「わたくしは子どもの時のことを、よォく覚えているんです。……(笑い声が混じって)そんで、子どもの時のことだけ、時々、お、思い出して、それを歌にするクセがあります。それで、子どもの歌が多いんだと思います」
「どういうものか、このォ、小学校の時から、子どもに好かれるタチでしてね。大体、呑気そうで、明るいことが好きで、賑やかな子ですからそれで、好かれたんでしょうけど。……私は、本当のことを言って、友達によって、暮らしてきたと言ってもいいんで」
語りの一部を、できるだけ正確に起こしてみた。おそらく、ある程度セリフとして固めた台本は用意されており、ハチローはそれを自分で言いやすいよう崩して話している。
面白いのは、イントネーションやアクセントだ。全体に訥々としていて、今聴くと不自然な節で息を継いだり、必要以上に抑揚を押さえようとしている。
戦前に青春を送った人らしいなあ、と思う。詩吟の時代に育った人という意味だ。昔は、庶民が習う読みのパフォーマンスといえばすなわち、漢詩を詠むことだったから。七言絶句の節回しを身体に入れている人が、現代的な語り口調ナレーションを読む時に生じるズレ、ぎこちなさに独特の味わいがある。それでも同年代と比べたら、ハチローはマスコミ出演で相当に練れて、対応できていたほうだろう。
そう、このレコードを発売当時に買った〈おとうさん〉の多くにとって、ラジオやテレビによく出る「タレント文化人」の走りだったサトウハチローの声は、お馴染みの存在だったはずなのだ。『20世紀放送史』(01・NHK出版)には、NHK最初期の人気番組『私の秘密』(55年放送開始)にゲスト出演したハチローが、とぼけたおしゃべりでスタジオを笑わせるようすが書き込まれている。
ただ、僕は実のところ、要領よく如才無く世の中を渡った人という褪せたイメージを持っていた。名前は子どもの頃から知っているのに、プロフィールにずっと興味を持たなかったのには、それもある。
いつも周りに子分や心酔者をはべらせ、気まぐれの感傷と才気まかせに詞を早書き、「あとはいいようによろしく」と夜の街へと消えていく、作曲家、編曲家泣かせの大センセイ。そのくせ、細かいことは気にしない豪放磊落な男だといつでも映るよう、神経質な注意で演じていた、いかにも昭和の文人。
大体、こんな風である。途中でかなり、斎藤貴男のノンフィクションで読んだ梶原一騎が混ざっている。
ところが。玉川しんめい『ぼくは浅草の不良少年 ―実録サトウ・ハチロー伝』(91・作品社)を読んでみると、古関裕而らの証言が紹介されていた。
曰く―ハチローは楽譜が読めた。こちらの曲が先に出来ると、ギターやマンドリンを弾き、ストップウォッチで正確なタイムを計りながら、譜面に合わせて詞をつける。戦前からそれが出来た作詞家は、ハチローと藤浦洸位のもの。
先に詞ができる場合は、何分何十秒と曲の時間を指定していたそうだ。これにはすっかり感心、認識を新たにした。プロもいいところだ。仕事がここまでしっかりしている(周りに迷惑をかけないの意味で)のならば、酒をしこたま呑んでもいいし、佐藤愛子に辛辣に書かれていてもいい。
太平洋戦争中は、調子のいい戦時歌「勝利の日まで」を書いた、なんてことにも……とやかく言わない。なにしろ、軍刀を提げて拳銃を持ったスポンサーにやれって命令されてンだから。一方で「もずが枯木で」では、3番の詞にさりげなく、しかし鋭く厭戦の気分を盛り込んでいる。
今年の4月にやはりハチロー勉強が目的で見た、しんゆりシアター・ミュージカルカンパニーの『音楽劇 母さん サトウハチローの詩と母のものがたり』(アルテリオ小劇場)で、「もずが枯木で」が歌われる場面にはゾクゾクッとした。歌詞の引用は控えますので、写真を見てみて下さい。
