フリーになって、映画を作る
——少し、三上監督のキャリアにも触れさせていただきます。琉球朝日放送ではキャスターからドキュメンタリーを作る仕事をされていき、受賞された番組も多数ありますね。番組作りに舵を切られたきっかけは何だったのですか。
三上 一番最初のきっかけは、開局の年、95年に起きた米兵による少女暴行事件です。あれは許し難い事件で、それまで基地を容認していた自民党支持層でさえも、12歳の小さな女の子が犠牲になるような事とは今度こそ本気で訣別したいと思って、県民大会で怒りを露わにしました。その後、翌年の橋本・モンデール会談で「普天間基地を返還します」という発表を、私たちメディアは朗報と伝えてしまった。これは失敗でした。辺野古移転というのは、ベトナム戦争の時代からあった軍港の計画を、普天間返還にかこつけて作るだけじゃないかと、やがてわかってくるからです。
私はニュースキャスターで、毎日夕方の30分、生放送でこの顔で伝えてきて、普天間移設問題の正体が分かってからは、手を変え品を替えニュースの特集もやりましたし、記事にも書きました。しかし、なかなか全国の認識を変えられない。独自ネタで渾身の企画を作っても、全国ネットには乗らないんですね。
幸い、ドキュメンタリーには深夜の全国枠があって、プロデューサー会議を通れば地方局で作れるので、ドキュメンタリー番組という手段に訴えて、ディレクターとして何本も作りました。『標的の村』(13)も、そうやってテレビで放送したものですが、それを映画にしたらすごい勢いで広がった。これには驚きました。
——今回の『戦場ぬ止み』を作るにあたり、琉球朝日放送をお辞めになられました。その経緯を聞かせていただけますか。
三上 『標的の村』の上映を通じて、映画を観てくださる人々は、テレビの視聴者とは違う性質を持っていて、ものを選んで考えて、行動して次に繋げていく方々だと知りました。じゃあ次も、その次の番組も、テレビで放送してから映画にするのもありかな、と思っていたんですが、私も49歳で、会社としては以前からデスクや中間管理職の仕事に移行するよう促すのに、私の方がどうしても現場がいいとか、番組作りは続けたいとかワガママを通してきて、それも限界という時期だったんですよ。
「三上君、この間の評判が良かったから、もう1本作ってくれたまえ」と会社が言ってくれたら私、辞めなかったと思います。でも会社としては、作ることはもういいから会社で先延ばしにしていることをやってくれ、ということでした。
それまでサラリーマンとして生きてきて、あと10年、企業のために生きる道もあるかなと考えました。でも、辺野古にもいけず、ニュースのコメントも言えず、デスクとして勤めるのかと思ったら…2014年じゃなかったらそうしたかもしれないですけど、2014年に辺野古がこうなると分かっていて、それに向けて20年近く取材してきたのに、会社の閉じ込められるのはあり得ないというのが結論でした。
——ということは、『戦場ぬ止み』の構想は、フリーになってから始まったのですか。
三上 会社を辞めた時点では、映画を作る話も無かったですし、カメラマンもいなければサラリーも無い、運転も下手だし編集機もない状態でした。でも『標的の村』の上映会や講演会で人前に立つたびに、今の高江や辺野古の映像を見せてくれ、とよく言われていたんです。
実は、会社を辞める覚悟を決めた頃から、個人のカメラでちょこちょこ自分で撮っていました。パソコンの編集機材も、中古で買ったら30万円ぐらいで全部揃えられたんですね。
講演会で、自分で粗編集した15分ぐらいの映像を見せると、会場の何人かが私のところにきて「次の映画を作ってちょうだい」と、5千円札を差し出してくれたりするんです。いやいや、私今何もないから作れないです、と言っても「あなたじゃないと撮れないから」か言われて、4、5万円のお金が集まっちゃったんですね。その4、5万円は高江の募金に入れちゃおうか、と東風(配給)の木下さんに相談するうちに、ならば映画をやりましょう、という展開になったのが2014年の5月末ぐらいです。
——「映画を作るぞ!」という意気込みで、再び辺野古に向かった時の心境はいかがでしたか。
三上 本当に嬉しかったですよ。「三上ひとりになったら、こんなものしか作れねえのか!」と言われるだろうと覚悟はしてましたが、自由に辺野古や高江に行ける嬉しさの方が先立ちましたね。
もちろん、制作費や条件が悪くなった部分は現実にありました。でも羽が生えた嬉しさの方が勝っていましたね。放送局にいた頃はニュースキャスターだったから、夕方には放送局に戻らなきゃいけないとか、反対運動寄りとみられないようにするとか、あまり激しい部分は放送には出せないとか、いろいろな制約があったんです。フリーになったら、おばあと仲良くテントに座り込んでもいいし、そこで物をもらって食べてもいいし、歌も歌ってもいい。「座り込めー♪」と歌えるのが嬉しくて仕方がなかったですよ。自由だなーと思って。
この映画にカンパを寄せてくださったたくさんの人の顔を見てきて、いい映画ができなかったらどうしよう、というプレッシャーもありました。でも、例え作品が結果的に期待外れでも、カンパをくださった皆さんがこの間、辺野古のことを気にして過ごしてくださっていることがわかっているんです。
辺野古のニュースを見て、三上さんも今ここにいるんだろうな、とか、逮捕されてないかしらとか、それぞれが当事者になって次の作品を待っていてくれる。それってすごいことですよね。そんな人が何千人もいる幸せな映画監督っていないんじゃない?って。少し鈍感なのかもしれないけど、待っていてくれる人たちの顔を知っている分、頑張れる勇気をいつもいただいている感じでした。