「沖縄を考える枠組みが変わる映画」を目指す
——沖縄を真正面から描くというのは、ある意味、監督の悲願のようなものだったのですね。今回、これだけは絶対に扱いたい、という目標のようなものはありましたか。
JJ おおざっぱに言えば、映画を見終わった時に、お客さんの沖縄を考える枠組が変わるような、二度と沖縄が自分たちにとって関係ないとは思えなくなるような作品を作りたい、という思いがありました。でも、僕自身に深い思いがある分、どうやったらそれを映画で表現できるのか、すごく悩んだんですね。
ひとつには、既に沖縄のドキュメンタリーはたくさんあることです。NHKや民放の番組も含めると、ものすごくたくさんあって、資金や取材力では彼らには叶わないから、インディペンデントの僕たちにできることを考えなくてはならない。
もうひとつは、沖縄の情勢は流動的で、日々のニュースや事件を追っても、映画が完成する頃にはすぐに古くなってしまう、という問題がありました。その中で、映画というアプローチであればどういう描き方があるかを突き詰めていくと、必然的に沖縄を沖縄戦から戦後70年間の長いスパンでとらえる映画にする、というところに行き着いたのです。
切り口の問題だけではありません。現実に今の沖縄を見ていくと、沖縄戦の爪痕が、人々の記憶も含め、いろいろな意味で残っているんです。逆に沖縄戦からは、今の沖縄を見る上で欠かせないルーツが、事実として見えてくる。
今回、僕がはじめから考えていたことに、日本兵の近藤一さんのインタビューがありました。彼が『ガイサンシーとその姉妹たち』(2007、班忠義監督)に出演された時に、中国から沖縄に転戦したとき、沖縄住民を見る目が中国人を見るように見下していた、という話を聞いていて、そこから始まる、と思いました。日本本土の人たちの差別的な目線は、ある意味では今まで続いている。そこに注目していくと、いろんなことが見えてくるんです。どうして日本政府は、1952年に沖縄を捨ててサンフランシスコ講和条約を結んだのか。1972年の復帰の時に、どうして基地を残したのか。今現在も、辺野古に強大な基地を作るという、沖縄からみれば理不尽な計画を進められるのかは、そういう潜在的な差別意識から生じる、と言えると思います。
アメリカ側からも、同じことが言えます。この映画では「戦利品」という言葉を使っているんですが、そこには沖縄を、血を流して勝ち取ったもの、という意識があるんですよ。アメリカは沖縄戦にただ勝利しただけではなくて、島にいる権利を勝ち取った。映画の中でモートン・ハルペリンさん(沖縄返還に携わった米国政府高官)は復帰後に「残された基地は主権を持つ政府なら、決して自国内に置かせない代物だ」と言っていましたけれども、彼が沖縄返還の時期に言った「沖縄に基地があるのではなくて、沖縄が一つの基地である」という発言も、沖縄を考える上では重要ですよね。
——映画からは、アメリカも基地を簡単には返さない、というところが構造的に見えるようになっています。
JJ そこは僕も最初から知っていたのではなくて、映画を作りながら見えてきた事です。簡単に返せないだけではなくて、なぜ今まで返してないのかが、沖縄に行けば分かるんです。実は、膨大な基地のほとんどは空き地みたいになっていて、使っていない。「使っていない基地は返還する義務がある」と日米地位協定には書いてあるけれども、「絶えず見直す義務」と書いてある割にはやっていない。やっていないということは「持ち続ける権利がある」という意識に繋がっているのですね。
——この映画の一つの特徴として、証言がとても生々しいことが上げられます。RealというよりはRawなぐらい。引き気味の、身振り手振りや震えを捉えるカメラが、その生々しさに輪をかけています。これはそういう人選だったのですか。それとも現場で自ずとそのような話になっていったのですか。
