【ドキュメンタリストの眼⑦】 羽田澄子監督インタビュー text 金子遊


neoneo編集委員の金子が、この列島を代表するドキュメンタリストにロング・インタビューを試みるシリーズ
羽田澄子はドキュメンタリー映画界を代表する作家である。1926年に旧満州の大連で生まれ、戦後は東京へ戻って創業から岩波映画製作所に参加し、数々のPR映画や文化映画の演出を手がけた。77年の『薄墨の桜』以来、自主製作のドキュメンタリー作品を発表するようになり、北上山地の神楽を撮った『早池峰の賦』(82)、認知症患者の病棟にカメラが入って話題を呼んだ『痴呆性老人の世界』(86)、7年の歳月をかけて芸道と人生を追った『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』(92-94)、女性解放運動の思想家の生涯をつづった『―元始、女性は太陽であった―平塚らいてうの生涯』(01)など、意欲的な作品を発表し続けている。87歳の今も第一線で活躍し、新作『そしてAKIKOは…~あるダンサーの肖像~』(12)を劇場公開する羽田監督にインタビューをこころみた。(聞き手/写真:金子遊)

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cheapest generic levitra 『嗚呼 満蒙開拓団』

――羽田さんの著書『映画と私』を拝読すると、羽田さんは旧満州大連生まれの旅順育ちで、敗戦は大連で迎えていらっしゃいます。敗戦直後の3年間は、大連で過ごしていますね。その頃のことからお話し頂けますでしょうか。

Viagra for sale online 羽田 私は大連で生まれて、5歳のときに教員だった父の勤め先が三重県の津市になったので、いったん内地へ行きました。それから父が旅順に勤め先が代わったものですから、そこで小学校と女学校を出ました。そのあと、私はどうしても東京の自由学園に入りたかったので、自由学園に入って寮生活をしていました。ちょうど太平洋戦争の間でしたから、大空襲も体験しています。敗戦の年の4月に自由学園を卒業して大連の家に戻りました。家は旅順から大連に移っていました。私はその6月から南満州鉄道の中央試験所に勤めはじめていて、そこで敗戦を迎えました。

――ドキュメンタリー映画『嗚呼 満蒙開拓団』(08)では、満州に開拓団として入った農民たちの身に起きた悲劇を扱っていますが、当時は何かが起きているということは感じていましたか。

https://mens-cialisinfo.com/ Cialis Online 羽田 全然知りませんでした。近年、この映画を作るために調べて知ったんです。満州の奥地で難民になって、大連まで逃げてきた人たちが相当数いることは見聞していました。その人たちは収容所でまとまって暮らしていました。敗戦の年、私の父は大連実業学校の校長をしていました。父の働いていたその学校が、奥地からの難民のための収容所になったのです。それで自由学園の卒業生の友人と一緒に収容所へ行き、ボランティア活動をしました。収容所といっても、女性や子供ばかりで大人の男たちはほとんどいません。昼間、女性たちは家事の手伝いなど仕事に出かけていることが多かった。そこで私たちはせっせと絵を描いて紙芝居をつくり、収容所の子どもたちに読み聞かせしていた。歌をうたい、ギニョールと呼ばれる人形芝居もしましたね。今だったら必ずインタビューしているでしょうけど(笑)。満州の奥地へ兵隊でとられた人たちは、その後シベリア送りになり戻ってきませんでした。満鉄の関係者など民間人の男性が大連の町に戻ってきたのは、敗戦の年の冬になってからだったでしょうか。

――羽田さんのドキュメンタリー映画を拝見していると、毎回構成のスタイルを変えているように思います。『嗚呼 満蒙開拓団』では自身の経験を示しながら、丁寧にインタビューをしていき資料を積み重ねることで歴史的事実をあぶりだしています。冒頭の中国残留孤児の方たちの裁判のエピソードからはじめたのは、ここが羽田さん自身にとっても入口だったからでしょうか。

cialis for sale online 羽田 そうです。満州の奥地で何があったかを知らずにきたので、新聞で中国残留孤児の裁判に関する記事を読み、どういうことがあったのかを知りたいと思って裁判の傍聴に行きました。はじめは映画にするつもりは全くなかったのだけど、裁判を聴いている内に「これは記録しておいた方がいい」と思い、裁判は撮影できないので、それが終わった後にみんなが集まる会を撮りはじめました。裁判の傍聴へ行くようになってから、「星火方正」という雑誌が自宅へ届くようになりました。それを読んで、旧満州の方正(ほうまさ)という町に日本人のお墓があることを知りました。雑誌の発行元へ問い合わせると、方正にお墓参りのツアーを組んで行っていると教えてくれたので、ツアーに参加することにしました。最初はツアーに参加するだけのつもりでしたが、夫の工藤充プロデューサーに「とにかくカメラを持っていけ」と言われました。そこでカメラマンに同行してもらったんです。
魯さん一家記念写真より『嗚呼 満蒙開拓団』 (c)自由工房

