【記録文学論④】『パウル・ツェラン詩文集』 text 中里勇太


8月、東日本大震災からもうすぐ1年半を迎えようとする南三陸町を訪れた。町内のいくつかのまちが震災時に津波でのみこまれた。仙台で生まれ、大学入学を機に東京へ出た僕にとって「南三陸」という地名にあまり馴染みはなかった。そこはあくまでも市町村合併前の「志津川」であり、「歌津」だった。

走らせた車のなかから外を見ると、うっすらと草がおおい繁っている。これは震災直後にはなかった光景だった。津波に襲われる前の情景を知らずに訪れれば、ここにまちがあったことへ想いを馳せることすら難しいのではないか、とさえ思わせる光景だった。だが、車から降り立ち、歩いていくにつれ、自分の足下に、なぎ倒された家屋が建っていた跡があることを痛烈に意識させらえざるをえなかった。家屋が建っていた、いわばひとの家の敷居を跨ぎ、勝手に部屋中を歩いているのだった。

詩人パウル・ツェランの詩篇に、こんな一節がある。

 

まぎれもない痕跡を残す

構内へ

送りこまれて―——     

  (太字部分、パウル・ツェラン「追奏(ストレッタ)」より、以下同)

 

第二次大戦が終わり、かつて強制収容所であった場所を訪れたツェランが、その構内を歩くさまを詩篇にしたと言われている長篇詩「追奏(ストレッタ)」。この一節はその冒頭であり、詩篇は次のようにつづいていく。

 

きれぎれに書かれた草。草の茎の影を映す

白い石———

もう読むな―—見よ!

もう見るな―—行け!

 

構内にのこる痕跡を目にしたツェランは、読むな、見るな、行けと促され、歩行をつづける。詩篇のタイトル「追奏(ストレッタ)」は、フーガの急迫部を意味する音楽用語であり、その名が示す通り、ツェランの切迫した情感が、句点、改行、言葉のリズムを伝う。読者は、詩篇を読み進めるにつれて、ある狂気を孕んだ歩行を体験していく。

1920年、ルーマニア領チェルノヴィツにドイツ系ユダヤ人として生まれたパウル・ツェランは、戦時下の1942年に強制収容所で両親を失い、自身も労働収容所での生活を強いられた。彼は収容所生活後も、両親が話し、両親に教わったドイツ語で書くことにこだわった。1970年にセーヌ川へ入水するまで、彼の軌跡は、詩を書くことそれ自体を全身で体現し続けるものだった。

本書『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、2012)は、1960年代から日本におけるツェラン研究の第一人者のひとり、飯吉光夫による最新の改訳版であり、代表的な詩篇と詩論を収録している。また、収録詩が東日本大震災をうけて選ばれていることもあり、「強制収容所による犠牲者などを想った」ツェランの詩が「震災に限らず、自然災害、戦災などによる極限状況にもあてはまる」と、飯吉は巻末の解説で述べている。

「構内へ/送りこまれて」、詩篇の冒頭、ツェランは受身の姿勢からはじめる。そこには、衝き動かされるといった姿勢は微塵も感じられない。「きれぎれに〜」という句ではじまる衝動的な第2連とのあいだの空白に、なにが起こったのか。それはながい歩行の果てに辿り着いた衝動だったのか。それともわずかな時のあいだに、ツェランの心を震わせる出来事が起きたのか。

 

そこにはこうも書いてあった、……とも。

どこに? 僕らは

それには沈黙を守った。

毒に鎮められた、大きな、

一つの

緑色の

沈黙。ひとひらの萼、そこには

何か植物のようなものへの想いがまつわっていた――

 

収容所の痕跡へ眼差しを向け、構内を歩くツェラン。構内に彼の存在を求める者はいなかった。彼は誰にも呼びかけられず、死者が横たわるあいだを歩いていた。逡巡し、立ち止まった彼が目を瞑ると、親しみと拒絶に満ちた死者からの呼びかけが聞こえてくる。再び目を開いた彼の視界に草や花の萼がうつる。草木とともに歳月が到来する。この緑の一片は、死者からの慰撫だろうか。そうではあるまい。死者は時間を意識させたかった。いまも流れている時間。ツェランには「草の茎の影を映す白い石」と向き合う時間が残されていた。彼は一片の石と向き合う。草の茎の影がゆれる。影のゆれとともに、彼の目にうつる石が変型する。彼の目のなかに時間が流れはじめる。時間は音楽のように変容をくりかえし、目のなかを過ぎ去りようとしたときに像を結ぶ。石が語りかけるとき、それがことばとは限らない。ツェランの目に死者の眼差しが流入する。死者をはじめとした他者の記憶が流れはじめる。

 

