【Review】むきだしの混沌――アレクセイ・ゲルマン監督作品『神々のたそがれ』 text 越後谷研


アレクセイ・ゲルマンは、商業映画で不可知な迷宮を創造するいう困難な道を進んできた。SFとは縁もゆかりもないところで創作活動をしてきたのだから、SFファンが知らないのも無理はない。しかしそれは、SFというメディアこそがもっとも得意としたものだ。数億年、数万光年というスケールで語られる宇宙。世界はあっさりと破滅し、人間は人間ならざるものに進化/変化する。新しいテクノロジーがもたらす脅威、平行世界という複層性、人間と非人間の類縁性。認識の変革を迫るのがSFであり、受け手は眩暈を覚えながらその迷宮を彷徨う。

ゲルマンの過去の作品のほとんどは、ソ連/ロシアの現実に材をとっている。ゲルマンにとって現実がすなわち迷宮だからなのだろうが、だからこそゲルマンがSFを作るのは当然のことなのだ。ゲルマンはこの原作「神様はつらい」(「虎」ならぬ「寅」を連想させる邦題だ)をデビュー作として構想していたというが、それが実現したのが人生の最終局面だったのは、皮肉なのか僥倖なのか。もし当初の構想通りこの原作でデビューしていたならば、ゲルマンはSF映画作家としてそのキャリアを積み重ねていたかもしれない。しかし、これほどの完成度を獲得したかは疑問だ。

ここにあるのは、ゲルマンが到達した極北であり、映画の極点でもある。我々はそれに捕縛される(「捕縛」とはベスターの自作評価でもある)。逃げることなどできない。多くのひとが「何だか分からないがスゴイ」と吐くしかない、フリーキーなモニュメント。

わたしは、唐突に訪れた結末の静寂を見て、これはひょっとしたら煉獄を描いたものなのではないかと思った。煉獄とは天国と地獄の間にある浄罪界であり、死者は火によって罪を浄めることにより天国に至るとされている。ダンテの「神曲」では傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、貪欲、飽食、肉欲の七つの罪の浄罪が描かれており、それに沿えば、開巻まもなく現れる「ぐうたらだ」と呆けたようにつぶやくデブおやじをはじめ、全編にわたってこれらが執拗に描かれているようにも思われる。

あるいは、知性が蔑ろにされ、愚者と狂人の楽園となった神の恩寵が届かない世界を、ソ連/ロシアといわず、世界のアレゴリーとする見方もあるかもしれない。劇中何度も繰り返されるクラリネットのような楽器の音色は、七つの災いをもたらす黙示録のラッパの音なのか。浄罪ではなく最後の審判。
派遣された30人の学者が各々神として遇され、愚者の狂乱のなかで「つらい」と愚痴るしかないのは、神ですら代替可能な規範なき世界の謂だろうか。まるで、ジャリタレが神扱いされる神の国・日本(!)の現在の姿のようだ。しかもその神なるものは、際限なく増殖を続ける。まるで、肉体を噛み切られるとそのものになってしまうゾンビのように。この映画のグチャグチャドロドロは、腐敗するゾンビの肉体か。ゾンビ化した神!
しかし、そのような絵解きめいた解釈に(上記のものは浅はかな思い付きに過ぎないが)、どれほどの意味があるのか。

原作には、神である地球人は冠状のカメラで逐一その場の映像を地球に送っている、という設定がある。スクリーンを見ればその設定は生かされていることが分かるのだが、ゲルマンがそれをどれほど重視しているか不明だ。しかしこの設定は、ある映画理論を連想させる。

ゲルマンの祖父の時代に映画に革命を起こしたジガ・ヴェルトフ。彼が提唱した映画眼=キノグラース。カメラという機械の目で、覆い隠された真実を探求し、新たな知覚を創りだす。それは前衛記録映画の金字塔とされる「カメラを持った男」(29)に結実した。そこでは、タイトル通りカメラを持った男が都市の諸相を記録し、偏執的なまでのモンタージュで都市の積層性をスクリーンに刻み込んでいた。ありとあらゆる映画技法を駆使して、誕生間もないソ連の先進性を溢れ出る喜びをもって描き出す作品だが、その秩序の過激さはブラックユーモアめいた恐怖感を引き起こし、およそ混沌としかいいようのない感覚を見る者に与える。今では、人間を監視カメラに仕立てあげる実験だったのではないかとすら思える逆説性がある。

もし本当に人間がカメラだったら、記録される映像はゲルマンが描いたもののようになるのではないか。もし映画眼を持った神によって記録されたのが「神々のたそがれ」だとしたら、それはまさに真実映画=キノプラウダというべきではないか(なんてこった! ドキュメンタリーとは関係ないと言っておきながら、これはまるでドキュメンタリーじゃないか!)。

「映画が現実を模倣するのではない、現実が映画を模倣するのだ」と言ったのは誰だったろう。そう、映画とはそもそも、おそろしく危険なものだ。我々はもっと、映画を畏れなくてはならない。作る側も見る側も、映画を矮小化しすぎている。映画を現実になぞらえて理解しようとするのは、愚行でしかない。
映画はたかだか120年程度の歴史しか持たないにもかかわらず、音楽、舞踊、詩、絵画、彫刻、建築という、その何倍、何十倍もの歴史を持つ先行芸術に匹敵する「魔」を孕んだ表現媒体である。それを自覚せずに舐めてかかると、しっぺ返しは倍返しどころの騒ぎではないはずだ。

映画をどのように作るか、作られた映画をどのように見るか。それを決めるのは、想像力という人間だけが持つ能力である。現実が映画の模倣に過ぎないならば、それを書き換えることは不可能ではないはずだ。それは、ドキュメンタリーであろうがフィクションであろうが、まずは映画を異形のものとして認識することからはじまる。「神々のたそがれ」のようなウィアードなアートに、呆れ、慄き、敬意を払うことである。
想像力という、恐ろしくも輝かしい至高の存在をフルに活用しなくて、なにが人間か。薄っぺらな映画模倣主義が政治や経済や社会を動かしている現実なんて、糞食らえだ。

 

【公開情報】

神々のたそがれ

監督:アレクセイ・ゲルマン
出演:レオニード・ヤルモルニク、アレクサンドル・チュトゥコ、ユーリー・アレクセーヴィチ・ツリーロ、エヴゲーニー・ゲルチャコフ、ナタリア・マテーワ
原作:ストルガツキー兄弟(「神様はつらい」)/脚本:アレクセイ・ゲルマン、スヴェトラーナ・カルマリータ/撮影:ウラジーミル・イリイン、ユーリー・クリメンコ/美術:セルゲイ・ココフキン、ゲオルギー・クロパチョーフ、エレーナ・ジューコワ/音楽:ヴィクトル・レーベデフ/製作:ヴィクトル・イズヴェコフ、ルシャン・ナシブリン
配給:アイ・ヴィー・シー 日本語字幕:太田直子
2013年/ロシア/DCP/モノクロ/177分
http://www.ivc-tokyo.co.jp/kamigami/

 

【執筆者プロフィール】

越後谷研 (えちごや・けん)
neoneo嘱託。DTP屋さん。新作はめったに見ない温故知故人間ですが、映画祭は別で、本作は昨年のイメージフォーラム・フェスティバルで見て唖然としたのでした。一般公開はまことに喜ばしい限りです。同時期にGEORAMA 2014(@故バウスシアター)でやった「コンシューミング・スピリッツ」の一般公開も切望。