知らない人に講談を伝えるための、最適な演出をしてくれている
――『映画 講談・難波戦記 -真田幸村 紅蓮の猛将-』では、南湖さんの語りの合間に、CGアニメーションや解説が適時インサートされます。web動画を多く制作してきたという監督、勝呂佳正さんの演出が、品がよくて効果的ですが、完成品を見てどう思われましたか。
南湖 面白い! と思いましたね。こう出来上がるとは想像していなかったので。
講談には、合戦の様子をリズムに乗せてしゃべり畳み掛けていく「修羅場読み」という独特の表現があるんですが、「修羅場読み」には今、文言が難しくて意味が分からないという限界があるんですよ。「しころ」なんて言っても、それが鎧のどの部分のことか分かる方は少ないですからね。明治時代の演芸評論家でさえ「修羅場は難しい」と言ったそうで、それを平成の人がすぐに理解できるはずがないですよね。
ところが、映画でありがたいのは字幕が出るんですよ。漢字を見れば、こういうことを言っているのかとイメージができるんです。人物の名前もそうですね。それは非常に分かりやすいと思うので、こちらも新鮮でした。講談の常連さんなら分かっていることかもしれませんが、初めてのお客さんには最適な表現だと思いましたね。
うちの5歳の子どもが、頂いたサンプル版のDVDを見たいって言うんですね。長いから途中でどっか行くかと思ったら、じーっと最後まで見ていましたね。「ちゃっぷんちゃぷん」や「こっつんこっつん」のような擬音に反応して、ケラケラ笑ったりするんですよ。終わったらもう一回見るって(笑)。面白かったんでしょうね。
CGや効果音が分かりやすく伝えてくれるというか、飽きさせない工夫をしてくれていますね。効果音と言っても、そんなに効果的じゃない音が世に時たまあるなかで(笑)、馬のいななきや鬨の声が絶妙なタイミングで聞こえてくると、凄く臨場感が出ます。ずっと生が面白いと思ってやっていますけど、ホントに効果的な音が入ると、違ってくるもんだなあと。
――それでも、本編の画面の大部分は南湖さんのお顔です。これが俳優さんなら、きっと凄いプレッシャーでしょう。
南湖 私はそこまでアップはいらんと思ったんですがねえ(笑)。もうちょっと引きでもいいじゃないかって。
――講談師に限らず高座に上がる方は、自分の顔を見られながら、ものがたりを想像してもらう。独特の表現ですよね。言ってみれば、演者の顔や姿がスクリーンになる。映画という間接的な表現を通して話芸の魅力が再認識できる、不思議な体験でした。
南湖 初舞台の時は、お客さんに「こっち見んな」と思いましたよ。とりあえず後ろ向いといてくれ、見られたら緊張するからって(笑)。それが今はすっかり慣れました。面白いもんですよね。
ああ、それに、生の高座と特に違うのは陰影ですね。寄席の明かりは、フラットにバーっと当てて影を作らないんですよね。その違いも、あ、映画だなと思いました。
――そのライティングやカット割りなどは監督の演出の領域だと思いますが、寄席ではこうだと伝えるなどディスカッションはあったんですか。
南湖 そんなには無いですね。お任せです。ただ、「生が一番面白い」とは言い続けましたけど(笑)。でも、こうして出来上がると、「こっちも面白い!」と納得しましたね。自分が出ていること抜きにしても、よく出来ている作品だと思います。
講談を次世代に渡すために、駒のひとつになろうと思った
――プロフィールを拝見すると、南湖さんは大阪芸術大学の出身。修士課程まで進まれたんですね。
南湖 そうなんですよ。もともと映画が好きで、高校生の時から何か映画の世界に携わるような仕事がしたいと思って、大阪芸大に入ったんです。全然お金が無いのに、年間100回は映画館に通いました。貧乏大学生には大きな出費ですけど、レンタルビデオじゃなくて映画館で見るのが好きだったですね。
――どんな映画が特にお好きだったんですか。コメディとか?
