【Interview】“人生の時間”を撮るということ——『三里塚に生きる』(大津幸四郎・代島治彦監督)代島治彦監督インタビュー

やっと人間が撮れた

 ――編集についてお聞きします。小川プロの作品をはじめとする、過去のフッテージの取り入れ方は、どのように決めていったのですか?

代島 編集をする時、最初に北井さんを含めた登場人物全員の話と、亡くなった三ノ宮文男さんの遺書、それと大木よねさんの戦闘宣言を全部書き起こしました。大学ノート12冊ぐらいになりましたが、それをめくりながら、この人はこういうことを言っている、というのを全部書き出して、机の前に貼って編集しました。

過去の資料映像に関しても同じものを作り、この映画のこういうシーンで、こういうことを喋っている、というマップを作ったんです。そこで現在と過去のシーンをぶつけて、普段は見えなくなっている、一人一人の人生の時間を見えるようにした、という感じです。 

——キャメラマンの大津さんが撮られた、ということで、フォトジェニックな構成になると勝手に思っていたのですが、人物中心の構成となっています。撮影に対するこだわり、という部分では、どのようなものがありましたか?

代島 僕と大津さんが最初に凝って撮っていたのは、みんなが見慣れている空港の風景とは違う、成田空港の風景です。ところが畑から見える空港とか、林の中から飛行機が飛んでくるとか、そういうショットはなかなか撮れない。電車は時刻表があるけど、飛行機はいつ飛んでくるかわからない(笑)。三里塚に通ううちに、飛行機が頻繁に離発着する時間帯と来ない時間帯があることがわかってきて、朝の何時に行けばいいとか、時間と場所を決めて撮ったりしていました。

今、三里塚で目に見える動きといったら、仕事をする百姓がいるぐらいで、他は何もないんです。唯一テーマとして追求を試みたのが有機農業ですね。みんなが堆肥をこしらえて、有機農業をやってきたから闘争が続いたし、柳川さんの畑も有機で安心して食べられる野菜を作っています。そういう野菜づくりに、フォトジェニックな映像を求める試みはありましたが、結局映画には、そんなに入ってきませんでしたね。ひとつだけ、柳川さんが収穫するキャベツの上をモンシロチョウが飛んでいるカットがありますが、そういうのを、大津さんは一生懸命、目を回しながら撮っていました。

——音楽は「あまちゃん」などで有名な大友良英さんです。音楽をつける時に、どんな話をされましたか?

代島 できあがった映画をはじめて見た時、大友さんは「彼らをヒーローにしちゃいけないね」と言ったんです。ヒーローとしては描かないが、彼らの誇りは描きたい。そこで、「マーチでいこう」と。行進曲にして良かったと思っています。決して勇ましくない、どこか悲しくて、愚かな行進曲です。僕は勝手に「悲しみのマーチ」って名付けましたが、なかなかよいですよ。

ラストシーンでは、北井一夫さん撮り下ろしの、全員の顔写真が出てきますが、全員カメラ目線で、前を向いて写っています。その写真に大友さんの「悲しみのマーチ」を重ねて終わっていきます。ひとりひとりがもろ手を挙げて「良いことをしたね」とか、「頑張って生きたね」とか、そういう人ではないんです。「なんで反対し続けるの?」っていう意見もあるでしょうし、みんな無名の人たちですよ。そういう人たちが三里塚で生き抜いている、あるいは生き抜いたということを、僕はひとりひとり讃えて終わりたい。いろいろなことに巻き込まれて、葛藤したり、悲しんだり、移転したり、しなかったり……。いろいろあったと思いますが、やっぱり人間の人生は、讃えられてなんぼだと思いますね。

『三里塚に生きる』より

——最後に、いろいろな描き方がある中で、大津さんや代島さんにとっては、今回の映画で三里塚を描くことで、どのような事が見えてきたのでしょうか。

代島 大津さんが肺の病気で入院し、10月に台湾国際ドキュメンタリー映画祭で行われた「小川紳介監督特集シンポジウム」に行けなくなってしまいました。急遽、コーディネーターのマーク・ノーネスさん(※ミシガン大学教授・日本映画研究)が、大津さんのところに話を聞きに行ったんですが、その時に大津さんは「この映画でやっと人間が撮れた」と言ったそうです。

