【Review】シネマ・キャンプ第二期 最終課題優秀作品『ザ・トライブ』評 2編 text 水野由美子・宮本匡崇

© GARMATA FILM PRODUCTION LLC, 2014 © UKRAINIAN STATE FILM AGENCY, 2014

“トライブ・ハイ”な霹靂(へきれき)の後で 
—全篇手話映画『ザ・トライブ』の産声—  宮本匡崇

人の心を打つ声とはどのようなものだろうか。発声指導をするトレーナーはボーカリストに必ず脱力を指導する。喉に始まり、首全体、顎、舌、唇、肩まわり、胸、背中……、全身の筋肉を柔軟に使って息をコントロールする必要がある。身体全体をポンプのように使うことで、息を肺から喉へ送り込み、二枚の声帯を震わせる。

多くの場合、言語を発そうという意識から出発すると、この脱力に失敗する。息の出発点である胴体から離れ、喉や口で声をコントロールしようとする結果、力みが生じるからだ。日常会話で息のエネルギーを必要としない日本語話者はなおさらこの傾向にある。逆に、無意識から出発する声は理想的な発声であることが多い。例えば、何かに驚いた時の「わっ!」という反射的な声や、欠伸をする際の「ふわぁ~」という脱力した太い声などがこれにあたる。持論ではあるが、私は赤ん坊の泣き声こそがこの発声の究極系だと考えている。快であるか不快であるかはともかくとして、無意識による本能的な発声が人の心を震わせるのではないだろうか。

映画『ザ・トライブ』には音声言語によるコミュニケーションが存在しない。ウクライナのろう学校を舞台に、全編手話・字幕なしという実験的(サイレント映画へのオマージュと捉えれば回帰的)試みが敢行された今作は、俳優までが全員ろう者で構成されている。映画冒頭から、観客は音声言語に寄る理解を手放すことを余儀なくされ、手話という身体言語やその他様々な視覚情報から物語を読み取るべく、あらゆる感覚を研ぎ澄ませて画面へ集中する。左脳優位の言語認識的な“読解”を放棄し、右脳優位の空間認識的な“感受”へとシフトチェンジがなされる。画面から一時たりとも目が離せないスリルがたまらない。

この特異(であると同時に至極映画的)な“トライブ・ハイ”(と名付けたい)とも言える興奮状態の下、観客の聴覚もまた無意識のうちに感度を増していく。映画内のあらゆる音声が誇張されて聞こえてくる。特に、売春少女アナの中絶シーンは強烈だ。小さなバスタブの上での堕胎手術が終了するまで、彼女は今作中、最も大きな音声を発している。ろう者である彼女が普段発することのない無意識の発声は、言語になり得ぬ悲痛さを伴い、観客の胸に突き刺さる。医療器具の奏でる冷たい金属音とのコントラストは圧巻だ。

音声言語を排しながらも、今作はサイレント(movie)ではなくトーキー(talkie)で制作されている。ろう者のろう者による劇作品ではあるものの、観客までがろう者に同化することは要請しない。むしろ、身体の接触や衣擦れ、細かな息遣いまで、聴者の耳は過敏に反応する。また、“トライブ・ハイ”な観客が感知するのは「音」のみには留まらない。ここで際立って感受されるのは「音源」たる肉体の運動そのものだ。日頃から身体表現(act)を主言語とする役者たちは常に洗練された緊張を身体に纏い、彼らが繰り出す手話は感情の昂ぶりと共に激しさを増していく。そこには声色や声量で激情を交わす音声発話者の文法は存在しない。身振りはより速く、大きく、鋭く、直接的な動作へとエスカレートし、対話は肉体の衝突へと姿を変えながら、暴力とセックスへと地続きに移行していく。彼らの運動は意思、感情、本能に直結している。

加えてカメラもまた、常に観察的な視点を維持することで被写体と観客(ろう者と聴者)を完全には同化させない。手話による身体表現(act)は全身に及び、なおかつ、役者から離れ過ぎれば芝居の熱量が伝わりづらいため、必然的に被写体サイズはミディアム~フルショットが多くなる。ワンシーンワンカットを基本とした、人物の動きをフォローしながらの前進、後退、横移動は、まるで中空を浮遊するドローンが、つかず離れず役者についてまわるような距離感だ。こうしたカメラワークが、あたかも聴者がろう者の閉鎖的コミュニティに潜入したかのような錯覚をもたらす。上下方向に窮屈なシネスコープの画角が、ろう学校の閉塞感をさらに誇張する。

