【Review】美は何処にありや ーー松本貴子監督 『氷の花火 山口小夜子』 text 越後谷研

写真提供:セルジュ・ダンス

ジャン・コクトー、フェデリコ・フェリーニ、ダニエル・シュミット、アンドレイ・タルコフスキー、安部公房、寺山修司、高畠華宵、白洲正子、池田満寿夫…。これは、開封される遺品のなかで、わたしの目についた固有名詞の一部だ。生まれ育ったのはお洒落の最先端を行く横浜元町、制服のデザインで進学する高校を選び、その頃(60年代半ば)は読者モデルをし、駅から帰宅するまでの間に毎日のように男の子に声をかけられたという。アイドルはミック・ジャガーで、デビュー後はそのポートレートが並んで雑誌に収まることになる。関係者の証言には「へー」と思うものもあるかもしれないが、ネガティブなものはない。モデル業からパフォーマーに移行する際の、山本寛斎の証言にはある種の苦渋が見られるが、ファッションと身体の関係性を追求する舞踏や演劇といった活動もまた、神秘的な美を体現する女性としての連続性を感じさせる。ラップ・パフォーマンスですら、同様だ。

わたしにとっては、ほとんどすべてが初めて知ることばかりだが、ここで描かれる〈実像〉がパブリック・イメージからはみ出すことはない。家の前が墓地でそこが遊び場だったという数少ない幼少期のエピソードすら、〈ミステリアスな美のイコン〉というパブリック・イメージに適うものだ。

女の子の人形遊びが、現実をモデルにした自らが望む〈物語〉の創作であるように、どこまでいっても、そうであって欲しい、それ以外にはあり得ない〈物語〉が綴られる。例えば、虐待を受けていたというような、イメージにそぐわない実像が明かされることはない。それが、この非凡な女性の実際の姿なのか、作者による演出なのかは分からない。しかし作者は、山口小夜子というミステリアスな女性を、そのイメージのまま冷凍保存しようとしているように見える。

しかし、それを望むのは作者ばかりではないだろう。山口小夜子を知る多くのひとが望む物語なのではないか。

この映画のもうひとつの奇妙な点として、作者はいくつかある出演映画を完全に無視している。それは単に、映像の使用権に関する問題故なのかもしれないが、それらを見てみれば、何人かの映画作家が彼女に求めるものに大きな違いがないことが、理解されるだろう。寺山修司『上海異人娼館 チャイナ・ドール』(81)にしろ、勅使河原宏『利休』(89)にしろ、そこにあるのは浮世離れした人形のような人工美だ。小さな役ではあるが印象的なポジションが与えられている。そして、準主役を演じた鈴木清順『ピストルオペラ』(01)。この映画で、この特異な監督一流の、鹿鳴館のように作り物めいた絢爛たる虚構美を体現していたのは、誰よりも山口小夜子だったではないか。

そしてそれは、〈東洋の神秘〉というキャッチフレーズを自明のものとしていたと思われる山口自身の欲望でもあったのではないだろうか。

取材に答える世界的に高名なファッション・デザイナーは「まるでかぐや姫のよう」と言う。〈この世のものならぬ美しさ〉を含意するこの発言は、大袈裟なリップサービスかもしれない。しかし、この映画が70年代から00年代まで、30年以上のスパンを扱っていることに気づいた時、決してそうではないことが了解されるだろう。30年の山口の容姿に、どれほどの変化も見られないからだ。その理由の一端として〈小夜子メイク〉の実際が披露されはするのだが、高校時代の写真ですら、晩年の容姿と大差ないことは驚異である。

そのときわたしは、作者が山口の幼少時をカバーしなかった理由に思い至った。山口小夜子の美とは、ピュグマリオンのそれなのである。

自らが作った象牙の女性像を愛した、キプロスの王である彫刻師ピュグマリオン。「一点の隙もない技術のために、その作品には人工の跡がなく、ほんとうに自然がこしらえたもののよう」であった「その像の美しさは、生きた女が誰ひとり足元にもよりつけないほど」。彼が「着物を着せたり、指に宝石をはめたり、頸の周りに頸飾をかけたり」すると「着物はしっくり身について、裸かの時よりもなおと可愛らしく見え」たという。美の女神アプロディテへの願いが通じ、彫像は生命を与えられ、ピュグマリオンは彼女を妻とした。ギリシア神話の一挿話である(引用はブルフィンチ「ギリシア・ローマ神話」野上弥生子訳/岩波文庫より)。

そうなのだ。成人女性として生命を与えらた彫像に、幼少時などあるわけがない。

ピュグマリオン神話は様々な変奏曲を生んでいる。もっとも有名なのはバーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」(12)、及びそのミュージカル映画版『マイ・フェア・レディ』(64)だろう。上流階級の言語学者ヒギンズが、下品な下町の花売り娘イライザを一人前のレディに仕立て上げるロマンチック・コメディ。それは、6ヶ月でそれが可能かという、ヒギンズと盟友ピカリング大佐の賭けであったが、ヒギンズの母親が言う通り、二人の男が生きた人形で遊んでいるという批難にさらされても致し方ないものだった。だが、イライザが「自分が賭けに勝たせてやった」とヒギンズを詰るように、主体と客体は曖昧だ。これは生身の人間だから、そうなるのだろうか。



「人形は人間以上である。人形は人間の存在に依って少しも自らの存在を危うくされない。即ち人形の世界は完成しきった世界であって、永久に未完成な人間の這入ることを許さない。」

ーー四谷シモン編「日本の名随筆 別巻81 人形」(97/作品社)より(以下同)

詩人・竹内勝太郎(1894-1935)は、「人形芝居に関するノオト」と題したエッセイで、いささかのためらいもなくそう断言する。そして続ける。

「人形は唯人形自身の美に依ってのみ動く。人間は人形の命ずる処に従って人形を動かしているのに過ぎない。指一本動かすのも人形自身が動かさせているのであって、人間自らがその意志でこれを動かしているのではない。何故ならそこの世界では完全な美が一切を支配する絶対の法則であり、その美は人形自身に属して居る。人間は少しもそれにあずかる処がないからである。」

人形は「ヒトガタ」であり、古代より神の依代であった。神事は人形をもって執り行われ、病を祓う護符としても、必要不可欠なものであった。人間は人形なくして神と交信することはできなかった。人形とは即ち神にもっとも近いものであり、そこに神秘があった。

いくつかのヒントが、1935年にわずか40歳で亡くなった夭折の詩人の短いエッセイの中にある。

「人形は永久に沈黙の衣を纏う。/人形は語らない。然し人形は歌う。それは「沈黙の唄」である。だから人形芝居にお喋べりを持ちこむ程失敗に導かれる時はないだろう。」

 「人形の動作アクションは静寂を生む。動きのなかの静、静のなかの動きであり、静と動との同時存在である。それは独り最も高い、完成された舞踊のみが之れに近似する。そこでは静止ポーズは静止そのものが内部的に情熱の燃ゆる焰となり、運動ムウヴマンは動きそれ自身が輝く金剛石デイヤマンとなるであろう。」

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