聴くメンタリーとラジオにはつながりがあった
本盤を入手したきっかけひとつで、サトウハチローについて色々と知ることが出来た。よく考えれば、実際はオール・アバウトな内容ではない。語りのテーマは少年時代の甘美な思い出に絞られているし、重要なバックボーンである父母との愛憎関係や浅草での無頼時代については、ほぼオミットされている。しかし展開がスムーズで、ひとつの作品として(それこそ聴くメンタリーとして)楽しめるので、じゅうぶん満足できるのだ。
クレジットに「構成=沙河はじめ」とある。僕が集めている聴くメンタリーに、裏方の名前まで記されている盤は珍しい。
どんな人かネットで調べてみると、「放送批評」76年4月号(放送批評懇談会)にエッセイが載っていることだけは、なんとか分かった。松竹大谷図書館に行くと、「放送批評」はあいにく収蔵しておらず空振り。国会図書館にはあった。一部引用する。
「ラジオに永く身を置いている私にとって、番組の作り手であってみれば聞く側の受け取り方感じ方が大変気になるものです」
そうか、ラジオの制作者だったのか! だからエッセイのタイトルが「音の河の中にいる私たち」。
ハチローに少年時代を語ってもらうアイデアが、会社と沙河、どちらから出たのかは分からないが、音楽と肉声を絡めたレコードを作りたい→ラジオをやってる人に頼もう、という発想の流れはスンナリ理解できる。
それにエッセイを読むと、沙河は音響、取材も兼ねていたらしい。構成といっても台本を書くだけでなく、全体をディレクションしていたと考えていいだろう。放送批評懇談会に数ページのエッセイを依頼されている位だから、当時の第一線で活躍していた人なはずだ。
つまり本盤は、当時のラジオ番組のノウハウで出来ている。まとまりがいいわけだよ。聴くメンタリーとラジオの関係は(近すぎて)盲点だった。目からウロコが落ちる思い。
さすがに「追悼盤」になることまで狙ってはいなかったろうと思うが、終盤(B面の後半)に、
「この頃は、友達が少なくなるので。酒を呑みながら友達を思い出し、そして、その、友達の詩を綴り、大きな声で朗読して。そして、そのうちに俺もそっちに行くぞと言いながら、友達の作品に杯を上げたいと思っています」
というハチローの語りを持ってきているのは、そして、ハチローも応えているのは、渋い。大先生に過去の思い出話をして頂ければ充分、オネガイシマス以上の、作り手の思想を感じる。老境の身のイノセントな季節への追想を、ノスタルジーの一面のみで捉えてはいけない。自分の人生を肯定しながら仕舞支度に入るための建設的営為なのだ、とする。
実際、自分が老いた時にはジタバタせず、こんな諦観で晩年を迎えたいものだと思う。
ここまで書いてやっと気付いた。本盤は、イングマル・ベルイマン『野いちご』(57)の、サトウハチロー版だったのだ。
※盤情報
『おとうさんの童謡 ~サトウハチローとメルヘンの世界~』
1973年/2,000円(当時の価格)
日本コロムビア
ワカキコースケ(若木康輔)
1968年北海道生まれ。本業はフリーランスの番組・ビデオの構成作家。07年より映画ライターも兼ね、12年からneoneoに参加。今回は、サトウハチローの詞の多くが頭韻、反復に則っているのに気付いたのが発見でした。「リンゴはなんにも…リンゴのきもちは」や「ちいさい秋×3」など。リズムがある言葉は、古くなりにくいんだ。それに、読売ジャイアンツ全面協力の『エノケンのホームラン王』(48)も野球狂だったハチローの原作と意識すると、違う見方ができそうだなあ……など。聴くメンを書くたび、おもしろい宿題が増えます。http://blog.goo.ne.jp/wakaki_1968