【Review】シネマ・キャンプ第二期 最終課題優秀作品『ザ・トライブ』評 2編 text 水野由美子・宮本匡崇

© GARMATA FILM PRODUCTION LLC, 2014 © UKRAINIAN STATE FILM AGENCY, 2014

2015年1月から4月末にかけて「シネマ・キャンプ」映画批評・ライター講座の第二期が開催された。neoneo編集室からは金子と萩野が講師として参加することになった。第一期以上に多彩な才能が集まり、さらに受講者の人数も増加して、熱気に包まれる三ヶ月間となった。第一期のときに同じように、ここから映画執筆者や映画・映像業界で幅広く活躍する人材が、ひとりでも多く出ることを願ってやまない。
第二期の最終課題として『ザ・トライブ』について書かれた批評文のなかから、完成度が高いと思われる文章をここに掲載する。『ザ・トライブ』は劇映画とはいえ、ウクライナの政情不安を反映した強い社会性を寓意として持ち、多用されるシークエンスショットのなかには、ドキュメンタリー的な偶発性が内在されているといえる。若き書き手たちがこの問題作をどのように読み解いたのか、じっくりとお読み頂きたい。(金子遊)


『ザ・トライブ―異質なものとしての映画』       水野 友美子


「この映画の言語は、手話である。字幕や吹き替えは存在しない。」

ミロスラヴ・スラボシュビツキー監督の長編デビュー作である『ザ・トライブ』(2014 ウクライナ)は、この言葉をもって幕をあける。聾唖の登場人物をすべて実際の聾唖者が演じ、全編手話のこの作品は、2014年のカンヌ国際映画際の批評週間グランプリをはじめ、各国の映画祭で数々の賞を受賞した。映画は、朴訥とした印象の少年(グレゴリー・フェセンコ)が、全寮制のろう学校に転校してきたところから始まる。そこは、トライブ(族・ワル連中)が、恐怖と暴力によって支配し、新参者の彼は、売春や強盗を手伝ううちに、組織のなかで地位を得てゆく。彼はしだいに、売春をおこなう、族のリーダーの愛人(ヤナ・ノヴィコバ)に惹かれ、金を払って性の手ほどきをうけるようになる。少年は、彼女に想いを募らせてゆくが、彼女は素っ気なくからだを差し出す。彼は、彼女に夢中になるあまり、やがて族のルールを破る行動に出はじめる……

『ザ・トライブ』を観ることのおもしろさは、未知の世界に放り込まれた人間が、五官を開いて、その世界の在り方を感受し、手探りで理解してゆくスリルを味わうことにある。多くの観客にとって、ウクライナ手話は馴染みのうすい言語だろう。よって、観客は、ひとつひとつの場面において、台詞や言葉による説明抜きに、そこで起きていることをつぶさに観察し、自分が見聞きしているものを、懸命に理解しようとするだろう。主人公が転校生で、新しい世界(学校)に足を踏み入れるという設定もあいまって、私たちは、彼の物語と共振させるようにしながら、この映画を体験することとなる。この映画をまえにした者は、想像力をはたらかせて、登場人物のおかれた状況や感情を汲みとる努力をしながら、物語の筋を理解してゆく。言い換えれば、ひとりひとりの観客が、自由で能動的な態度に臨むことによって、映画が成立するのである。

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この映画はシンプルな設計である。長回しの場面が、時系列に配され、ラストシーンに至るまで淡々と一直線に進んでゆく。登場人物は、聾学校の生徒たちと周囲の大人たちに限られ、ロケーションは、閉塞感ただよう寄宿学校とその周辺——寮の建物、トラック停留所、倉庫など―を反復する。物語の中心は、会話、歩行、食事、睡眠、喫煙、排泄、セックスや暴力といった、登場人物の行動・身体表現であり、何がおこなわれているのか一目瞭然だろう。このように単純な構成・内容にすることによって、たとえ観客が手話の言葉を理解できなくても、大筋を把握できるという、ひとつの映画の可能性を試す実験のようである。

この映画が、全編手話であることは、この言語を理解できない多くの観客にとって、単なる言葉の不在ではない。むしろ、手話は、話し言葉とは似て非なる異質な存在として、映画の中心的な推進力となっている。日本語では「手」話と表記されるが、登場人物は、手だけではなく、眼や顔の表情、からだ全体のスピード感あふれる動きをもって表現する。全身をつかった表現である手話は、この映画においては、セックスや暴力といった肉体的な描写と地続きの表現のように見える。全身で感情を表現しつづける登場人物のからだは、必死に生きている人の切迫感を感じさせる。それは、非情な生存競争のなかで、それぞれに追いつめられた登場人物の役柄と相まって痛切である。

登場人物たちの目に見える肉体的な行動が中核となるこの映画は、彼らの内面の心情に関してドライで素っ気なく、それを説明するような言葉や台詞、演出するような音楽もない。私たちの前にあるのは、始めから終わりまで、登場人物の行動と状況のみである。仮に、登場人物が、感情を吐露するような台詞を話していたとしても、私たちの多くは、それを聞き取ることができない。ゆえに「悲しい」も「さみしい」も(たとえ発していても)わからない。理解できないので、惑わされることもない。私たちは、食い入るように画面を見つめ、耳をそばだて、自分の直感的な判断を信じて、その体験を自分なりに理解してゆく。感情がほとばしるような手話と、荒々しいまでの肉体の表現は、自分が見聞きしたままを裏切らない、剥き出しの現実のごとく、直接的に心に迫ってくる。

私は、この映画が、登場人物の内面の心情について触れないがゆえに、彼らの内側に、容易に語りえぬ思いが、ブラックホールのように広がっていることを想像してしまう。抑制のきいた冷静な観察者の視点から、徹底して、目に見える行動だけがつたえられることによって、登場人物の内面が、私たちの想像力のなかで、安易に言葉にしえない現実として、おぼろげな形をとりはじめる。

スラボシュビツキー監督は、サイレント映画のオマージュとして、この作品を製作したそうだが、この映画は「静寂」という意味でのサイレントではない。むしろ、音が雄弁に聞こえてくるのである。少年が階段をのぼる足音、手話を話す手が宙を切る音、もみ合うときの衣擦、ガラス瓶が割れる音、そしてエンドロールをふくむ最後のシーン。やや強調した感さえあるこれらの環境音が、場面への臨場感を高め、物語にスリルを与える。しかしながら、これらの音は、登場人物・役者を含め、手話を解する者の多くには、聞こえない音だろう。この意味で、この映画は、ほとんどすべての観客にとって、断絶をふくんだ、全貌を知ることのできない、異質なものとしてありつづける。

【執筆者プロフィール】

水野 友美子(みずの・ゆみこ)
1983年生まれ。国際基督教大学卒業。一橋大学大学院総合社会科学専攻修士課程、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ修士課程修了。学部在学中、香港に留学し、中国語圏の映画文化にふれる。共訳書に『世界史と西洋占星術』(2012, 柏書房)

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