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こうした視点を得た観客が『ザ・トライブ』で目撃するのは、文字通り“tribe”(=族。同一血統を持ち、族長を頂において群居する)における愛憎と叛逆だ。

母語としてウクライナ手話を繰る彼らは、言わば小さな言語圏に暮らす少数民族であるとも言える。この群れには聴者にとって未知の行動規範とヒエラルキーが存在し、固有の秩序の中に外来者が侵入することを拒む。(ろう学校への編入早々、主人公セルゲイが不良グループに多対一の殴り合いを強要されるシーンは象徴的だ。廃墟に集合したグループのメンバー達は、まるで木々に群棲するムクドリの群れのように配置され、各々にざわめいている。)

一方で、セルゲイが巻き込まれるドラマには万人の共感に足り得る普遍性がある。彼は一方的に思いを寄せるアナ(売春婦かつ族長の愛人)がこの閉鎖的な民族圏から脱出しようとすること(=自分の前から失われること)が受け入れられない。イタリア行きを計画する彼女のパスポートを腕ずくで取り上げ、破き、噛みちぎり、破却するという彼の行動はあまりに視野狭窄的ではあるが、仲間数人に取り押さえられながらも、凶暴な獣のごとく直線的な(肉体の)暴走によってアナの脱出を阻止せんとする彼の姿は、声なき叫びとして、抜き差しならない切実さをもって観客の胸に迫る。

ラストカット。深夜の静寂の中、ゆっくりと寮の階段を上るセルゲイの全身からは尋常ではない殺気が放たれている。張り詰めた緊張の中で、“トライブ・ハイ”な観客の感覚もまた鋭利に研ぎ澄まされていく。彼は、内からこみ上げる剥き出しの憎悪を、今作中最も単純な身体表現をもって行使する。手話言語の目まぐるしい応酬や激しい肉体のぶつかり合いを観てきた観客にとって、満身創痍の少年が欲動のままにゆっくりと振り降ろす十二回の殴打はあまりにも鈍く、重い。ベッドに眠ったまま報復を待つしかない四人のろう者と同様、観客はなすすべもなく、座席に釘付けられたまま、響き渡る衝撃にただ打たれることしかできない。

セルゲイの沸き立つ憎しみの直情的な発露は、さながら赤ん坊の本能的な発声のように、イノセントな痛々しさを持って観客の胸を打つ。本能から表出する剥き出しの身体表現(act)と、“トライブ・ハイ”にチューニングされた観客の“感受”が共鳴することで、映画『ザ・トライブ』は劇場空間に完成する。

この未曾有の映画体験を経て、それでも発されるべき言語があるとすれば、それは一体どのようなものだろうか。今作を鑑賞後、私はあらゆる言葉が強度を失うような絶望に目眩を覚え、劇場に呆然と立ち尽くしていた。しかしあるいは、この衝撃を起点に発される第一声こそが、映画を語る新たな産声としてあなたの心に届くのかもしれない。

【執筆者プロフィール】

 宮本匡崇 (みやもと・まさたか) 
88年生まれ、慶大卒、フリーランスライター。映画美学校批評家養成ギブス第二期修了。専門領域は映画、文学、マンガなど。こよなく青春映画を愛す。「スピラレ」などで執筆活動を展開中。

【映画情報】

『ザ・トライブ』
(2014年/ウクライナ/シネマスコープ/132分/字幕なし/手話のみ/原題:ΠЛEM’Я)

監督・脚本:ミロスラヴ・スラボシュピツキー
撮影・編集:ヴァレンチヌ・ヴァシャノヴィチ
サウンド・デザイン:セルギー・ステパンスキー
出演:グレゴリー・フェセンコ、ヤナ・ノヴィコヴァ
配給:彩プロ、ミモザフィルムズ
宣伝:ミモザフィルムズ
後援:ウクライナ大使館

カンヌ国際映画祭2014 批評家週間グランプリ
フランス4ヴィジョナリーアワード/ガン・ファンデーション・サポート 三賞受賞
ヨーロピアン・フィルム・アワード2014 国際映画批評家連盟賞 受賞 他

公式サイト:http://thetribe.jp

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