映画が時間の連続であるならば、七里圭監督作品が上映される空間は、映画を制作する上で一つの構成要素であり、また、その場で鑑賞している者も映画作品に含まれてしまう一つの要素となっている。映画に関連する全てが内包された空間そのものが1つのショットとなり、また、連続することでその場所は「映画空間」へと変貌を遂げる。
2015年9月24日、渋谷アップリンク・ファクトリーにて七里圭監督が主催する連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」の第3期が開講された。講座内のイベントとしてトークショーが行われ、七里監督と共に、neoneo編集委員、批評家・映像作家の金子遊氏、写真家・演出家の三野新氏が登壇された。
「静止したイメージは映画になるのか?」と今回のイベントに先立ち表題の一つとして事前に配布されていたパンフレットに記載されてあったのだが、それは今年の7月27~8月1日の計六日間、アテネ・フランセ文化センターにて開催されたフランスの映画作家クリス・マルケルの追悼特集で上映された『ラ・ジュテ』(1962年/仏)の構成から提起された表題であった事がわかる。
『ラ・ジュテ』はモノクロームの静止画の連続を主な構成要素とした作品(通常通り撮影したフィルムにストップモーション処理を施している)であるが、劇中のある1シーンを除いて、全てのシーンがモノクロの静止画で構成されている作品である。私達が映画として鑑賞する作品は動きを伴った「動画」が主たる構成の要素であるのだが、さて、それでは静止画の連続した映画は、果たして映画とは言えないのだろうか? そもそも映画とは何だろうか? という疑問がこの表題には含まれていた。
映画を分解して考察すると、映画とはフィルムに焼き付けられた1枚の像=静止画(1秒につき24コマ)が複数枚に渡って連続するので、単独するイメージの連続であるという事も出来る。しかし、例えば1枚の静止画の連続からなる紙芝居を見る際に、私達はそれを映画だとは思う事はない。そこにはカット毎の連続性が欠如している為、あるいは、投射される媒体の不在からも考えられる。それはまた、複数枚のモーションの連続性こそが映画であるということをも意味している(もちろん一枚の写真を見て「映画的である」と想起することはあるが、それは「映画のようなもの」の情景を過去の自らの記憶に基づいてイメージを創り上げているに過ぎない)。
七里監督の作品はまた「見られること」も映画を制作する上での構成要素の一つとなっている「視線の映画」である。今回のイベント内で上映された『ドキュメント・音から作る映画』(2015年/50分)は昨年の4月26日に、今回の講座が開催された会場と全く同じ空間で記録/撮影された作品である。その試みはリアルタイムで演者が台詞=音をその場で作り上げ、同時に戯曲「サロメ」を元に想起された七里監督が予め制作していた映像をスクリーンに上映しながら、更にその空間で起こっている全ての状況をドキュメンタリー作品として記録撮影するという試みであった。そこでは演者と映像は劇場の対面で互いを見合い、対峙する関係に置かれていたのだが、映像が浮かび上がるスクリーンがまるで1つの人格を持っているかのような存在感を現していた事にまず驚嘆した。撮影空間には台本を持つ演者が、其々に設置されたマイクの前に立ち、凡そ20メートル前後の距離はあろうかという劇場の対面に映写されるスクリーンに映る七里監督の映像によるイメージと対峙する。時折スクリーンに映る10から1までのエンド・カウンターは生きている時間の有限性を表しているかのようだった。また、演者達の交錯する声紋は観客席の私の鼓膜を鋭く刺激し、鳴り響く轟音が劇場という一つの巨大な箱を鳴らしていた。
今回の第3回連続講座に参加した者は、映画が撮影された時と正に同じ空間であるアップリンクの劇場で撮影された映画『ドキュメント・音から作る映画』を体験することになった。撮影時に参加していた鑑賞者は皆、偶然映り込んでしまった映画の中に、取り込まれてしまった一人として、その後、時を経て自らをスクリーンの中に目撃することとなったのだ。それはまるで、自宅のTVで映画などを鑑賞した直後、画面に真っ黒な静止画が現れ、画面を対面でみつめる自身の姿を認めハッとする際に感じる違和感のようであり、私にはそれが、ぼやけて殆ど輪郭の伴わないが為に、映画に内包される境界線の無い「私の像」に思えたのだった。この空間における身体的体験は「見ている私」が映像に取り込まれてゆくと感じる瞬間を、自らが目撃し、自認することで体験していたのだと分かるのだった。
