【Interview】命ある限り、人は歯車を回し続ける〜文化庁文化記録映画優秀賞受賞記念 『抱擁』坂口香津美監督インタビュー


映画『抱擁』〜家族に突然訪れた危機

——それでは、映画『抱擁』についてお聞きします。
お母様の症状を、お父様からはじめて聞いた時の気持ちはどのようなものでしたか。

坂口 「かっつう(香津美)、母ちゃんが一日に何度も救急車を呼ぶので困っている」という、父の電話が発端でした。両親が住む埼玉県上尾市の団地に駆け付けると、母は精神安定剤にどっぷりつかったような生活の中にいて、それはもう、いきなり胸ぐらをつかまれたようなものでした。

15歳の時に種子島を離れて以降、親のことなどほとんど気に掛けていなかったのです。両親が元気であることが、長男である僕に自由に旅をさせていた。息子の勝手で、いつまでも親は元気だろうと思っていましたから。

実家に戻って、はじめて母の精神的な混乱を目の当たりにした時は、まるで罰を受けたと思いました。娘を亡くした後の、母の精神の後遺症、悲嘆など、想像すらしたことがなかったのです。崖っぷちギリギリのところで SOSを出されたことに、贖罪の気持ちが湧きました。翌月、僕は一人暮らしのアパートを引き払って、両親の住む団地の別棟に住むことにしたのです。

しかし、人間とはわがままなもので、僕がいなければ、父も母とは生活が営めなくなる局面にまで追い込まれていましたが、「なぜ母の介護のために自分を犠牲にしなくてはならないんだ」と、同時に憎しみの感情も生じるわけです。やがて父が入院し、母との二人暮らしが始まりました。僕は仕事の量を減らして母との生活に適応しようとしましたが、母の混乱は、そのような試みをことごとく破壊していきました。

だんだん僕は、いらだちを覚えるようになっていきました。贖罪のつもりで看病しようとしても、母は息子の気持ちを理解しようとするどころか、暴言を吐き、激しく興奮、混乱し、物を投げるのです。地獄のような日々でした。母親と毎日膝をつき合わせていると、僕も幽閉されたようになって、だんだん精神がおかしくなってくるんです。

一番のピークに達したのは、三日間ぐらい外に出れず、四日目にどうしても行かなければならない取材があって出かけようとした時でした。母が僕の足にしがみついて「寂しいから仕事に行くな」と言うのです。彼女にとっては生きるか死ぬかの瀬戸際だったかもしれませんが、僕も必死でした。申し訳ないとは思いましたが、しがみついた母の手をふりほどいて、部屋に鍵をかけて外に出ました。

バスを待っていると、無性に哀しくなりました。僕が帰ってくるまで母は部屋にひとりでいられるだろうか。精神安定剤を、決められた時刻に定められた分量、服用することができるだろうか。……無理だ、と思いました。ひとり部屋で哀しく暴れる母の姿を思い浮かべると、そうまでして仕事をしなくてはならないのか……哀しくなって、結局取材にはいかず、僕はバス停から引き返していました。

部屋に戻ると、精神安定剤を探している母がいました。「どこに行ってたんだ」と凄まじい形相で母は言うので、僕は精神安定剤を探して、飲ませてやりました。その後は母といても、することなんてなにも無い。仕方なくカメラを覗くと、ファインダーに母の姿が映っていました。

窓辺に座り、園庭で遊ぶ幼稚園の子どもたちを見ている母の姿が、小さく弱々しく、心細げで悲しく見えたんですね。思わずカメラを回していました。カメラが無いと腹立たしく見えるのに、カメラに映った母の姿は哀れで、胸が痛くなりました。今まで自分が守ってきたものが何だったのかわからなくなり、悲しくて、涙が出て止まらない。そんな体験は僕の中で初めてでした。

母は1930年(昭和5年)に種子島の貧しい農家に生まれ、結婚してからも、農業など肉体労働で身を粉にして働いてきました。1971年、借金を返すために家や田畑を売って東京に出てきてからは、ビルの清掃や銀行の賄い婦、パン工場などで働きました。厳しい母で、小さい頃は僕もよく叩かれましたよ。しかし母を恨んだことはなく、肉体を使って僕を育ててくれたとことに、畏敬の念さえあったんです。

そんな男勝りで強い母が、まさかこんなに小さくなってうろたえるとは……。その落差を受け入れ難かったのでしょう。今でも僕の中には、あの強い母はどこへいったんだ、という気持ちがあります。

『抱擁』より ©SUPERSAULS

——2008年の4月にお父様から連絡があって、5月に近くに住み出して、カメラを撮り出すのが2009年の2月と聞きました。約半年間で、そこまでの状況に追い込まれるわけですね。

