その名はゲルマン。アレクセイ・ゲルマン。我々の前に、60年目にしてようやく現れた曙光。あの怪物的小説を映画化できる、唯一にして最高最良の映画監督。ナチスの戦法に想を得て、アレクサンドル・デュマを換骨奪胎し、ウィリアム・ブレイクで味付けされたSF小説。アルフレッド・ベスター「虎よ、虎よ!」(56/邦訳=ハヤカワ文庫)。パラマウントによる映画化というニュースとは無縁のところで、我々はついにその可能性を手に入れた。
しかし、嗚呼! なんとしたことか! ここにあるのはゲルマンの遺作だというではないか。我々の前に姿を現した刹那、その魔術師は逝ってしまった。件の小説を映画化できる者は、もういない。どれだけデジタル技術が精細を極めようと、どれだけ3Dが進歩しようと、どれだけドルビーサラウンドが爆音を響かせようと、ハイ・テクノロジーで映画化できる代物ではないのだ。人間の想像力が、紙とインクだけによる無限の妄想力が極限にまで達した聖典は、永遠に映画になどなるものではない。
ゲルマンの白鳥の歌『神々のたそがれ』。ベスターの映画を仄望させる、ストルガツキー兄弟のSF小説の映画化。これについて何かを述べるのは簡単だ。あまりにも容易い。批評家デーモン・ナイト(1922-2002)が「虎よ、虎よ!」について書いたあの有名な評を、そっくりそのまま流用すれば済むからだ。せいぜい固有名詞を読み替える。それだけだ。
ナイト曰く――
「ここには、並みの小説六冊分に匹敵するほどの優れたアイデアがある。それだけでは飽きたらずに、ベスターはもう六冊分の悪趣味と、矛盾と、不合理さと、完全な科学的誤謬をつけたした」
「神秘主義的な悔悟と変貌を描いた結末は、奇怪なほど感動的だ。廃物のびんや錆びた鉄屑を使って美しい塔を建てたカリフォルニアの好事家のように、ベスターはガラクタから芸術品を作りあげたのである」(浅倉久志訳)
おっと。興奮のあまり筆がすべった。ここはSFのサイトじゃない。ドキュメンタリーのサイトだ。当サイトを訪れる善良なドキュメンタリー愛好家には、意味不明で不愉快だったかもしれない。スマン。
とはいえ、書いてしまったものは仕方がない。このまま続ける。もともとこの映画はドキュメンタリーでもなんでもないのだし、構うものか。
さて。上記に首を傾げるのは、映画ファンよりもSFファンの方だろう。この映画は「虎よ、虎よ!」のようなワイドスクリーン・バロックじゃないからだ。ワイドスクリーン・バロック? なんじゃ、そりゃ?
それは、哲学的な難解さとバッタモン的な安っぽさを兼ね備えた、バカバカしくも空恐ろしい大風呂敷広げまくりのスペースオペラ。全銀河の時空間を舞台、実存主義にまみれたヒーローがペダントリーとマルチプレックスに戯れながら暴れまくる、きらびやかで気宇壮大なSFの神髄。「スター・ウォーズ」? 「ガンダム」? まさか!いまだかつて映画になったことなどない、そして今後もないだろう、脳みその爆発。
だが、この映画はそうじゃない。宇宙で見捨てられた男の復讐劇を、ジェットコースター級のスピード感と目眩のするような壮麗さで描いた「虎よ、虎よ!」と似ているところなんて、表面上はまったくない。
では「神々のたそがれ」とは、どんな内容なのか。ヨーロッパの中世を思わせる惑星に、地球から学者30人が派遣された。彼らは神として遇されるが、惑星の適切な進歩のため過大な介入は禁止されている。しかし反動傾向にあるそこでは大学が破壊され、知識人狩りが行われる。残っているのは愚者と狂人、クソ生意気なガキとうざいジジイと神の子だねを得ようとする女。そんな惑星で葛藤する主人公たる神は…。神は…。神は…。
ここまでだ。ここには起承転結に則ったストーリーはない。いや、あるのかもしれないが、さっぱり理解できない。場面は同じところをグルグルまわり、シーン転換すら定かではない。何かが起こってはいるが、決定的なことは何も示されない。示されるのは気配と残滓だけ。スクリーンに映し出されるのは、雪、霧、雨、火、煙、泥、糞尿、放屁、あばただらけのケツ、卑猥な仕草、ウジ虫、ぶら下がった死体、打ち捨てられた死体、損壊される死体、無意味な踊り、臓物、陰茎、血、泡、抉り取られた目玉、よだれ、残飯、そのほか醜いもの、もろもろ。モンティ・パイソンを思わせる狂的な黒い笑いが横溢する、灰色の世界。