また、先述の映画『ラ・ジュテ』も視線の映画である。劇中、ベッドに横たわりまどろんでいた女性が、それまで閉じていた瞼をゆっくりと開き、スクリーンのこちら側に微笑み掛けるシーンによって、本作が単に静止画の連続するだけの映画としてではなく、実は予め動画として撮影されていたフィルムを編集し、ほぼ全編に渡ってストップモーション処理が施され、再構築された作品であったことが分かる。このシーンは、静止する画面の連続の中に介在するたった1つの動き=時間を表しているからこそ、より強調され、鑑賞する者の記憶に強い印象として刻まれる場面となっており、私達はこの場面から生きている存在をありありと感じ取ることができる。更にこのシーンにおける画は粒子が細かく、陰影の階調も幅が広く、特に生々しく感じられる事が印象深い。また、劇中におけるディゾルブの多用が、静止する写真と写真との間に関連性を持たせる為の有効な手段であると考えられる。
それでは改めて考えてみたいのだが、映画とは一体何だろうか? 映画とは1コマ1コマの連続性であった。カメラで撮影された映像の1コマ毎の連続が映画を構成しているが、連続性を伴わない一枚の写真もまた映画であると感じることができるのならば、映画は必ずしも動きを伴った像である必要はないと言えるのではないだろうか。映画とは、そこに撮る者と撮られる者の関係性が在るのならば、その時点で画面が動こうが動くまいが映画として成立するのである。
また、七里監督が『ドキュメント・音から作る映画』の撮影時、演者とスクリーンの間の空間に、観客の位置を設定している関係性もきわめて興味深い事柄であった。映画は受け手が鑑賞する事を前提として制作されているともいえるわけだが、七里監督はその観客さえも映画空間に内包してしまうことで、撮る者、演ずる者、見る者、の全てを取り込んだそのものが「対」では無く一つの「円」として、一つの総合体としての映画であると捉えていた。編集によって一旦解体される映画空間は今回の上映にあたり「ドキュメンタリー映画」として再構築されたのだが、ここで映画空間は単に記録する為の媒体としての映像ではなく、制作から上映される空間をも含めての1つの映画として成り立っていた。恐らく『ドキュメント・音から作る映画』は時間を経て上映される度に拡張され、変化を伴い、更新されてゆくのではないだろうか。映画作品は公開後にその都度再編集されていくことは無いが、七里監督作品にはそれが必然であるかのように思え、まるで時間と共に変化してゆくことが自然であるかのように思うのだ。
撮影する行為が映画であり、編集する行為も映画である。映画をみている観客さえもが映画である。それらを含めた全てが映画であるのだとする七里監督の作品は、それ自体が生きている存在となり、生きているのであれば時間と共に変化が生じてゆく。そのようにして今後も私達は七里圭監督の映画空間を体験してゆくことになるのだろう。静と動、連続と非連続、それは映画でも音楽でもなく、動画でも静止画でもなく、時間と共に拡張し続ける「映画空間」といえる作品なのである。
●七里圭連続講座『映画以内、映画以後、映画辺境』第3期
第2回(通算第10回)「映像アートと、アート系映画の違いって何?」
2015年11月22日(日)開催!
生西康典(演出家)× 金子遊(批評家・映像作家)× 三輪健仁(東京国立近代美術館主任研究員)× 七里圭 (映画監督)
http://webneo.org/archives/36048
【著者プロフィール】
小川学(おがわ・まなぶ)
1981年、秋田県由利本荘市生まれ。武蔵野美術大学造形学部卒業。広告、印刷業界を経て着物の染色工房に勤務。美術史、写真史の両極から映画を考察している。映画冊子「ことばの映画館 第3館」を11月23日に刊行予定。