坂口香津美監督の映画『抱擁』が、本年度の文化庁文化記録映画部門・文化記録映画優秀賞を受賞し、これを記念して現在、ポレポレ東中野でアンコール上映されている。
映画は、坂口監督の母親である84歳のすちえさんが、娘を失い、突如心を病むところから始まる。精神の混乱が克明に記録される中、長年連れ添った父が亡くなるのを機に、すちえさんは故郷・種子島の妹(監督の叔母)の家に身を寄せ、やがて穏やかな生活を取り戻していく。その4年間に向き合った記録である。
『抱擁』に出会ったことは、2015年の最大級の衝撃であった。監督の母の老いと心の闇。そして恢復の日々…生々しいその映像に強く心を揺さぶられると同時に、誰の身にも起こりうる「親の老いと介護」の問題を撮りきった坂口監督の映像に、若者のアイデンティティや父との相克の記録とも異なる、パーソナルドキュメントの新たな地平と可能性を感じた。いわば、セルフ・ドキュメンタリーの極北をみたのである。
「カメラを回すことで、僕自身と母の個人的な関係が社会化された」という坂口監督にお話をうかがった。(2015年6月、東京にて 取材・構成=佐藤寛朗)
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ドキュメンタリー番組の制作から 映画を手がけるまで
——『抱擁』の話をお聞きする前に、坂口監督のキャリアを少しお聞きしたいと思います。『抱擁』を撮られるまでは、テレビドキュメンタリーを中心に、番組演出を200本以上手がけてこられたそうですが、そもそも、どのようにしてテレビの世界に入られたのですか。
坂口 大学紛争の最中、入った大学を途中で辞めましてね。田舎から出てきたので、東京という街に関わるのが楽しかったんですよ。アルバイトニュースをバイブルに、ありとあらゆるアルバイトをやっていました。やがて20代の半ばになって、小さな通信社で記事を書く仕事にありついて。それも5年で辞めて、1984年に今は絶版になった「誰も私に泣いてくれない」という、荒れる若者の本を書いたんです。
校内暴力が騒がれていた頃で、朝日新聞の家庭欄にインタビュー記事が掲載され、それがTBSの報道局の目に止まりまして、朝の番組で若者をレポートする仕事を始めたんです。そのまま取り憑かれたように居続けて、気がついた時にはディレクターになっていました。ADとしての基礎訓練をまったく受けていないので、未だに勝手流、完全な自己流なんですよ。
その後は、今でいう派遣ですね。いろいろな制作会社に履歴書を送って、キー局の報道番組や情報番組にディレクターとして派遣されました。しかしあるとき夕方の番組で「坂口、お前やりすぎだ」と言われ、突然、解雇されたんです、その後は個人でテレビ局に立ち向かう方法はないかと考えて、自分で企画を作り、報道やゴールデンタイムの番組に売り込むようになりました。ドキュメンタリーでもおもしろければゴールデンの2時間番組も可能な時代で、良くも悪くもテレビの世界にはまりこんでいました。
——テレビでは一貫して「家族と青少年」の問題を追っていますね。初の映画は2000年に制作された『青の塔』(2004年公開)ですが、映画に関わるようになったきっかけを教えて下さい。
坂口 テレビの仕事を始めて15年が過ぎた1999年夏、僕は徹夜で編集した2時間番組を放送当日に納品した後で、夢遊病者のように渋谷の街をさまよっていました。スクランブル交差点にさしかかった時、不意に「ひょっとして、俺の番組、誰も見ていないじゃないか」という思いかられたのです。もうすぐオンエアの時間なのに、僕の番組を見ない人がこんなにいる。そのことにショックを受けてしまったんです。今考えるとものすごく無謀な考えですけど、それぐらい僕はテレビにどっぷりとつかり、おかしくなっていたんですね。
息苦しくなって逃げ込んだのが映画館です。その時観たのが、ドグマ95(※1)の『セレブレーション』(1999 監督:トマス・ヴィンターべア)です。ゆれる手持ちのカメラで深い精神性を描くやり方に、衝撃を受けました。同じカメラで僕が当時撮影していたのは大家族とか追っかけとかですが、あちらは手持ちのカメラで、堂々と世界を相手にしている。冷や水を浴びせられたようで、その5ヶ月後には、映画を撮り始めるんです。
——そこで撮られたのが、処女作『青の塔』(2000製作、2004公開)と『カタルシス』(2003)の2本です。
坂口 映画といっても、テレビと同じで学んだことは一切無いので、『青の塔』は、都内の廃屋で寝泊まりしながら勝手流、試行錯誤を繰り返して作ったんですけど。
