羽田澄子監督(撮影:金子遊)
東京・京橋のフィルムセンター小ホールで2016年8月9日から28日まで「ドキュメンタリー作家 羽田澄子」が行われた。 羽田澄子監督の『薄墨の桜』以降の自由工房の作品はよく上映されるが、今回はデビュー作『村の婦人学級』をはじめとする1950年代から1970年代にかけての上映が貴重で、「羽田美学」と思われる、色彩豊かな作品の面白さについて論じてみたい。
羽田澄子は1926年1月3日、旧満州国大連に生まれ、現在90歳を迎える。旅順の小学校と女学校を卒業後、42年に東京の自由学園に進学、3年後に卒業して再び大連に戻り、同地で敗戦を迎える。敗戦後は、大連日本人労働組合の婦人部で活動した後、48年に引き揚げ。49年、自由学園時代の師・羽仁説子の薦めで中谷宇吉郎研究室に入り、名取洋之助や羽仁進らと共に「岩波写真文庫」の編集に当たる(翌50年、同研究室は岩波映画製作所に改組)。53年、羽田は羽仁進の誘いで映画製作に転身し、羽仁の監督した『教室の子供たち』(54)に助監督として就く。
今回の上映作のデビュー作である『村の婦人学級』(57)は「おかあさんの成長学習」とでも名付けたい作品。映画作りと並行して婦人学級も組織化したというのも、うなずけるくらい笑いを誘う部分も多くあった。その後『AKIKO』や『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』のように徹底的に人間に付き合う態度はずっと変わらない。
『古代の美』(58)は初期の傑作で、縄文・弥生・古墳時代の土器や土偶を紹介しながらモンタージュする演出は記録映画というよりもアニメーション映画に近い。それも作曲家の矢代秋雄と共に音楽を設計することから考えているので、市川崑の諸作品に近いと思っている。
『伊勢志摩の旅』(66)は伊勢神宮をていねいに撮っているが、内宮に入れないため、伊勢神宮の塩作りやあわびの撮り方に羽田監督の特徴がよく出ていた。
『もんしろちょう―行動の実験的観察―』(68)は『早池峰(はやちね)の賦(ふ)』や『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』と並ぶ最高作の一本である。シナリオでは牧衷(まき・ちゅう)と共にもんしろちょうの行動を見事にとらえた。ここでも、カラーで顕著に表れる紫色や黄色のあざやかな色の使い方も鈴木清順を思わせる。もんしろちょうがどう動くか分からない即興演出もスリリングだし・三木稔の音楽も素晴らしい。
『風俗画 近卋初期』(67)は絵画をカメラで撮って映画にしてしまう名人の羽田監督の秀作。『山中常盤』以前でもこれだけの作品を撮っていたとは驚くほかない。ユニークでユーモラスな「洛中洛外図」が動いているように見えてくる羽田アニメは健在だ。
『狂言』(69)は初めは聞こえてこなかった「狂言」の日本語が聞こえてくるのが大いなる収穫だった。6世野村万蔵が何度も繰り返す若手への口伝の伝承シーンには『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』(92~94)を思い浮かべる。
『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』は6部作に分かれる。『若鮎の巻』、『人と芸の巻(上・中・下)』、『孫右衛門の巻』、『登仙の巻』は舞台で演じる仁左衛門よりは自宅でのけいこをする仁左衛門を見られるだけで幸福の限りだ。ここでも、羽田監督は徹底的に映画と付き合う姿勢が見られて尊敬に値する。
『BAMBOO(竹と日本人)』(75)は英語版・日本語字幕付。竹から、たけのこ料理、竹かごや傘を作る過程をアクション映画のように描くキレの良さが見られる。さらに、音楽の宮崎尚志は『早池峰の賦』の秋山邦晴に匹敵する。
『ふゆにくさ花はどうなるか』(73)は東京都文京区の真砂小学校の小学生3人がヒマワリ、オシロイバナ、アブラナを冬越えさせる映画だが、オシロイバナの美しさに陶酔する。
『篆刻・刻字 生活書の学習のために』(75)は刻字に金箔をかけるシーンなど、羽田監督の色彩感覚の良さに目覚める佳作だった。 羽田監督の妹であるフランス文学者・近藤矩子(のりこ)が羽田の映画作りにかかわった作品がある。
『法隆寺献納宝物』(71)がそれである。東京国立博物館の所蔵となっている工芸品や仏像のナレーションは岡田英次が、時折出てくる少女の詩を近藤矩子が担当し、そのナレーションを二木てるみが担当して、クリス・マルケル並みの異次元空間を感じさせる。 羽田監督は次回作の『薄墨の桜』(77)でも近藤矩子に詩を書いてもらって映画を撮ってもらうはずだったが近藤は72年に急逝、改めて1人で『薄墨の桜』に取りかかる。岐阜県根尾村(現・本巣市根尾谷)の上流の桜の1400年の古木をめぐる42分の物語だが、前衛でありつつ自然であるという生ける屍のような桜の木はまさに「薄墨」である。雪舟のような墨絵でなく、あくまでも薄い墨というのがポイントだ。羽田監督の妹の近藤矩子が亡くなったこともあるが、あの桜色が彼岸を表している。桜を撮るだけなのに桜は世界を超え宇宙と通じているかのようだ。香椎くに子の呪文のようなナレーションが異界へと誘う。あの吊り橋こそが異界への架け橋。こんな映画は羽田澄子以外には撮れない。ジョン・フォード映画の巨木はモンスターのようだが、羽田映画の巨木は精霊のようだ。この巨木によって守られているかのように思う短い時間が大きな時間へとつながっていくさまはカオスそのものであった。
