【Interview】命ある限り、人は歯車を回し続ける〜文化庁文化記録映画優秀賞受賞記念 『抱擁』坂口香津美監督インタビュー


ふるさとに帰って発見した 母の新しい姿
 

——お母様がカメラを受け入れるようになるまでは、どれぐらいの期間がかかりましたか。

坂口 父が亡くなる瞬間までですね。父が亡くなる瞬間も僕はカメラを回していました。その時母は、僕が何を撮っているかを理解してくれたのではないかと思っています。あの時は、自分一人ではなく、父と母と息子のどれが欠けても存在しない、家族の姿を撮っている。そのうちの一人が遠い世界へ旅立とうとしていて、それを息子が記録していることに気づいてくれた。その時僕は、母に撮ることを許されたのではないかと思います。

——お父さんが亡くなるその瞬間をカメラに収める境地とは、どういう感覚なのでしょうか。お母様からみると「許し」かもしれませんが・・・

坂口 あの時は、僕も父を畏れながら撮っていました。意識不明で人工呼吸器を付けていましたから。亡くなった瞬間の父を撮影するのははばかれました。しかし、息子である僕は撮らなければならない。僕のアイデンティティがそこにあるから。

僕たちは家族としてここにいる。父が息を引き取っているのは悲しいけれど、家族としてこの場にいることはとても幸福なことだ。そして、この瞬間は二度とやってこない。だから撮らなければならない……。母が父に最後に会う場面は、息子の僕に与えられた至福なのだと思いました。父に感謝しながら、必死でカメラを回しました。

——後半になると舞台が種子島に移り、ふるさとの風土の中で、お母様も癒されていくように見えました。

坂口 種子島に帰って母が自分の世界を見つけていくことで、僕も苦しみから解放されると同時に、母を撮る意味を発見していった感じがありました。

上尾市の団地でカメラを回している間は、いつも母に対して「違うだろう」と思っていました。何でそんなに弱いのかと、病に負ける母を責めているんですね。どうして歳を取ってから混乱していく?どうしてそんなにわがままを言う?問いかけというよりは叱責ですね。自分では何もできないくせに。それが、母親へのエールにだんだん変わっていくわけです。頑張れ、って。

僕は母を救いたいけれど、結婚もしていなければ、お金があるわけでもありません。唯一、カメラを回すことが母を勇気づけることだと、僕自身が種子島で気づいていきました。考えようによっては切ない話です。でも、そのかわり、一流の映像を撮ってやろうと。苦しさも含めてですが、あなたのかけがえのない映像を撮ってあげます、と。そういう信頼が母に対して芽生えてきたんです。

——お父様が亡くなられてから種子島に帰るまでは、ポンポンと話が決まっていくようにみえました。

坂口 父の葬式の時に叔母と母とのふれあいを見て、叔母と出会った以上、母は絶対に復活すると確信しました。実際、叔母はすぐに救いの手を差し伸べてくれて、数週間のうちに種子島に帰る段取りをつけてくれたんです。私も今度は、元気になっていく母の姿を撮ってあげたいと思いました。実際には、種子島でも時々発作を起こし、病気の根が深いことを思い知るのですが。

郷里に帰るのは、母が心から願っていた、実に自然な行為でした。40年間東京で暮らしていても、母の中では種子島がずっと生きていて、おばの声をひとこと聞くだけで、種子島弁が出るんです。

母と叔母は6歳ほど歳が離れているのですが、7人兄弟の長女だった母は、貧しい中、叔母を背中に背負って、肉体労働をしながら母親代わりに育ててきました。その当時の記憶が叔母にはあって、数十年後に苦しんでいる母を見て、今度は自分の背中に母を背負う決意をしたのです。それが余りにも自然だったので、僕も一緒に叔母の背中に乗った感じでした。叔母のような受け入れ方は、日本が貧しかったあの時代に育った人間同士でないとできないと思います。

——種子島に戻ってからは、親戚同士の血縁関係にもカメラを向けていくわけですが、それを撮ることに抵抗はありませんでしたか。

坂口 「親戚がよくこういう映画を撮らせてくれましたね。うちだったら無理です」と映画を観た方に言われて驚きましたが、さほどの抵抗は無かったです。それは兄妹全員が、母の背中に背負われて育ったことに恩を感じ、親戚の誰もが母に対して感謝の思いを持っていたからです。息子の僕にも、それで哀れみを感じてくれたのかもしれません。姉の息子にも協力してやろうじゃないか、という思いが、撮影を許可してくれたのだと思います。何よりも、母の兄妹は皆、母に元気になって欲しいんですよ。貧しさから逃れるように島を出て、海亀が30年後帰ってくるように、ふたたび助けを求めて、都会から逃げるように島に帰ってきたわけですから。

——「これで映画が終われる」と思ったきっかけは、何かありましたか。

坂口 種子島で母はデイサービスに通い始めるわけですが、ある時「撮ったものをみんなに見せてあげたい」と言い出したんです。もちろん僕は納得し、東京に戻ってその時、初めてラッシュを見ました。最初に目に飛び込んだのは母の乳房でした。撮影した当時、しおれかかっていた母の乳房は見た目にも驚くほど、豊かに元のようによみがえっていました。

種子島に帰ってからも、1年ぐらいは一進一退の症状が続いていたんですが、ある日、母がふと「ジャガイモ畑に行きたい」と言いました。東京に出てくる前は40年間、百姓をやっていたわけですから、実はその言葉が出てこなくてはおかしい、と僕も思っていたんです。ところがそれまでは「庭に降りなよ」と言っても、草むしりさえしなかった。1年経ち、2年経ち、2012年5月、突然母が「畑に行きたい」と口に出した。その時、ああ、これでやっと撮影が終われると思いました。撮影を初めてから4年が過ぎていました。

『抱擁』より ©SUPERSAULS

▼page4 編集で気がついた母の姿 に続く