マークさんは、大津さんは水俣で、土本典昭監督と胎児性の患者さんなどを撮ってきて、人間などもうすっかり撮れているはずなのに「やっと人間が撮れた」と言ったことに驚いたそうですが、僕はそれを聞いて「人生が撮れた」ということだろうな、と思いました。

大津さんは、水俣で胎児性の患者さんを撮る時に、「目の前で苦しんでいる人をどう撮るか」に悩んだそうですが、今回は「その人の“人生の時間”をどう撮るか」に苦しんだと僕は思っています。大津さん自身も、何かが撮れている自信はあっても、撮れたものが何なのかは、撮影後に、試写で完成した作品を確認する中で、見えてきたのではないかと思っています。

今回は、たまたま三里塚で闘争をしてきた人や、そこにあった共同体を描きましたが、彼らはある意味で、近所のおじいさんやおばあさんと変わらない生活者なのです。そのような人たちの、言葉や、表情や、性格や、立ち居振る舞いや、喋り方——ひとつ例えをあげれば、三ノ宮静枝さんが話している時の空気感や時間ですが——いろいろなものを通してふと見えてくる、その人を形成してきた時間、というものがありますよね。それが撮れた、ということなのではないでしょうか。

——代島さんにとっては、なぜ、そのように思えたのでしょうか。

代島 三里塚に僕と大津さんが行った時期は、ちょうど東日本大震災や福島の原発事故があって、ドキュメンタリーを作る人たちの多くは、被災地や原発を撮りに行っていました。だけど僕らは三里塚に行き「なぜ今、三里塚を撮るのか」という問題を、ずっと考えてきたんですね。

例えば原発事故のドキュメンタリーを撮って社会的に伝えるべきことはあると思うし、目の前で起きている大変なことを伝えたり、そこで起こる人間ドラマで撮れるものもたくさんあるでしょう。しかし今回僕らが長い物差しで「人生」を考えた時に、その要素を描けるのは三里塚だと思ったからなんです。

福島の帰還困難地域の人たちが移転して、その家族が50年という歳月を過ごした時にどうなるか。人生が終わる時に、振り返ってどういう気持ちになっているのか。今後は水俣でも描けるかもしれないし、沖縄でも描けることかもしれない。

ところが、三里塚の闘争はほぼ終わってしまっていて、未来には引き継がれないだろうと、三里塚に住んでいる人たちの多くは考えているんですね。そのような悲しさの中で、かつて闘った人たちがどう生きたかを描くのは、ある意味、倒産した小企業の人たちや、リストラされたサラリーマンの、“その後の人生”をどう生きたかを描くのと同じ世界なんです。だから、闘争のことを全く知らなくても、人として気持ちが傾けられるような映画を、僕としては作りたかったんですね。

闘争を知っている人たちからみれば、情報量が少ないとか、もっと親切に地図とかを入れて知らせてあげたら、と言うかもしれませんが、僕は悲しい目にあったけど、その後も生き抜いた人々が今こういう気持ちでいるんだ、というところを見ていただければ嬉しいな、と思っています。

【映画情報】

『三里塚に生きる』
(2014年/カラー・モノクロ/140分/DCP/日本)