その世界はとてつもなく広く深い。空間的な広さは幾層にも重なった画面の奥行きとなって、時間的な深さは無限の停滞となって描かれる。深く淀む白濁したスクリーン。混沌に支配された世界。
ベスターの小説がジェットコースターならば、本作は見世物小屋かお化け屋敷か。真空中をとてつもないスピードで飛んでいるのにそのスピードが実感できない宇宙船かもしれない(乗ったことはないが)。
もし本当に「虎よ、虎よ!」を映画化するなら、おそらくこの手法以外に道はない。愚直にストーリーを映像に移し変えて成功したとしても、普通の傑作にしかならないだろう。あの奇怪なタイポグラフィを映像に置き換えるには、スタイリッシュなCGを駆使するのではなく、ウネウネとしたカオティックなカメラワークに頼るしかないはずだ。明確なストーリーを廃し、スクリーンを混沌で満たす。観客に「音を光として、動きを音として、色彩を苦痛として、触感を味として、匂いを触感として」(中田耕治訳)認識させる、もっとも可能性のある方法。
もう一度、ナイトの評を見てみよう。
それは「眩惑と呪縛がベスターの手法である」と始まり、その作風を「つねに運動へとのめりこみ、脱線し、逆もどりし、花火を打ち上げてあなたの目をそらす」と続く――。まるでゲルマンの映画のことを言っているようだ。そして、先に引用した「カリフォルニアの好事家」が「廃物のびんや錆びた鉄屑を使って」建てた「美しい塔」とは、まちがいなくワッツ・タワーのことだ。
ロサンゼルスのスラム街・ワッツ地区に屹立する数本の異形の塔。最大のものは30メートルにも達するというそれは、ある男が何年もかかって、たった一人で作りあげたガラクタ芸術。いわゆるアウトサイダー・アートの代表的な作品である。ベスターとアウトサイダー・アート(当時その言葉はまだなかったが)を引き合わせるナイトの慧眼には恐れ入る。
このような作品は、作り手のやむにやまれぬ表現衝動と説明されることが多い。フランス語ではアール・ブリュット=生の芸術と呼ばれるが、純粋な情熱ほど恐ろしいものはない。仮に作家に論理や理念や哲学といったものがあったとしても、受け手にはそれが見えない。賢しらげな解釈を弄そうとしても、その試みは五里霧中のなか禍々しいイメージの前に敗北する。小さなブラックホールのように存在するそれは、外界に剥き出された混沌とした魂の具現化だ。
別にベスターやゲルマンがその手の人だというわけではないが(たぶん)、作品にはその感覚が溢れている。どうすればこんな作品が作れるのか、どうすればこんな発想ができるか、作者の頭のなかを見てみたい。そんなふうに思わせる狂気の感覚がここに共通するものであり、西欧的な合理主義を突き抜けた地点に位置する恐怖と快楽である。ワイドスクリーン・バロックとは、奇形的な過剰さだ。
世界とは、そもそも混沌とした、とらえどころのないものではないか。
我々は芸術によって、世界を理解しようとしてきた。絵画や文学が繰り返し神話や宗教をモチーフにしてきたのは、巨大な世界に対してあまりにもちっぽけな人間が、その複雑さの前で狂ってしまわないための防波堤だったからだろう。総合芸術たる映画は、そのもっとも直感的な知覚芸術である。
しかしそれは両刃の剣だ。映画は映像という具体的な視覚イメージによって、想像力に制限をもたらす。スクリーンに投写されるのはカメラに映しとられた現実そのままなのだから、どんな映画もその軛から逃れることはできない(すべての映画はドキュメンタリーである)。それに抗おうとして、極度に抽象化された実験映像に進む作家もいて、それはもちろん有意義な試みだが、いやがおうにも観客を限定してしまう(もちろん作家本人に非はない)。先鋭的な批評家は、通俗的な商業映画の細部にある種の裂け目を見出しイメージの画一化に異を唱える。それもまた賞賛すべき仕事だが、ときに独り相撲の袋小路に陥り読み手をうんざりさせる(もちろん批評家本人の責任だ)。