のことなのに「前の晩、おっかあ、おっかあ、って呼んでいるのが聞こえたんだよ」と、まるで最近の出来事のように話してくれたんです。おっかあの中には、いろんな想いが残っていたんですね。

——闘争の中で亡くなってしまう人がいると、60年安保の樺美智子さんや、羽田闘争の山崎博昭さんのように、神格化されて語られる側面がありますが、三里塚闘争の中では、三ノ宮文男さんというのはどのような存在なのですか?

代島 今回撮影したみなさんにとっては、奉る存在ではないんですよ。一人一人の中で悼むというか、レクイエムなんですね。決して死を何かに利用しようとはしていないんです。三ノ宮文男さんが死んだ時、あるセクトが「文男の死を無駄にするな」と言ったらしいんですが、その時に父親が出てきて「文男を利用するな」って言ったそうです。青年行動隊の人たちも「文男の名前を、お前らのスローガンなんかに使わせねえ」と文句を言いに行った。根本のところで、自分たちの政治的な主張のために自死した人を利用する態度は許せない、というのが彼らの中にあったんです。だから「文男の敵(かたき)がうちたい!」というだけで、それ以上文男さんの死をどうこうしようとは思ってないんです。そのような受け止め方は、映画の中でも描かれていると思います。

——中盤で、かつて60年代に写真集「三里塚」を出された、写真家の北井一夫さんが登場します。北井さんを呼んだのは、どのようないきさつだったのですか?

代島 北井さんに来てもらったのは、映画がどうなるのか全然見えない、柳川さんからもまだ何も聞けない時期でした。一緒に現地に行って、写真を撮ってもらうアイディアは既にあったのですが、北井さんは青年行動隊の人たちと友達だから、話をしてもらったら昔話が出てくるかもしれない。特に北井さんは柳川さんや島さんと親しかったので、2人に会ってもらうことにしました。北井さんは、1990年代までは三里塚によく遊びに行っていたんですが、今の三里塚は撮っても面白くないと思って、撮影はしていなかったんです。大津さんが三里塚をもう一度撮ると言い出したことに驚いて、「何を撮るのか、見たくて来た」と言っていました。

柳川さんは、昔話は絶対にしないと最初に宣言しているから、僕らが聞いても絶対にダメだけれど、北井さんとなら昔話をしてくれるかもしれない。そう思って柳川さんを訪ねてもらったんですね。そうしたら柳川さんが「やっぱり三ノ宮の遺書が……」と話し出した。それまで僕らは、柳川さんがいまだに空港に反対している一番の理由が分からなかったんですが、2人が話しているのを聞いて「やっぱりそうなんだ」と思いました。そこで三里塚の人々はこうやって描いていけばいいんだとわかってきた気がします。

『三里塚に生きる』より

 「絶滅危惧種」の人々を撮る

 ——映画には、もともと三里塚に住んでいた青年行動隊のメンバーや家族のほかに、団結小屋の山崎宏さんや、大木よねさん(※反対同盟に参加した女性。第2次強制代執行時に「闘争宣言」を家の前に出したことで有名)の遺志を継いで、未買収用地で農業を続ける小泉英政さんなど、支援者として三里塚に住んだ方々も登場します。この方々は、代島監督にとってはどのような存在でしたか。

代島 山崎宏さんは、いまだに団結小屋に住んでいる人がいることに大津さんも僕も驚いて、出会い頭で撮らせてもらいました。いわば、僕らと三里塚とのファーストコンタクトです。だからお互いに緊張感というか、生々しさがあるんですね。

小泉英政さんは、大木よねさんが代替地としてもらった畑で、「この畑の由来を教えてください」とひとこと聞いたら、1時間以上、延々と喋り続けてくれたんですね。畑がなぜここにあるのか、その由来を闘争の時からずっと話してくれて、面白くて全部使いたかったけど、泣く泣く20分くらいにカットしました。

闘争支援で三里塚に入って、現地に住み込んでいる人は結構いるのですが、大工仕事をやったり、アルバイトをしたりで、百姓はしていないんです。百姓だけで生活を成立させているのは、小泉さんだけです。とはいっても、よねさんの田んぼはほんのわずかで、ほかは全部、耕作放棄地を借りている。だから財産はないんです。百姓のやり方も、純粋な自然農法を目指してビニールのマルチとか、土に戻らないものは使わない。水もまかない。いくら有機農業とか自然農法といっても、三里塚でそこまでやっているのは小泉さんだけです。やることが徹底しているんです。

“寄らば大樹の陰”ではない、国家権力や強いものに頼らず、自分の樹を育てていく生き方。三里塚に定住し、よねさんの養子になったのは、この地ではそれができると思ったからなんです。空港はもう開港しているから、何が何でも潰そうという意識はないけれど、最後までよねさんの抵抗精神は受け継ぎたい。その生き方は、誇りを持っていて清々しいんです。

柳川さんも清々しい。僕は三里塚に行くまで、百姓といえども闘争をやっていた闘士ですから怖い人をイメージしていたんですが、ものすごくやさしくて、面白い人でした。柳川さんとはじめて会ったとき直感的にイメージしたのは、ニホンカワウソです。柳川さんを訪ねた頃に、ちょうどニホンカワウソが絶滅種に指定されたんですが、百姓も同じだなと思いました。農業を、規模を大きくするとか、ビジネスとして成立させるために法人にするとか考える人が増える中で、農民が自分らしくやるのがいい、と考える人は少ない。なおかつ、空港反対闘争を続けている。そういう人は、成田周辺でももういないんです。

60年代、70年代以降、経済成長の陰で絶滅種が増えてきた。それは生き物だけではなくて、人間も同じなんです。抵抗運動とか学生運動とか、国に楯突くような人は排除されていったわけですよね。そうやって少数派になり、絶滅危惧種になっていく。柳川さんも、国に楯突いて、楯突いて、今なお楯突いているから、もう絶滅種(笑)。そうやって、絶滅に追いやられそうな人間を撮ることにしたんです。

70年代半ば以降、小川紳介監督も百姓にどんどんシフトしていって、農業をやっている人を撮っていますが、三里塚闘争に関しては「過激派がやったマイナスの闘争」というイメージだけが残ってしまいました。農民がなぜ、どうやって闘ったのか、その後どうなったのかは忘れられてきた。忘れてしまった者の一人として、その忘れられた物語を描くのが、今回の僕の仕事だと思いました。

▼page3 やっと人間が撮れた に続く