監督・撮影:大津幸四郎/監督・編集:代島治彦

朗読:吉行和子・井浦 新/音楽:大友良英/
写真:北井一夫
題字・筆文字:山田麻子/整音:滝澤 修

プロデューサー:赤松立太/代島治彦

制作:スコブル工房/企画・製作:三里塚に生きる製作委員会

11月22日より渋谷ユーロスペースにて公開、ほか全国順次

公式HP→http://sanrizukaniikiru.com/

【監督プロフィール】

監督・撮影 大津幸四郎 Otsu Koshiro
1934年、静岡県生まれ。キャメラマン。静岡大学文理学部卒。1958年に岩波映画製作所に入社。5年間撮影助手としてつとめるが、PR映画に限界を感じ退社。以後、フリーランスのキャメラマンとして独立。同時期に岩波を退社した小川紳介監督の『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』(67)『日本解放戦線・三里塚の夏』(68)、土本典昭監督の『パルチザン前史』(69)『水俣 患者さんとその世界』(71)の撮影を担当。被写体に皮膚感覚で迫る柔軟なキャメラワークで注目を浴び、日本映画界の最前衛に立つキャメラマンとしての評価を固めた。劇映画にも進出、黒木和雄監督『泪橋』(83)、沖島勲監督『出張』(89)などの作品を残す。90年代以降は積極的に若手映画作家と組み、佐藤真、ジャン・ユンカーマン、熊谷博子などの作品を撮影した。2005年に自ら撮影・構成した作品『大野一雄ひとりごとのように』を発表。もともと演出家志望だった大津は70代にしてついに監督デビューを果たした。

フィルモグラフィー

主な撮影作品

『青年の海 四人の通信教育生たち』監督:小川紳介 1966年
『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』監督:小川紳介 1967年
『日本解放戦線・三里塚の夏』監督:小川紳介 1968年
『パルチザン前史』監督:土本典昭 1969年
『水俣 患者さんとその世界』監督:土本典昭 1971年
『水俣一揆 一生を問う人々』監督:土本典昭 1973年
『不知火海』監督:土本典昭 1975年
『医学としての水俣病 三部作』監督:土本典昭 1975年
『泪橋』監督:黒木和雄 1983年 劇映画
『出張』監督:沖島勲 1989年 劇映画
『狭山事件 石川一雄・獄中28年』監督:小池征人 1991年
『魂の風景 大野一雄の世界』監督:平野克己 1991年
『アリランのうた 沖縄からの証言』監督:朴寿南 1991年
『アイランズ島々』監督:セミョーン・D・アラノヴィッチ 1993年
『まひるのほし』監督:佐藤 真 1998年
『ドルチェ 優しく』監督:アレクサンドル・ソクーロフ 2000年
『花子』監督:佐藤 真 2001年
『チョムスキー9.11』監督:ジャン・ユンカーマン 2002年
『映画 日本国憲法』監督:ジャン・ユンカーマン 2005年
『三池 終わらない炭坑の物語』監督:熊谷博子 2005年
『エドワード・サイード OUT OF PLACE』監督:佐藤 真 2005年
『三里塚に生きる』 2014年

監督作品
『大野一雄 ひとりごとのように』 2005年
『三里塚に生きる』 2014年

監督・編集 代島治彦 Daishima Haruhiko
1958年、埼玉県生まれ。映画作家、プロデューサー。早稲田大学政経学部卒。広告代理店博報堂を経て、フリーランスとして独立。1992年に沖縄を舞台にした劇映画『パイナップル・ツアーズ』をプロデュース、ベルリン国際映画祭をはじめ数々の国際映画祭に出品した。1994年から9年間、ミニシアター「BOX東中野」を経営し、多数のドキュメンタリー映画を配給・公開。2010年、日本のドキュメンタリー映画史をひも解く映画『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』を監督。2012年、チベットの難民少年を主人公にした映画『オロ』(監督:岩佐寿弥)をプロデュース。2006年から5年がかりで監督・撮影・編集したDVDシリーズ『日本のアウトサイダーアート』(全10巻・紀伊国屋書店)は欧米の美術界で評価が高い。著書に『ミニシアター巡礼』(大月書店)など。

フィルモグラフィー

主なプロデュース作品

『パイナップル・ツアーズ』監督:中江裕司ほか 1992年 劇映画
(1992年度ベルリン国際映画祭正式出品/日本映画監督協会新人賞受賞)
『写真で読む東京』監督:佐藤 真 1996年 テレビ作品
『オロ』監督:岩佐寿弥 2012年
『三里塚に生きる』 2014年 

監督作品
『戦争へのまなざし』撮影:大津幸四郎 2006年 テレビ作品
(2006年度ギャラクシー奨励賞受賞)
『日本のアウトサイダーアート』シリーズ 2006年〜2011年 DVD作品
『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』 2012年
(2012年度山形国際ドキュメンタリー映画祭クロージング作品)
『三里塚に生きる』 2014年

【聞き手プロフィール】

鈴木規子(すずき・のりこ)
1976年生まれ。横浜市出身。ドキュメンタリー映画愛好家。個人的な映画感想を随時つぶやき中。
Twitter:@kamaqusa