当時は「引きこもり」がニュースになっていましたが、引きこもりの内面世界って、テレビの限られた取材では、なかなか見えてこないんです。そこで、実際に引きこもりの渦中にいる若者を主人公にして、彼が渡された台本を読んで、フィクションの世界に入っていくのに立ち会う映画を作りました。『青の塔』は劇映画ですが、主人公の現実に虚構が流れ込む河口で撮った「汽水のような映画」なんです。
映画を撮ることで、ひとつ腹を括りました。まだフィルムの時代でしたから、お金がかかりました。『青の塔』と『カタルシス』の2本で5000万円。その5000万円を、テレビの仕事をがむしゃらにやって捻出したんです。個人の力で1本2500万円の映画を作る。家が一軒立つ金額ですから、まさに命がけで、ものすごく恐ろしいことです。しかも、映画で回収できるのはその何十分の一。しかし崖っぷちに立ち震えるような思いで映画を始めたことが、麻薬のような映画の泥沼にのめり込んでしまったきっかけです。十分に製作費があって作った映画は一本も無いです。でも、ちょっとでもあると作りたくなる。3作目の『ネムリユスリカ』(2011)以降、映画を撮りたくてむずむずする衝動をいかに押さえるかが大変ですね。
——確かに坂口監督の映像には、ある種の中毒性のようなものが感じられます。
坂口 最近はテレビの仕事も減り、正直、生活するのも大変ですが、映画への渇望がついえることはないですね。お金がかかる映画はその方面の方に任せて、僕は人間の内面にある、深い精神性を描くことにこだわっています。精神の領域に入るのは、どんなに深く入ろうがお金がかからないですからね。
見えない傷を可視化する——『夏の祈り』
——ドキュメンタリーを映画でも手がけるようになったのが、2012年に公開された『夏の祈り』です。長崎市の「原爆ホーム」が舞台ですが、どのようなかたちで出会われたのですか。
坂口 2010年、NNNドキュメントで『かりんの家~親と暮らせない子どもたち~』という、仙台の児童養護施設を舞台にした番組を作ったのですが、放送後、そこの施設長に「坂口さん、原爆ホームに行った事がありますか?」と言われて、2ヵ月後には僕は長崎に降りたっていました。原爆ホームという名前は不思議な名前だな、と思って訪ねていったところから、このドキュメンタリーは始まったんです。
——『夏の祈り』では、原爆ホームの中で暮らす老人たちが、自分の被曝の状況を演劇で再現する「被曝劇」が、重要なシーンになっています。
坂口 被爆者の演じる被爆劇というのは、人生の最後の段階にさしかかっていた人が、自分の中にあるものを若い世代に伝えなくては死ねない、という思いの固まりだと思うのです。被曝高齢者のみなさんが、ステージを這いずって原爆の悲劇を演じ、若い人たちに警鐘に鳴らす。その凄まじさを見て、僕も記録として伝える責任を感じたのです。劇を見る子どもたちが泣こうが何しようが、ありのままの姿を見て記憶しろ、という凄み。実際に演じ終えて、安心したように亡くなった方もいました。
——『夏の祈り』でもうひとつ重要なのは、今年の平和祈念式典で「平和の祈り」を読み上げた谷口稜曄(すみてる)さんが、爆心地の公園で服を脱いで、体の傷を見せるシーンがあります。これには、僕も驚かされました。
坂口 被爆高齢者のみなさんの思いのルーツを探って行くと、やはり原爆投下の瞬間、つまりは爆心地にたどり着くわけです。稜曄(すみてる)さんには、16歳で被爆した時の傷跡が今も体に深く残っていますが、普段その傷は、奥さんにしか見せません。しかし爆心地の公園で撮影中に、僕が「今伝えたいことはありますか」と訪ねたら、突然、無言で背広を脱いで、カメラの前に生傷をさらしたのです。
被爆者が、自分たちの後半生を掛けて何かを伝えようとする気持ち。それは祈りのようなもので、根底には深い締念が流れているのです。祈っても、祈っても整理のつかない感情があって、無力さも含めた締念。しかしその先にあるものは、それでも諦めきれない、諦めてはいけないという気持ちなんですね。そこを伝えてから死ぬんだ、という凄みを間近でひしひしと感じて、僕は緊張しながらも、何かに導かれるようにカメラを回しました。
——被爆高齢者がそれぞれ持っている「1945年8月9日の原爆投下の傷」も、映画が到達するためには、直視しなければいけない対象だったのですね。
坂口 そう、まさに傷。実際の被爆という見える傷もあるけれど、心の奥深くに刻まれた癒えない膿のような「見えない傷」もある。そのことを、僕は『夏の祈り』で教えていただいたのだと思います。そしてそれは『抱擁』でも同じでした。
▼page2 映画『抱擁』〜家族に突然訪れた危機につづく
※ドグマ95 1995年、ラース・フォン・トリアー監督らによって始められた、デンマークの映画運動。ロケ撮影、手持ちであること。加えて、照明効果やフィルターワークの禁止など、「純潔の誓い」と呼ばれる10個の重要な撮影上のルールがある。