粒状の、

粒状で、繊維状の。茎状の、

密な――

房状の、放射状の――腎臓状の、

板状の、

塊状の――粗な、枝−

分かれした――石は、余計な口を

きかなかった、石は、

それは語りかけた、

閉ざす前のかわいた目に語りかけた。

 

他者の記憶、あるいは他者の眼差しが流入する身体。ある狂気を自覚、内包せざるを得ない身体で臨むツェランの歩行は、他者からの呼びかけに対し、応答しようと苦悶する。ツェランと石のあいだに出来事が起こる。ツェランは石を見据えるが、そこになにも思い描かなかった。

僕は歩いていた。南三陸のまちには、いくつかの建物が取り壊されずに立っていた。剥き出しになった鉄骨は、波を被り、錆びて一様に変色していた。その下で僕は石を見ていた。建物の破片、正確に言えば、コンクリートの一片だった。それが僕に語りかけてくることはなかった。そこには沈黙しかなかった。もし、沈黙を物質として思い描くことがあれば、今後、僕はこの石を思い浮かべるだろう。

不意に、ひとつの像が目の前にあらわれた。この石は、建物の一片だった。その建物の全体を思い描くことは、まちを思い描くことだった。仮設住居を集めた青空市場にはじまるまちのすがた。家を流されたひとびとの集う場所が、うっすらと草に覆われた土地に、点々と建てられていく。港がたち、舟は沖へ向かう。海から帰った漁師を迎える飲み屋がたちならぶ。本来ひとがいるべきところへまちがたちあらわれる。

だが、石はおし黙ったままだ。それは、僕が一片から全体を思い描いたからに他ならない。その石が一片でありつづけることへ、思い至らなかったのだ。

目のなかでかたちを変えていく石と対峙しつづけるツェランにとって、矛盾するようだが、石は一片でありつづけた。変化していく時間のなかで、一片の石に一歩たりとも引かないことで、そこに言葉を見いだす。

 

僕らは

からまりあいを弛めなかった。ただなかに

さらされていた、一つの

気孔体、すると

それは来た、言葉は来た。

 

石との、他者とのからまりあいのなかで、ツェランは自らの記憶とも対峙せざるをえなかった。その目のなかに、彼自身が蓋をして塞いでしまった、自らの記憶が降りそそぐのを待つ。だが、ようやく到来した記憶にもまたすぐに蓋をしてしまう。その繰り返しのあいだもずっと、目のなかに、他者のものだった記憶が流れては過ぎ去る。ずっと、ツェランは呼びかけられている。塞いでいた蓋を取り除いた手は、ツェランの手だろうか、他者の手だろうか。ツェランの目が、自らの記憶と他者の記憶を交換する気孔となる。ツェランが呼びかける。その目は瞬きとともに共震し、言葉を析出する。瞬きのあいだに、呼びかけと呼びかけのあいだに、消えてしまう言葉を。ツェランの歩行にある狂気を感じえない読者はここで、構内をへ巡るツェランの歩行が、あるいは、石との試みのあいだに見た幻覚だったのかもしれないということに思いを巡らせる。石をじっと見据えるツェランと、石のあいだに切断と接続。そこに到来した言葉を、僕たちが知ることはあるのだろうか。

 

まぎれもない

痕跡を

残す

構内に

送りこまれて―——

 

きれぎれに書かれた

草、

草)

 

南三陸を歩く僕は、ツェランの詩を共鳴盤として、そこを訪れたものにすぎなかった。ツェランの詩句を頭に描く僕の視界に入ってくるのものは、草や石、タイル、柱跡といった微小なもの、あるいは生の痕跡だった。それらを意識的に見ていた。僕に呼びかけるものは誰もいなかった。僕が呼びかけるものも誰もいなかった。視線を上げると、おおい繁った緑と、変色した鉄骨のコントラストが描く瓦解と出立のあいだにいた。

【書誌情報】

『パウル・ツェラン詩文集』 パウル・ツェラン著/飯吉 光夫 編訳
 白水社 202頁 2520円 (税込) 2012年2月発売 ISBN : 978-4-560-08195-2

「もろもろの喪失のなかで、ただ“言葉”だけが、失われていないものとして残りました」。未曾有の破壊と喪失の時代を生き抜き、言葉だけを信じつづけた20世紀ドイツ最高の詩人の代表詩篇と全詩論。改訳決定版。

【執筆者プロフィール】

中里勇太 なかさと・ゆうた

81年宮城県生まれ。編集業・文筆業。『KAWADE道の手帖 深沢七郎』(河出書房新社)に作品解説を寄稿。他に評論「死後・1948」(文藝別冊「太宰治」)、「応答としての犯罪的想像力」(文藝別冊「寺山修司」)、「わたしたちは想像する」(祝祭4号)など。Zine「砂漠」クルー。