『祖先への挨拶』Courtesy: Ben Russell
スワジランドの憑依宗教
——『祖先への挨拶』では、スワジランドのペンタコステ派の儀式と、幻覚を誘発する植物をつかって夢を解釈する南アフリカのコサ人の祈祷師が登場します。
ベン スワジランドには、南アフリカから追い出されたズールー人の末裔が住んでいます。イギリスからの植民者たちにキリスト教徒として教化されました。その布教は世界中どこでも同じで、いわば中華料理みたいに地元にもともとあったものと融合させて食べやすくしていくのです。ズールー人の預言者によって立ち上げられた教会がありました。その預言者は南アフリカに鉱山労働にやってきて、身分証明証をもっていなかったためにアパルトヘイト時代に逮捕された。牢獄に入れられているときに、夢のなかに天使がでてきて「あなたはキリスト教を通して人々をたすけるべきだ、故郷へ帰りなさい」と、キリスト教徒でもないのに託宣を受けたという話です。
一方、スワジランドでは20代後半の女性の55%程度がHIVに感染しているといわれるくらい、その病気が蔓延しています。そして、ひどい独裁者に支配されており、宗教が人々が前向きにとらえられる唯一の救済手段となっています。ズールー人のアニミズムとキリスト教ペンタコステ派が混ざりあったかたちで存在している。映像にあるように踊って歌ってトランス状態になり、異言を話します。ピーター・アデアの67年のドキュメンタリー映画に『ホーリー・ゴースト・ピープル』があります。ウェストバージニア州のアパラチア山脈で、蛇使いをしているペンタコステ派の共同体を撮ったものです。そこでも同じ現象が起きますが、登場するのは白人の貧しい人たちです。わたしの作品の最大の違いはそこにあると思います。
——『祖先への挨拶』で監督はペンタコステ派の祭儀のなかに入り、それを説明するのでもなく、客観的に記録するのでもない。自分のパースペクティブから撮っている。マヤ・デレンの『聖なる騎士たち』という、彼女がハイチのヴードゥー教の祭儀の内側で撮ったフィルムの方法論を思いだしました。この作品の後半で、祈祷師の修行をはじめた少女が夢語りをしますが、その内容がおもしろくて身震いしました。植物の根っこをかじってトランス状態に入り、夢のなかで起きたことを話すというのは、ヤキ・インディアンの呪術を書いたカルロス・カスタネダの世界そのままです!
ベン ほかの撮影方法は考えられなかった。『聖なる騎士たち』でマヤ・デレンは音声なしで撮っていますよね。彼女の時代、彼女の立場ではナイーブなものが色々とあったのだと想像します。わたしは映像と音声の両方を撮っています。
カスタネダはフィクションだったのではないでしょうか(笑)。南アフリカのコサ人の祈祷師が麻薬物質である植物の根を食べるのは、強力な夢を見るためです。ここには映画にとって、二重の不可能性が横たわっています。麻薬を摂取した人の意識で起きたことを映画にするのは不可能です。また、夢というものも少女に語ってもらわなければ、わたしたち第三者はそれを見たり感じたりすることはできません。その二重の不可能性を、自分が映画でどのように描けるかという挑戦でした。サウンドトラックには、その根っこを調理してトリップの準備をしているときの音が流しているんですよ。
——バヌアツで撮った『忘却の前にやり遂げなくてはいけない』では、島で起きた歴史や記憶といった不可視のものを映像で表象しようとします。スワジランドで撮った『祖先への挨拶』では、目に見えない祖霊や精霊と人々が交感しながら、ダンスや音楽によって神的な存在とやりとりするさまを描いています。コサ人の夢語りも不可視なものの表象です。あなたの作品は、映像で表象できないものとの挌闘のように見えます。それは不可視なものを記録するドキュメンタリーの試みといえるかもしれません。
ベン その通りです。映画が最初から根源的にもっている野心は、まさにそれだと思うんです。たとえば、恋愛映画はまったく物質的ではない人間の感情を、映画のなかにとらえようとします。映画が人間の顔や背景の建物を映しているかぎりは、それは物理的なものの反映にすぎません。わたしたちが映画のなかで再生しようとするもの、そしてスクリーンの上で反復されるものは、本質的には目に見えないものなのではないか。わたしが「サイケデリック・エスノグラフィー」と呼び、そのような現象に興味をもっているのは、その経験の中心にトランス(忘我、憑依)現象があるからです。
人類学の学者や研究者たちが、そのトランスという現象に何度も立ちもどっていきます。ある人が主観のなかで経験するトランスの状態を、ほかの人が表象することは不可能です。それにもかかわらず、マヤ・デレンの『聖なる騎士たち』のような映画がつくられるのです。わたしのような映像作家が目指すのは、ただ記録をすることではなく、創造すること、生産すること、生成することそれ自体にあります。新しい器のなかに不可視の経験を入れ替えて、それを表現してみせることなんですね。
※上記のインタビューは2016年2月の恵比寿映像祭でベン・ラッセル氏が来日した折に実現しました。プログラム・ディレクターの碓井千鶴氏をはじめ、ご協力くださった恵比寿映像祭のみなさまにこの場を借りてお礼を申しあげます。
【監督プロフィール】
ベン・ラッセル
1976年アメリカ生まれ。ロサンゼルスを拠点にアーティスト、キュレーターとして活動。歴史や映像記号論に深く関わる映画、インスタレーション、パフォーマンスを発表している。ポンピドゥーセンター(パリ)、シカゴ現代美術館(アメリカ)、ロッテルダム国際映画祭(オランダ)、ウェクスナー芸術センター(アメリカ)などで特集上映・個展が開催されている。(※恵比寿映像祭公式サイトより転載)
【聞き手】
金子遊(かねこ・ゆう)
批評家・映像作家。neoneo編集委員。著書に『辺境のフォークロア』『異境の文学』、共訳書に『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』マイケル・タウシグ著など。ドキュメンタリーマガジン「neoneo」7号(特集「よみがえれ土本典昭」ほか)が発売中。