坂口 僕が転居してくると、父はまるで僕にバトンを渡すかのように、8ヶ月後に入院するのです。父も母の介護に疲れていました。どれだけかんばっても母の精神の病気は治らない。やがて父は亡くなるのですが、逝くまで全然、苦しむ姿を息子の僕に見せませんでした。「母ちゃんには薬をあまり飲ませるな。かっつう、誰でもいいからいい人を見つけて結婚しろ」というのが父の最後の言葉でした。思えば悲しいですよね。

——お母様に対してカメラを向けながら、どんなことを考えておられましたか。

坂口 これまでの作品と明らかに違うのは、作品にしようと思ってカメラを回し始めたわけではない、ということです。カメラを手にした時は、僕の中に、明らかに母を殴るかもしれない、暴力的な衝動が生まれつつありました。

僕が母を殴るかもしれない、という恐れは、逆に言えば、僕が母親を絶対的に愛していることの現れです。愛しているが故に暴力に走る、アンビバレントで倒錯的な感覚。母が赤の他人であれば、適度な距離感を保てるのですが、母と僕とは密着した親子関係だったので、喜びも濃密であれば、苦しみもまた濃密だったのです。

お互いの生々しい感情のぶつけ合いから僕たちを救ったのは、一台のカメラでした。カメラのレンズの持つ焦点距離が、母と僕の距離を保ってくれたのです。人間、大切なものと命がけで向き合う時は、自分のもっとも得意とするものを介在させることが有益なのですね。洋服屋さんが洋服を仕立てるように、料理人が料理を作るように、僕はカメラを手にして母と向き合った。湧き起こるネガティブな感情をポジティブなものに転化させることができる装置。それが、僕の場合はカメラだったんです。

——いま「暴力」ということばが出ましたが、のっぴきならない状況では、手を差し伸べるか、それともカメラを回すか、という問いが生じませんか。

坂口 映画を観た方から「なぜあなたは手を差し伸べずにカメラを回すのか」と言われたこともありました。確かにカメラを持っていると、よろめく母に手を伸ばすことはできません。だけど近くにはいて、いつでも手を差し伸べられる位置で撮っているんです。苦しんでいる母の背中をさすってはいないけれども、カメラで見守っている。母が公園で死ぬ、死ぬと言っている時も、カメラを回している間は絶対に死なせない、と僕は思っていました。「しっかりしろ」と、心のなかでエールを送り続けていました。

思えば、一台のカメラを命綱のようにして、僕と母は支え合っていたんですね。カメラを回す時は、大抵は母が精神的に混乱しているときです。そんな時でも、何かあった時には、いつでも母を助けにいくぞ、という気持ちはずっと持ち続けていました。

——作品を作るために撮り始めたわけではない、とおっしゃっていましたが、カメラを回しながら、心のどこかで「これは作品になるかも」と思う意識はありましたか。

坂口 カメラを回す行為自体は、プロとして仕事をしている自分には内在化されていると思います。言ってみれば、カメラは救命ボートのようなもので。母と僕が溺れかかって、親子心中みたいな状態になった時に、すがりつくように無意識に手に伸ばしたのです。

母が叔母に引き取られるように種子島に帰ってからは、母の介護が叔母との二人三脚となったことで、僕のなかに少し余裕が生まれたように思います。それまで母だけを撮影していたのが、叔母も撮影することになって、僕のなかに変化が現れた気がします。作品にしよう、というよりも、きちんと撮らなくては、と思いました。献身的に母の介護をする叔母の姿を、記録として残してあげたいと思ったからです。その思いが、自然と作品化につながっていったように思います。

——坂口監督にとってのカメラが救命ボートだとすると、お母様にとっては、カメラはどういう存在だったと思われますか。

坂口 母にとっては奇妙なものだったかもしれません。精神的に混乱する母にカメラを向けること自体、暴力ともいえますからね。当然、母もはじめは嫌がって、はねつけるわけです。カメラを嫌がる母に対して、僕はその思いをはねのけた。「何でダメなんだ、僕は撮るぞ」と。撮らないと、母に手を上げるかもしれないですから。「撮るな」「撮るぞ」、その問答を続けるうちに、「もうわかった、好きなようにしろ」と母も諦めて、文句を言わなくなりました。

想像するに、母からみれば、カメラを向けている間は息子が一生懸命に自分を見ている、という、ある種の喜びがあったのではないかと思います。カメラが無ければ、僕は憎しみのような眼で彼女を見るから、おぞましい顔をしているわけです。だけど、カメラに映る彼女の姿はおぞましくない。手を上げようとは決して思わない、年老いた、哀しい人に見えました。カメラを持つと、不思議と自制心が働いて、僕も母と素直に向き合うことができた。そこからふたりの奇妙な共同作業が始まったんです。

▼  page3 ふるさとに帰って発見した 母の新しい姿に続く