JJ これは、テクニカルな話になるんですが、インタビューは既に話をしている人を選んでいます。近藤一さんにしても、梯梧学徒の稲福マサさんにしても「語り部」の活動をされています。アメリカの軍曹だったレナード・ラザリックさんも、地域の小学校で沖縄戦の体験を話されていて、彼がアメリカのドキュメンタリーに出ているのを見て、その温かい感じというか、人間的な証言に魅力を感じてオファーをしました。もう一人の元兵士、ドナルド・デンカーさんは沖縄戦のことを本に書いていて、歴史を理解している、というのも大きかったです。
ポイントとしては、皆さんには自分の経験を話してもらいました。歴史を語ったり分析するのではなく、何を経験したかを話していただく。トラウマティックな経験を持っている人たちだから、みなさん明確に覚えているんですよね。
——第2部「占領」で、後に日の丸を焼き捨てた知花昌一さんが、日の丸を見せながら復帰運動の話をするとか、写真家の石川真生さんが、その時期、米兵相手に商売していた事を語ったりするのも、ある意味生々しかったですね。
JJ 石川真生さんの写真は僕も大好きなんですけど、米兵のレイプの話を取り上げる映画で、そういう人たちを相手に商売をしていたってアッケラカンと話すもんだから、白黒をハッキリつけたい人にはどうみえるかなって、少し心配になったんですよ(笑)。でも、それが現実というか。沖縄の人たちと米兵の個人的なつきあいは、普段はものすごく親しい。この70年、それはずっとそうなんです。米兵はそれを見て歓迎しているように誤解するんですけどね。
歌人の玉城洋子さんが「自分も米兵に拉致された」という話は僕もはじめて聞きました。彼女が平和を訴える短歌を書いている、という信濃毎日新聞の記事を読んで、興味を持って話を聞きにいったら、いろんな話が出てびっくりしました。由美子ちゃん事件の頃は、同じ石川の街に住んでいた小学生で、その記憶はあって、そのころの米兵との関係を話してくれました。
——第1部「沖縄戦」では、資料映像と合わさって、映画でしか伝わらないような迫力を感じました。
JJ アメリカの資料映像は膨大にあって、いくつ撮影班があったのかが分からないぐらい、ものすごく克明な撮影をしているんです。それが、その日に撮ったリールの形で全部残っている。例えば4月の中旬にこのへんで闘っているとかをたどっていくと、ちゃんとその映像があるんですね。ラッシュも、引き、ヨリ、別の角度から撮っていたりするものだから、編集すれば、立派なシーンになるんです。そこに気づいて、資料映像はできるだけ日付と場所を特定し、証言と同じ場所で組んでいくことを考えました。これも一つの発見でした。
沖縄の公文書館では、沖縄戦の映像は、誰もが資料としてみることができます。有名な1フィート運動(1983〜2013年、アメリカ公文書館から沖縄戦のフィルムを購入する市民の運動)と沖縄県が映像をコピーしてアメリカから持ってきた映像に加え、NHKも、そこに漏れたものを厳密に調べて、さらに4、5倍ぐらいのフッテージを持ってきて寄贈した。僕たちはそれを全部コピーして見てから選んで、更にアメリカの公文書館から40リールぐらい、新しく手に入れています。
それらは公文書だから、コピーをしても実費だけで、大して料金はかからない(笑)。しかしとにかくリソースが膨大で、100時間以上ありました。ノートとりながら、それをみるだけで3、4週間。編集は撮影と並行して進めていましたが、編集作業に集中してからも、1年半ぐらいかかりました。
——素材が多かったことのほかに、編集に時間がかかった理由は何かありますか。
JJ インタビューはそれぞれ3、4時間を撮っている中から5分とか10分を選ぶので、整理をする作業が大変でした。それと、時間軸を守るかどうか、かなり迷ったんですね。沖縄戦は、4月1日に米軍の上陸があって、その翌日読谷村で、チビチリガマの集団自決事件が起こるんですが、チビチリガマの長いシーンを入れてしまうと、その後の展開が難しい。それを第3章に入れたことで、性暴力やレイプ事件のことも全然違った視点で見えてくる。これでいける、と思いました。