【Interview】遠藤ミチロウインタビュー『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』 text 植山英美

80年代初頭にザ・スターリンの中心人物として、日本のインディーズ・シーンを牽引、フラワーカンパニーズから黒猫チェルシーに至るまで、多くのミュージシャンに多大な影響を与えてきた遠藤ミチロウ。遠藤が初監督をつとめたドキュメンタリー作品『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』が現在、東京で公開中。全国で順次公開される予定だ。

2011年、還暦を記念したツアーでの道中、東日本大震災に見舞われる。福島第一原子力発電所より40~50kmしか離れていないという福島県二本松市出身の遠藤は、自身の”ふるさと”との対峙を余儀なくされる。母親との関係、父への思い、そして福島。大友良英、和合亮一らと共に立ち上げた「プロジェクトFUKUSHIMA!」での活動を始動させ、京都、奄美大島、広島、宇和島、静岡、大阪と、全国を巡るソロツアー、THE STALIN Z、 THE STALIN 246、NOTALIN’S などの数々のライブ・パフォーマンスも記録。竹原ピストル、二階堂和美ら多くのアーティストも登場する。

初監督にして、長編ドキュメンタリーを5年の歳月を費やして作品を完成させ、劇場公開に至った遠藤ミチロウ監督に、映画の撮影の経緯、福島のことを聞いた。
(取材・構成=植山英美)


——映画を監督した経緯を教えてください。

遠藤 これね、全然予定なかったんですよ。2011年、還暦記念のソロツアーを回っている時、シマフィルム(京都の制作・配給会社。『立誠シネマ』などを運営)から、「福知山と舞鶴で演るライブのドキュメンタリーを撮りたいんだけど」と打診があったんです。「監督は誰ですか」と聞いたら、「決まっていない」と言うんで、監督がいないのも困ったもんだと思って、「じゃあ僕がやります」と。自分で監督するならば、福知山と舞鶴だけじゃなく、還暦ツアーを、ちゃんとした長編のドキュメンタリー作品を撮りたいと思ったんです。

年初にスターリン復活ライブを東京と大阪と名古屋で演った時、後日DVDにできればと考えて、大阪でのライブの映像を撮っていたんですが、撮影がたまたまシマフィルムで(映画を)何本か撮っていた柴田剛さん(映画監督。『堀川中立売』など)だったので、じゃあその映像も使っちゃおうと、そこからのスタートで始まって、2ヶ月も立たないうちに震災が起こってしまった。

映画の撮影スケジュールを組み立てる時、どの街を撮影しようか決めていたのですが、現実的に難しくなりましたし、福島を撮らなくちゃいけない気持ちも生まれてきた。そうしたら実家も。実家を撮る予定なんてなかったですからね、最初は。予定外のことが起こってしまって、その対応をどうするかという、僕のドキュメントとなってしまったんです(笑)。

—— 「プロジェクトFUKUSHIMA!」(*1)も重要なテーマとなっています。

遠藤 最初は「JUST LIKE A BOY」が映画のテーマだったんです。旅をして演奏をしてと。ところが震災になってしまって、「プロジェクトFUKUSHIMA!」と演奏活動を撮ったロードムービーが2本の柱となったんです。当初はもっと奄美大島での部分を多く撮影しようと思っていましたから。                         『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』より ©2015 SHIMAFILMS

——奄美大島を始め、旅の部分では京都と広島と宇和島と静岡、大阪のライブが撮影場所に選ばれています。

遠藤 奄美大島は子供の頃の福島を思い起こさせるんです。帰ってきたような感覚があって。奄美大島には、島尾敏雄(1917-86、「死の棘」など)という福島出身の作家がずっと住んでいて、画家の田中一村(1908-77、1958年より奄美大島に移住)は栃木出身だし、栃木も福島に似ているところですから、そのあたりの出身者にはどこかで惹かれるものがあるんでしょうね。

福島のいわきにアクアマリンふくしまという水族館があるんですが、震災でダメになってしまって。あそこの熱帯魚は全部奄美大島からなんですよ。水族館復活となった時、また奄美大島から熱帯魚を集めた。そういった不思議なつながりがあるんですよね。僕にとって特別な場所で、父親のイメージでもあったんですね。

宇和島はシャッター商店街でしょう。地方の問題を浮き彫りにしていて、広島は1995年の阪神淡路大震災の年から毎年8月6日に爆心地ライブというのをやっているんです。爆心地ライブは今年で21回目、2011年当時は17回目でした。

——福島のこの5年間、どう変化しているでしょうか。

遠藤 何も解決していませんね。今も仮設(住宅)のままだし。県外に避難している人は帰って来れない。福島では震災で亡くなった人の数より、自殺やストレスが原因で亡くなった人の方が多いんです。復興とか、復旧とか言いながら、矛盾しているところは何も変わっていない。マスコミも震災や原発のことは忘れて、東京オリンピックに意識が行ってしまっている。矛盾は蓋をされて隠しているんですよ。住んでいる人たちの苦しみとか、何も解決していないのにどんどん隠して表面だけ取り繕っている感じですよね、そのうち全部膿が出るんじゃないかと。

震災があって、これからどうするかって時に、どう世の中を再生していくかを皆考えたと思うんですよ。それがいい方向に行かず、今では戦争前のような雰囲気になってきている。震災でも是正できなかった。ホピ族の予言のように、破壊と再生の帰路に立たされているんじゃないかと。結果的に滅びの道を選んでいるんじゃないでしょうか。