82年に羽田監督は最高傑作を発表する。『早池峰の賦』である。『薄墨の桜』の成功で自信を持った羽田監督は岩手県大迫(おおはざま)町へ向かった。そこで行われていたのは「狂言」のような伝統芸能ではなく、日本のダンスであった。羽田監督はそれをアクション演出として撮っているので笑いになりかけたシーンも緊迫感あふれるアクションになっている。まるで、ビリケンさんのように面白い権現さまを見よ。神楽の若衆たちが駅のホームを歩いているだけで、ただならぬ緊張感が漂う。まさに、羽田が作り続けたのはアクション映画に他ならないのだ。
また、羽田監督はナレーションの名手でもある。その中で白眉は『住民が選択した町の福祉』、『―続 住民が選択した町の福祉―問題はこれからです』に続く『あの鷹巣町のその後 前後編』と『あの鷹巣町のその後―続編―』だと思うが、『そしてAKIKOは…―あるダンサーの肖像―』(12)のナレーションとインタビューも素晴らしい。
羽田監督が初めてアキコ・カンダを撮った『AKIKO―あるダンサーの肖像』(85)では、まだナレーションを行っていないがアキコ・カンダのヘビースモーカーぶりとマーサ・グレハム直伝のダンスの数々に圧倒させられる。 『そしてAKIKOは…―あるダンサーの肖像―』をなぜ撮ったのか、というとアキコとの交流は続いていたが、その間にどんな作品を作っていたかを紹介するシーンが感動的で、また、羽田監督はアキコのガン治療の生々しさをナレーターとインタビュアーで務める。特に「花を咲かせるために バルバラを踊る」が最後の舞台となり75歳の生涯を終えるまでを描くのが壮絶だ。まさに徹底的に人間と付き合う羽田監督ならではの傑作となった。
先に取り上げた羽田監督のベスト・ナレーターのシリーズについて書いてみたい。 作品は鷹巣町(現・北秋田市)をめぐる4本の映画が行政を動かしてしまったというのだから極めて珍しい。『住民が選択した町の福祉』(97)、『―続 住民が選択した町の福祉―問題はこれからです』(99)、『あの鷹巣町のその後 前後編』(05)、『あの鷹巣町のその後 ―続編―』(06)の4本。羽田監督がナレーション、インタビュアーを担当したのが3本目の『鷹巣町 前後編』と4本目の『鷹巣町 続編』というのが興味深い。 まずは1本目の『住民が選択した町の福祉』。秋田県の鷹巣町の福祉は日本で一番というくらい進んでおり、投票率も80%を超える。若き、ちょっと軽い岩川町長は「すぐやる主義」で福祉先進国のデンマークに行き、先駆的な老人保健施設「ケアタウンたかのす」の法案が通らず、町長選挙、町議会選挙がたえず行われる。住民のワーキング・グループの町民の自由参加も定着している。『住民が選択した町の福祉』では1票差で「ケアタウンたかのす」構想が実現したところで終わる。 『問題はこれからです』は「ケアタウンたかのす」が完成し、レベルの高い在宅複合型施設が実現したものの、3期目を迎えた岩川町長とともに、福祉が財政を圧迫すると主張する議員も出てくる。『あの鷹巣町のその後 前後編』は岩川町長が3期目の無投票当選に比べて4期目に院長の岸部氏になぜ大差で敗れたかを知りたくて『AKIKO』の続編と同じように羽田監督のジャーナリスト魂が騒いだのだろう。結局、この映画は鷹巣町が北秋田市に合併するまでを描く。 4本目の『あの鷹巣町のその後 ―続編―』は羽田監督が自らマイクを持ち、インタビューをして合併した北秋田市を東奔西走する。市長選挙は岸部氏が勝ち「ケアタウンたかのす」が惨憺たる状態になる。まさに「ケアタウンたかのす」が政争に巻き込まれたのだ。たとえ投票率が高くても、せっかくの福祉の理想すべき地方自治が崩れさる姿を描いた。羽田監督の映画は自治体にも住民にも影響を与えるのだ。
