【Review】美は何処にありや ーー松本貴子監督 『氷の花火 山口小夜子』 text 越後谷研

わたしは、山口小夜子を知らない。

わたしが知る山口小夜子は、一枚のレコード・ジャケット(スティーリー・ダン「Aja〈彩〉」)と数本の出演映画、著名人として世の中に流布されたパブリック・イメージだけである。わたしには、彼女がいかに素晴らしいファッション・モデルであったか、美のイコンであったかをコメントすることはできない。

 *


考えてみれば、ファッション・モデルほど主体性の曖昧な存在も珍しいのではないだろうか。いや、一般に〈モデル〉という存在が、主体性を剥奪された存在なのではないか。誰もが知る「モナ・リザ」を持ち出すまでもなく、有名な肖像画のモデルが定かでないというのはよくあることだし、写真に至っては人物そのものの実像が刻印されているにもかかわらず、それが誰であるか不明という例はいくらでもある。そもそも関心が払われることが少ない。

〈モデル〉とは手本や模範の謂であると同時に見本、題材のことでもあり、モデルガン、プラモデルなどと使えば、それは模型=まがい物である。単なる〈型〉でしかないが、その〈型〉をどう捉えるか、いかに逸脱するかが、オリジナリティなどと解釈されたりもする。

わたしはファッションには無知なので、ここに書くことはひどく頓珍漢なことかもしれないが、それを承知で書けば、ファッション・モデルとはあくまで脇役であり、主役は彼ら/彼女らが身にまとう衣服や装身具(以下、単純に服とする)であるはずだ。他者の欲望の視線にさらされるその主体はあくまで服であり、あの服を着てみたい、あの服を着れば自分もあのモデルのように美しくなれるかも、という幻想を引き受ける存在がモデルという仕事だろう。美しくスマートなモデルの存在が、服飾業界の経済に多大な貢献をするのであれば、モデルとは広告である。しかも、著しく流行に左右されるその世界にあって、それは着せ替え人形のようなものだ。

勿論、ひとは〈服を身にまとったモデル〉を見ている。服だけを、あるいは人間だけを見ることなどあり得ない。服にしても、そのひとしか着ない服も世の中にはあるだろうし、〈服が着るひとを選ぶ〉という言い方もある。ファッション・モデルは、誰かの手段のためだけに存在するのではない。だから、彼ら/彼女らが主体的であることは、まったく矛盾しない。しかし、個人の主体性が強ければ強いほど、モデルである必要はなくなる。俳優やミュージシャンがモデルと同じ欲望の視線にさらされるように、それはもはやモデルではなくタレントになるだろう(この〈タレント〉こそ曖昧極まりない名称なのだけれど)。極端な話、何も身につけてなくても構わないのだ。


山口小夜子は70年代初期から世界的ファッション・モデルとして活躍した。そのミステリアスな容姿は〈東洋の神秘〉と称され、山本寛斎や高田賢三など日本人デザイナーのみならず、ジャン・ポール・ゴルチエやイヴ・サンローランなど海外のデザイナーとも多くの仕事をした。73~86年まで専属契約を結んだ資生堂の宣伝イメージは、日本の美の表象のひとつのエポックメイキングとなった。

この映画は、テレビ番組「ファッション通信」の立ち上げに関わり、87年の初仕事以降、何度も山口と仕事をともにしたドキュメンタリー・ディレクター松本貴子が、山口の死後8年目に制作した人物ドキュメンタリーである。作者・松本のプライベートな視点を基本とし、観客は作者に導かれてひとりの女性のポートレートに接することになる。それは、山口の死後封印されたままであった遺品の開封作業を縦軸に、関係者へのインタビュー、生前の取材映像やCM、ポスター等のアーカイブ・フッテージを横軸として、97分という幅で織り合わされた一枚の更紗のようである。

しかし、この映画にはいくつか奇妙な点が散見される。そのひとつが、先導者である作者自身の姿が見えない点だ。作者の〈声〉は、ナレーションではなく字幕で示される。客観性を心がけた作りであれば不可解ではない。状況説明だけの字幕で構成された作品は、珍しくないだろう。しかし、「ワタシ」という作者の主体性が明確にされているのに(「ワタシは~思った」というフレーズが頻出する)、それは終始一貫して白ヌキ明朝体の字幕で示される。なぜ作者は、自身の身体を透明化するような手法を採ったのだろう?

それほど気にすることではないのかもしれない。単に、その方がファッショナブルだから? ひとつの映画的ギミックにすぎないのでは? しかし、作者の意図はどうあれ、わたしにはこの手法は何か別の事態を出来しているように感じられた。あれこれ考えているうちに、これは人形遣いなのではないか、という思いが湧き上がった。操り人形の操り師。

そこに居るのに居ない、存在を不可視化する人形遣い。人形浄瑠璃にしろマリオネットにしろ、それを見る観客に人形遣いの存在は明白だ。文楽では黒衣が人形の身体を持って動かしているのは誰が見ても明らかだし、上から糸で吊っているにしろ下から棒で支えているにしろ、その姿が隠されてはいても、人形劇のからくりを理解しないひとはいない。これが人形アニメーションならば、カメラのコマ撮りによって人形それ自体が動いているように見えはするが、実演でそれはあり得ない。しかし、そうであるにもかかわらず、観客は意図的に人形遣いの存在を無視し、あるいはいつの間にか忘れ、無生物である人形が持つ生命感に感動する。それが人形劇の基本的な面白さだ。

そう考えた時、このドキュメンタリー映画に感じるある不思議な感覚ーー一筋縄ではいかないフィクショナルな感触ーーのヒントを得たような気がした。作者はこの映画の何を操ったのだろう。あるいは操ろうとしたのだろう。


映画のキャッチコピーには「謎めいた実像に迫る」とある。しかし、別の奇妙な点として、この映画には著名人を扱った人物ドキュメンタリーには不可欠と思われる、ある要素が抜け落ちている。そのひとのプライベートをもっともよく知るはずの、両親、恋人、配偶者、といった人々への取材だ。ひとりっ子だったという山口の両親や親戚が健在かどうか、結婚していたかどうかという情報すら明示されない。それが取材する側の理由によるのか、取材される側の理由によるのかは分からないが、モデル・デビュー以前の山口を知る関係者は高校時代の友人ひとりだけ。

では、観客が誘われる山口小夜子の実像とは、どのようなものだろうか。

▼page 2 に続く