次に不毛の二つ目の水準について考えてみよう。アイドルにとって最も不毛な状況とはいかなるものか。それは誰の視線も浴びないことである。換言すれば、集める視線の多寡によってアイドルの序列は決定される(霧の中に隠れてしまった山本の存在が見るもののうちに悲哀をかき立てるのはこのためである)。
彼女たちは何より視線を必要としている。AKB48との兼任を解かれた人気メンバーの矢倉楓子が、母親と弟の前で「誰も私のことを見ていない」と涙ながらに語る場面はこのことを示す好個の例である(あるいはSKE48 のドキュメンタリー映画『アイドルの涙』[監督:石原真、2015年]に収められているインタヴューで、松井玲奈が、舞台の端にいた自分にまったく客席からの視線が届かず、危機感を覚えたと告白していたことを思い起こしてもいいだろう。
また、集める視線の量は単にステージングの問題には限定されない。山本が出張で不在のときに代役で劇場公演のセンターを務めた沖田彩華は、観客の視線がセンターにいるはずの自分を素通りして周囲の別のメンバーに向けられていく感覚を寂しげに吐露している)。
この矢倉のシーンも自動車内から撮影された曇天のショットから始まっており、アイドルの陰の部分を強調している。直後に置かれている矢倉のグラビア撮影の場面は、燦々と降り注ぐ太陽を『羅生門』(黒澤明、1950年)のように真上を仰ぎ見るカメラで捉えたショットから始まっており、アイドルの公私の顔を効果的に対比させるような編集が行われている(台湾で「ドリアン少年」[2015年]のMVを撮影している場面でもやはり空は晴れわたっており、アイドルとして公の活動をしているときには晴天のイメージと結びつけられがちであることがわかる。ただし、本映画が2015年の選抜総選挙を伝える際、ヤフオクドームの上空には薄い雲が広がっていたことは指摘しておかなければなるまい。この場面では過酷な競争に晒されているアイドルたちの重苦しい心象イメージが優先されているのである)。
ただしこの場面では、誰にも見られていないことを心配する矢倉を、彼女の弟が確かに見つめている(涙ぐむ彼女を捉えた後、カメラは後退して隣で矢倉を見つめる弟を画面内に招じ入れる)。映画はこの弟の視線を強調することで、ある種の救いをもたらしているように思われる(アイドルを支える家族のイメージは沖田と広島の家族の会食場面でも強調されていたし、他のグループ[とりわけ乃木坂46]のドキュメンタリーでも用いられている)。なにより、本映画においてNMBの大半のメンバーを排除しているカメラが、オフの彼女の姿をこそ選択的に捉えているという圧倒的な事実がここにはある(映画は主として山本彩、矢倉楓子、沖田彩華、須藤凛々花の四人に焦点を当てている)。
矢倉と家族の食事場面はさらにいくつか重要なイメージを提供している。この場面が回転寿司店で撮影されていることはグロテスクな意味合いを帯びて我々に迫ってくる。客に消費されないまま一定時間が過ぎてしまった皿は廃棄される運命にある。このとき、レーンを回っている皿=商品が残酷なまでにアイドルのアレゴリーとして読めてしまうのである。握手会のレーンに並ぶファンの数で人気が計られるアイドルは「10代後半がピークと言われる」「残酷なまでに寿命が短い存在」であり、客に選ばれなければ文字通り廃業せざるをえなくなる。また、寿司店の回転レーンは須藤の好むニーチェの永劫回帰の観念とも結びつくだろう(彼女は「ニーチェ先輩」[2015年]という曲のセンターも務めていた)。
ここでは哲学的な用法上の厳密さよりも、イメージのつながりを優先して議論を進めていくが、「回帰」や「反復」はアイドルたちの階級社会を象徴するキーワードでもある。たとえば前述したように、NMB48のエースである山本も、AKBグループ本体の中では文字通り霧に飲み込まれて影が薄くなってしまっていた。この場面は映画後半に向けた伏線ともなっていて、NMBのシングル選抜に選ばれなかったメンバーに対して、山本は自分がAKBの公演で最後列に置かれた悔しさを語って励まそうとする。アイドルの世界を階級社会に見立てたとき、上位層と下位層が同様の困難を反復していることが示されているのである。映画の最終局面で、須藤の次の世代のドラフト生がグループに加入した様子を伝えていたことも気に留めておくべきだろう。アイドルたちの競争は、差異を伴いながらこれからも延々と反復されていくことになる 。(*1)
『道頓堀よ、泣かせてくれ! DOCUMENTARY of NMB48』より ©DOCUMENTARY of NMB48製作委員会
商品とアイドルのイメージ上の近しさは須藤の朗読場面の演出でも強調されていた。三度目の朗読場面で、道頓堀グリコサインから始まる巨大看板群と須藤が切り返し編集されていたことはその最たるものである。高度資本主義社会におけるアイドルは商品にほかならない。商品である以上は、消費され尽くして価値を失ったとき、廃棄される運命にあるということでもある。アイドルに課せられたこの過酷な運命を示唆するのが須藤の四度目の朗読場面である。このとき彼女は海の近くの廃棄物処分場の前を歩いている。薄曇りの空の下、画面内には巨大クレーン等の機械類とともに、堆く積まれたゴミの山が映し出されている。映画史において、ある種の商品として描かれていた女性的存在は、しばしばゴミと一体化してきた。たとえば『ブレードランナー』(リドリー・スコット、1982年)の女性レプリカント(ダリル・ハンナ)や『空気人形』(是枝裕和、2009年)の心を持ってしまったダッチワイフ(ペ・ドゥナ)は進んで自らをゴミと見なした[図4、5]。
図4『ブレードランナー』(リドリー・スコット、1982年)図5『空気人形』(是枝裕和、2009年)
じっさい、人に使われるための商品である両者は遅かれ早かれいずれそうなる運命にある。彼女たちはその時期を自分で決定したのである。処分場の入り口付近まで歩いて行った須藤はそこで立ち止まり、廃棄物の山を見上げる。しかし、処分場の敷地内に足を踏み入れようとはしない。どうやら彼女はこちら側の世界に踏みとどまる心づもりでいるらしい。この直後に置かれている映画のほぼ最後の場面では、これまでシングル選抜に10回以上連続で落ち続けてきた沖田が、ついに選抜入りを果たす瞬間が描かれる。幸か不幸か、アイドル(商品)として延命を果たした彼女たちは、今も霧の中で戦いつづけている。
『道頓堀よ、泣かせてくれ! DOCUMENTARY of NMB48』より ©DOCUMENTARY of NMB48製作委員会
▼本編ここまで【補遺】フィルム・ノワールとアイドルにつづく