——70年経って、戦後からの問題が吹き出している。

遠藤 日本だけではなくて、世界全体でも言えることですよね。資本主義の世界の矛盾がボロボロ出てきている。中国も、日本も、ロシアも、ISILもそうだし、世界中そうですよね。次の大戦争に向かうのか、そうではないのか、わからないですけどね。中東問題にしても、宗派対立と言われていますけど、裏には米国とかロシアとか、シリアのアサド政権とイランを支援するロシアとの関係とか、資本主義の膿の象徴ようなものになっている。石油価格が下落することによって、誰が損した、誰が儲けてとかの問題ですよね、要は。

——戦後70年、遠藤監督は65歳で、ほぼ戦後の足跡を見ておられることになりますが。

遠藤 戦後の高度成長期の豊かさの象徴が原発であるわけなんですよ。自分も同じで、高度成長の豊かさで育ってきて、今がある。電気であったり日本人であれば誰もが享受している豊かさ、それは本当に豊かなことなのかなって考えさせられた。原発が破綻したっていうのは、自分自身もぶっ壊れたような、持っていた価値観とかが吹っ飛んでしまったようなイメージですね。福島と向き合うというのは、いろいろな日本の矛盾が象徴されているから、表現者としてどうなんだ、歌を歌っているお前はどうなんだと突きつけられるということ。そこから目を背けてはいけないと。
                         『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』より ©2015 SHIMAFILMS
——これからの福島との関わりは。

遠藤 表現者として、作品としてどう出せるか、ですね。「プロジェクトFUKUSHIMA!」をやっている時は忙しくて作品を作れなかったんですよ。それもあって辞めたんですけど、その後に膠原病という病気になって入院して、1年ほど何もできなくて。去年やっと詩集(「膠原病院―KO GEN BYO IN」)や新しいバンドのアルバムを出すことができました。

——アルバムを複数出したり、詩集を出したり、音楽だけに収まらない活動の中に映画があるのでしょうか。

遠藤 アルバムは常に出しているんですけど、映画や詩集はたまたま機会があったから。今後どんどん監督として映画を撮るという予定はないですが、資料として撮ってる映像をまとめてということはあるかもしれません。

*1「プロジェクトFUKUSHIMA!」(公式サイトより)
東日本大震災以降、遠藤ミチロウ、大友良英、和合亮一など、福島出身/在住の音楽家と詩人有志によって立ち上がった音楽による復興プロジェクト。毎年8月、福島での「フェスティバルFUKUSHIMA!」開催のほか、インターネット放送局「DOMMUNE FUKUSHIMA!」の運営、学びの場となる「スクールFUKUSHIMA!」の実施、共鳴するアーティストたちによる作品発表の場と支援金募集の仕組みを兼ねた「DIY FUKUSHIMA!」などの活動を、継続的に行っている。

『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』より ©2015 SHIMAFILMS

【作品情報】

『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』
2015年/日本/カラー/DCP/5.1ch/102分)

監督:遠藤ミチロウ 製作・配給:シマフィルム株式会社  ©2015 SHIMAFILMS
プロデューサー:志摩敏樹 撮影:高木風太 録音・整音:松野泉 制作進行:酒井力
編集:志摩敏樹、松野泉 撮影協力:柴田剛 宣伝美術:境隆太
配給担当:田中誠一

新宿・K’sシネマ(〜3/4 連日21:00)ほか、全国各地にて順次公開中

公式サイト→http://michiro-oiaw.jp

【監督プロフィール】

遠藤ミチロウ
1950年福島県生まれ。1980年、パンクバンドTHE STALINを結成。過激なパフォーマンス、型にはまらない表現が話題を呼び、1982年、石井聰互(現・石井岳龍)監督『爆裂都市』に出演。同年メジャーデビュー。1985年、THE STALIN解散後、様々なバンド活動を経て1993年からはアコースティック・ソロ活動を開始。21世紀に入り多彩なライブ活動を展開、さらに詩集、写真集、エッセイ集なども多数出版。また、中村達也(LOSALIOS)とのTOUCH-ME、石塚俊明(頭脳警察)と坂本弘道(パスカルズ)とのNOTALIN’S、クハラカズユキ(The Birthday)と山本久土(MOST、久土‘N’茶谷)とのM.J.Qとしても活動。2011年、東日本大震災の復興支援として「プロジェクトFUKUSHIMA!」を発足し、数々の活動を展開する。同年の還暦ソロツアーを中心に撮影を行い、初監督映画『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』を製作。2013年に突如膠原病を患い、入院。その時期に書いた詩集「膠原病院」を出版、同時にアルバム「FUKUSHIMA」を発表。2015年、自身の楽曲を盆踊りver.にアレンジし、民謡に特化したパフォーマンスを行う新バンド「羊歯明神」、自身最後のバンドとして「THE END」と2つのバンドを結成。さらに精力的な活動を始動している。

【インタビュアー】

植山英美 Emi Ueyama
兵庫県出身。20年以上を米国ニューヨーク市で過ごし、映画ライターとして多数の国際映画祭にて取材。映画監督、プロデューサー、俳優などにインタビュー記事を発表するかたわら、カナダ・トロント新世代映画祭・ディレクターを務める。2012年日本帰国後は、映画プロデューサーとして、おもに国際映画祭における日本映画の海外展開を手がけている。

<参照記事>
【ワールドワイドNOW★カンヌ発】カンヌ国際映画祭マーケット「マルシェ・ド・フィルム」を訪ねて①[事前準備篇] text 植山英美
【ワールドワイドNOW★カンヌ発】カンヌ国際映画祭マーケット「マルシェ・ド・フィルム」を訪ねて② text 植山英美
【ワールドワイドNOW★カンヌ発】カンヌ国際映画祭マーケット「マルシェ・ド・フィルム」を訪ねて③[最終回] text 植山英美

neoneo_icon2