南湖 あのう、B級ホラーが好きでした(笑)。サム・ライミとか。あんなに出世するとは思わなかったですけどね。それにピーター・ジャクソンも『ブレインデッド』なんか本当に面白くて。あんなの撮ってた人がどうして『ロード・オブ・ザ・リング』や『キング・コング』にいっちゃうんですかね、分からないものですよね。
日本の映画では、黒澤明は全部見ました。学生時代はよくオールナイトでやっていたので、通いました。
それに、大和屋竺。大阪芸大にいると、先輩や友達からそういうのを薦められるんですよ。
――サム・ライミや大和屋竺の名前がポンポンと出てくるあたり、さすがです。映画をよく見たことはご自分の講談に活きていますか。
南湖 それはやはり、役には立っていると思います。若いお客さんに聞いてもらおうと新作講談も作っているのですが、そういう時、昔見た映画から題材を取ったりしますね。大和屋竺の『荒野のダッチワイフ』から作った新作は、『荒波のダッチワイフ』と言います。ある時かけたら、お客さんがおじいさんばっかりで、ここでやるのか……となりましたが(笑)。
在学中は演劇や演芸など他の色々なジャンルに触れるようになり、なぜかこの世界に足を踏み入れて講談師になったんですけども、今回グルッと一回転して映画に戻ることになった。我ながら面白いなあと思いました。
――大学では、何を学ばれていたんですか?
南湖 芸術計画学科で、「芸術」を「計画」するアート・プランニングというプロデューサーを育成するところにおったんです。といっても、学生が100人いて100人みんながプロデューサーにはなれませんよね。
私も一応、博物館学芸員の資格を持っているんですよ。美術館や博物館で企画をする仕事に就きたいなと考えたこともあります。最終的に大学院に進んだ時には、評論の方に行きたかったんですね。評論で講談を広めていこうと。
ただ、上方の講談の世界を覗くと圧倒的に演者の人数が少ないんです。私も現在では大阪で10本の指に入ると言われておりまして。10人程しかいないんですけど(笑)。だから講談の魅力を伝えるには、評論どうのこうのじゃなく、自分が駒のひとつにならなきゃいかんのじゃないかと思ったんです。
――弟子入りされたのは、三代目旭堂南陵(無形文化財保持者)さん。
南湖 2005年に88歳で亡くなりましたけど、弟子が8人いまして、私が一番末っ子の弟子です。師匠の芸を寄席で初めて見たのは師匠が80歳過ぎの時でしたね。もう、おじいちゃんでした。ヨタヨタヨタ~と出てきてしゃべり出すんですけど、それが面白いんですよ。お客さんも引き込まれていき、顔がグッと前に出ていくのが分かるんです。鵜飼ってありますよね。まさにあれのようにお客さんを操っているんですよ。それで、笑わすところでは笑わす。ああ、このおじいさん凄いな、このおじいさんの弟子になりたいな、と。
そんなに話も知らないし、一席でもしゃべれるなんてことは当然できないわけですけど、弟子にしてくださいと飛び込みました。とにかく講談師の数が少ないですから、自分がしゃべることに向いている向いていないは関係ない、師匠の講談を次の世代に伝えるためにも、という気持ちで。それで初めて教えてもらったら、えらい難しいがな、誰が憶えんねん(笑)。
――上方講談では、南湖さんはまだ若手と考えてよろしいんでしょうか。
南湖 この世界、50年位はやらないと(笑)。私は入門して17年目なんですけども、30年でようやく中堅と呼んでいただけるんですかね。それで、50年で上手くなったなあと言われる頃に寿命が来る。そういった世界ですから。
――師弟関係は、厳しかったですか。
南湖 うちの師匠の場合は、私が弟子入りしたのが晩年でしたからね。優しかったですよ。若い時は凄く怖かったそうですが、ほとんど怒られませんでした。怒るのもエネルギーが要りますからね。もうええわってなもんだったかも知れません。
――稽古は、弟子が自分で演目を覚え、それを師匠に聞いてもらうのですか?
南湖 聞いてはくれなかったです。「下手が移る」って(笑)。だけど、初舞台の時には師匠は聞いてくれました。
舞台の隣がすぐ楽屋なんですね。出番になったら「師匠、勉強させていただきます」と挨拶をしてから高座に上がるのですが、その場から動く気配もなくハイハイってな感じで。ああ、別に弟子が何をしゃべろうと聞かないんだ、そういうものなんだと。
ところが始まると、すぐ後ろのドアが開いて師匠が顔を出して、ちゃんと聞いているんですね。しかも、袖に寄って来る。もう年配で耳が遠いもんだから、ドンドン近づいてくるんですよ。頭が真っ白になりました(笑)。
それでも人間の訓練とは偉いもんで、舌だけは動くんです。ずっと稽古していましたから。ペースも何もなく、覚えたことをバーっと吐き出すだけなんですが、頭が真っ白なままずっとしゃべっていました。今でも忘れないですね、初舞台は。
▼page3 かつての講談は第一の大衆メディアでした に続く