<小特集:ドキュメンタリーでみる沖縄2>【Interview】 沖縄の「戦後70年」を描くのは必然だった 『沖縄 うりずんの雨』ジャン・ユンカーマン監督インタビュー


沖縄を「ドキュメンタリーでみる」小特集。続いては『沖縄 うりずんの雨』のジャン・ユンカーマン監督のインタビューだ。『ゆんたんざ沖縄』(87)『老人と海』(90)など、これまで戦争・沖縄関連のドキュメンタリーを何本も制作・配給してきた㈱シグロの30周年記念作品に位置づけられる本作は、4章構成、2時間28分の大作だが、沖縄戦と戦後の問題を地続きに捉え、アメリカ側の声を詳細に伝えるなど、これまでになかった視点がいくつも提示されている。とりわけ、資料映像を駆使した「第1部 沖縄戦」の迫力は圧巻だ。

これだけの意欲作になった大きな理由には、ユンカーマン監督自身が沖縄に寄せる長年の強い思いがあるという。そこを中心に話を聞いた。
(取材・構成 佐藤寛朗)

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沖縄との出会いと思い

——監督は高校生の頃に留学生として日本に来られて、大学を卒業してからは、沖縄で米兵に対する活動をするなど、沖縄に対する思いが非常に強い監督だと聞いています。一番はじめに沖縄というものに出会ったのは、いつですか。

ユンカーマン(以下JJ)僕がはじめて沖縄に行ったのは1975年です。大学を卒業したあと1年ほど東京に住んで、アジア太平洋資料センター(PARC)の仕事を手伝っていたりしていたんですが、そこの人たちの紹介で、2週間ぐらい取材で沖縄に行って、PCS(反戦米兵のカウンセリング活動)の人々に出会いました。そこに泊めてもらっている間に彼らの仕事の大切さを感じて、改めてスタッフと滞在できるように申請して、1975年の暮れから6ヵ月、コザの街に住んでいました。

——1975年といえば、ベトナム戦争が終結した年で、沖縄は日本復帰後3年目ですね。それまで見聞きした沖縄のイメージとの、ギャップの様なものはありましたか?

JJ あまりなかったですね。当時から沖縄は反戦運動をやっているところ、というイメージがあって、問題意識の方が強かったですね。今の日本で流れているようなロマンチックな沖縄のイメージは、僕にはありませんでした。むしろ行って、政治色の濃いところだ、と改めて思ったぐらいで。コザのBC通りは夜になると米兵であふれるし、米軍の色は今よりもよっぽど濃かったです。

でも当時の僕が一番ひかれたのは、沖縄文化の方でした。久米島の久米織とか、染め物とか、唄…ちょうど喜納昌吉がデビューした頃で、カセットを買って聞いたりしてね。それまでほとんど知らなかったので、少しずつ本を読んで、島を回ったりしていました。

沖縄の文化というのは、全部オリジナルなもので揃った「完全な文化」なんです。宗教もあるし、言葉も違うし、音楽や焼き物もある。そこに感銘を受けたから、米軍が軍事的に支配していることにますます憤りを感じるわけでね。

——そのような「基地の島・沖縄」にしているのは、自分が生まれた国・アメリカである、ということに対しては、当時、どのような思いを感じられていたんですか。

JJ 沖縄に着いた時、「アジアに来た」と思ったことをよく覚えています。東京には無いアジアの空気。でもその時イメージしたアジアというのは具体的にはベトナムです。ベトナム戦争での米軍の爆撃拠点は沖縄ですから、終結直後とはいえ、当時の沖縄はベトナムとの繋がりがはっきりと見えました。だから、こんな美しく平和的で、戦争を否定する文化を持っているところを、米軍が自分の戦争を遂行する為に勝手に使っていることにとても違和感を感じたわけです。違和感というか、怒り。責任と言ってもよいです。

アメリカ人としてこれを何とかしなければいけない、と強く思って、沖縄から帰るとすぐにアメリカに戻って大学院に入学したんですよ。ジョン・ダワー先生のところに行って「沖縄について何かをやりたい、アメリカ人に沖縄のことを伝えたい」と強い正義感で訴えたのを覚えています。でも彼は「ハードルが高い。アメリカには、沖縄に対して関心がない」と言っていました。実際、その通りなんです。

結局、沖縄のことを伝える責任があるのに、40年近くそれを果たしてこれなかった。だから僕は、沖縄についての映画をずっとずっと作りたかったんですよ。

——監督は、その後映像の仕事をされるようになって、90年に2作目の『老人と海』で、与那国島を舞台に映画を撮られます。その時「沖縄の映画を撮る」という意識はありましたか。

JJ 1本目の『劫火 ヒロシマからの旅』日本語版の制作と配給を引き受けてくれた縁で、シグロとの関係ができ、『ゆんたんざ沖縄』(1987、西山正啓監督)時はラッシュとか編集に僕も少し関わったりしていました。糸数繁さん(『老人と海』の主人公)の話は『ゆんたんざ沖縄」を撮った時に、プロデューサーの山上徹二郎さんがタクシーの運転手さんから聞いたんです。ヘミングウェイの『老人と海』と全く同じ世界が与那国にはあるんだ、と。米軍の問題ではなく、文化の話でしたが、あの映画を僕が喜んで引き受けた理由は、沖縄に対する強い思いがあったからでしょうね。

——アメリカと沖縄の関係で言うと、その後1995年に少女暴行事件があったり、2004年に沖縄国際大でヘリ墜落事件があったり、沖縄での反基地闘争の盛り上がりや日米関係が問われた時期は間断なくあったんですけれども、今回、このタイミングで映画を撮ることになった最大のキッカケは何ですか。

JJ いや、ずっとやりたかったんですけど、なかなか沖縄の映画を企画・制作するまでは至らなかったんです。1996年頃には、沖縄の企画をアメリカのテレビに売ろうとしたこともありましたが、アメリカでは沖縄に対しての関心が低く、成立しませんでした。

その後、僕は『映画 日本国憲法』(2005)を作って、2008年に「九条世界会議」に参加したんですが、そこで上がった「日本国憲法第九条(戦争放棄)は立派なもので、日本の市民は戦後60年以上ずっと九条を守ってきた」という声に、僕は違うんじゃないか、という気持ちになったんですよ。沖縄にこれだけ基地があるのに日本は平和な国だ、九条を守っているんだなんてとても言えないよね、って山上さんとふたりで話して、だったら『映画 日本国憲法』の延長線上にあるのは沖縄の基地問題の映画だ、という話になりました。その後2011年の暮れ以降、辺野古の情勢が緊迫化して、これはもう作らなくちゃ、ということで決めたんです。

『沖縄 うりずんの雨』より ©2015 SIGLO

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