羽田監督は日本の近代史を描くことにも興味を持っていた。『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』(01)も日本の近現代史の代表作で、平塚らいてうの描き方においても優れている。それは平塚らいてうの映像がないため、そのことを逆手に取り、らいてうを一人称のナレーションにし、スティル写真とのモンタージュで平塚らいてうの生涯を描くことに成功したのだ。らいてうは日本女子大の卒業式で横を向いてしまう。「青鞜」とはブルー・ストッキングの邦訳であることなど、知らないことばかりで、若いツバメであった奥村博史との同棲生活。しかし、子供ができてしまうと、人間が変わってしまうほど子供に一途になってしまう。赤ちゃんのクローズ・アップを撮ったシーンにらいてうの母性が描かれていて感動的である。スウェーデンの婦人理論運動家エレン・ケイの記念館の平塚らいてう著作集があって、カメラが近づくシーンも印象的だ。 「平塚らいてうの生涯」の姉妹編ともいうべき『女たちの証言―「労働運動のなかの先駆的女性たち―』(96)は82年に社会主義研究者・石堂清倫(きよとも)の呼びかけで座談会が持たれる。山内(やまのうち)みな、福永操、丹野セツ、鍋山歌子、大竹一燈子(ひとこ)ら社会主義運動家やその妻の生涯を年表にして、デザイン性の高い5色のマーカーで描き出す。5人の活動家の書物にアップするところでこの映画は終わる。 また、羽田監督を一躍有名にした『痴呆性老人の世界』(86)、『安心して老いるために』(90)、『終りよければすべてよし』(06)の3本について語らなければならないと思う。
『痴呆性老人の世界』は最初に83年に田辺製薬の企画による49分の学術映画『痴呆老人の介護』を作ったことにより、痴呆症を一般の人に知ってもらおうと考えて実現したものである。熊本の病院に行って痴呆症の患者の症状を見てショックを受けたが、室伏院長の言葉に元気づけられ、羽田監督は『痴呆性老人の世界』の撮影を始めたのである。老人たちを美しく撮るため、また声もシャープの録音することが、この映画の素晴らしさに目を見張らせた。題名は『痴呆性老人の世界』だが、おじいちゃんはほとんど出ていない「痴呆性おばあちゃんの世界」と名付けたいような作品になった。
『安心して老いるために』は保障するシステムに目をつけた。羽田監督は全国の特別養護老人ホーム(特養)で岐阜県池田町にあるサンビレッジ新生苑を撮影することにした。施設長の石原美智子さんがこだわりのない、ざっくばらんな話のできる人であったせいであった。また北欧やオーストラリアの取材の映像も一緒に入れることによって、この作品は非常に大きなものとなったが、肝心の池田町を見ると柔軟なシステムを作ることがいかに困難か、見えてくる作品となった。
死を見つめる羽田監督の3作目は『終りよければすべてよし』だった。まず初めに、東京都を中心に行っているライフケアシステム代表の佐藤智医師がケイタイを24時間手から離さず、何かあった時に会員に薬の番号をつけて、どの薬を飲んだらいいかを指示するという。日本で最も早く発足した在宅ケアシステムだ。『安心して老いるために』でも取り上げた岐阜県池田町の総合ケアセンターサンビレッジではターミナルケアの一番充実している施設。子供が利発でかわいい。海外でのターミナルケアではオーストラリアのバララットとスウェーデンの「ASIH(アシー)」の活動が紹介される。栃木県の医療法人アスムスの太田秀樹医師も素晴らしい。この映画では本当によく老人が亡くなる。細胞ガンで亡くなった老人が特に生々しいが、総じて羽田監督の作品は死の残酷さを見るのではなく、ありのままの死を受け入れる試みをしているものといえよう。
最後に羽田監督の生誕の地・満州を描いた2作品『嗚呼 満蒙開拓団』(08)と『遙かなるふるさと ―旅順・大連―』(11)を論じて羽田澄子論を終えよう。 『嗚呼 満蒙開拓団』は羽田監督が「方正(ほうまさ)地区日本人公墓」を見つけて「なぜ、日本人に恨みを持った中国の人が日本人のお墓を」と思い、取材もかねて日本人ツアーに同行する。そこで、多くの開拓民にインタビューし、その悲惨さを訴える。『遙かなるふるさと ―旅順・大連―』は羽田監督が2009年の旅順の日本人ツアーに参加する。今でも現存している、かって住んでいた自分の家を訪問するシーンに一番の感動を覚える。羽田澄子にとって映画は人生そのものである。
【上映情報】※終了済み
京橋映画小劇場No.34 「ドキュメンタリー作家 羽田澄子」
2016年8月9日—8月28日 東京国立近代美術館フィルムセンター小ホールにて、計26本の羽田作品が上映された。
公式サイト http://www.momat.go.jp/fc/exhibition/kyobashi-za34/
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【ドキュメンタリストの眼⑦】 羽田澄子監督インタビュー text 金子遊 (2013年6月 編集委員・金子によるインタビュー)
【執筆者プロフィール】
山石幸雄(やまいし・ゆきお)
1959年東京生まれ、ライター。札幌のファン雑誌「RAYON」の映画評を始め、サークル・サントラという映画音楽の会報で連載していた「21世紀のアイドル女優論」が20回目の森川葵で完結。キネマ旬報の「読者の映画評」掲載2回。得意分野はアイドル女優、日本映画、日本のテレビドラマ。今の女優の一押しは「イノセント15」の小川彩良。