――元開拓団の人たちは、日本が敗戦直前だと知っていれば満州に渡らなかっただろうとインタビューで言っています。彼らの悲劇を招いたのは何であり、誰かその責任を負うべきなのでしょうか。

http://www.elclarin.cl/components/com_webmd/ Generic Viagra online 羽田 当時の中国はひとつの国家とはいっても、地域地域によって軍閥があり戦争が行なわれていて、決して平和な国ではなかったんです。日本は満州へ行き中国の軍閥を退治して平和な国をつくろう、そのために満州国を創った、と日本の政府は言っていました。いろいろな民族が共同して開拓し、満州国という理想世界を創るのだと宣伝を受けていたので、満州や中国に日本軍が侵略したなんて思っていませんでした。戦後になってその事実を知って、日本政府や軍に国民が騙されていたことを知りました。私たちは日本と満州を平和な国にするために、自分たちは行っているんだと思い込んでいた、そのような世代なんです。

――方正のような満州の奥地に開拓団で入っていった農家の方々には、ご自分で土地を持ちたいという願望もあったのでしょうね。

羽田 そうです。当時の日本の農村の状況は、地主が大きな土地を所有して、ほとんどの農民はその小作人でした。ですから、子供が何人かいても継げる仕事ない。長男は家を継いで百姓をやるが、次男三男をどうするかという問題があった。都会へ出て行って工場勤めという形もありましたが、それでも無職の人たちは大勢いました。政府はその人たちに満州へ行けばちゃんと土地が与えられるということを宣伝した。国としてもその人たちを食べさせるために、それを考えたのだとは思いますけど夢のような話だったわけです。『嗚呼 満蒙開拓団』のなかで当時のニュース映画を引用しています。映画館へ行くと本編のドラマがはじまる前に、必ずニュース映画が上映され、満州を理想化して描くプロパガンダ映画が数多くあって、人びとは刷りこまれていったんですね。
丸沢さん養父墓参り『嗚呼 満蒙開拓団』 (c)自由工房

――『嗚呼 満蒙開拓団』のなかで、日本の植民地主義が中国人から土地を安い値段で接収し、それを何も知らない開拓団の入植者に与えていたという部分が心に残ります。また戦時中の日本兵が散々中国人に残虐な行為をしたのにもかかわらず、中国の民衆はそれを許し、憐みから日本人の引揚者たちが置き去りにした子供たちを育てたという事実も示されます。いわゆる中国残留孤児の話です。

羽田 土地の接収に関しては、その事情を知っているのは政府の関係者だけで、開拓団の人たちは何も知らなかったんです。またひと口に開拓地といっても、いろいろなところあったようです。未開の地を拓いたところもあるし、中国人が開拓していた場所を安く買い上げて日本人に分けてしまったところもあるし。そのとき、今度は現地の中国人を小作人として雇うわけです。小作人の中国人を大切にしていた開拓団も多くありましたが、反対に中国人をこき使っていじめたところもあった。そのような土地では敗戦と同時に恨まれていた日本人たちは殺された。しかし日本人と中国人の関係が良かった土地では、引き揚げるときに困った日本人たちが子供を預ければ、ちゃんとその子たちを引き取って育ててくれる中国人の人たちも多くいたんです。戦時中の日本人といってもみんながみんな悪人だったわけではなく、そこにはいろんなケースがあります。

――丸沢さんのエピソードと彼の満州への再訪の旅が、映画後半のメインになっています。国家や政治のレベルでは戦争や対立になっても、民衆のレベルでは心は通い合うし、許しも可能だというメッセージを感じました。

羽田 最初のプランでは、丸沢さんの奥さんにスポットを当てていました。彼女を育ててくれた中国の人に、奥さんと一緒に会いに行く予定でした。しかし奥さんが体調を壊してしまって満州へ行けなくなり、代わりに丸沢さんにスポットが当たっていった。状況は複雑ですよ。丸沢さんのように中国人と日本人が本当の家族のような関係をつくっている人たちもいる。国家と国家というレベルになると関係がおかしくても、人と人のレベルでは友好的な交流がおこなわれている。そのような状況に対して政治的な視線で見るのではなく、その実態を掘り下げて広くみなさんに知ってもらいたいと思います。戦時中の満州において、中国人にひどいことをした日本人も多かったけれど、日本人のなかでそうではなかった人も大勢いる。それをありのままに記録することが記録映画の役割だと思います。
私自身はといえば、大連で中国人と直接つき合うということはあまりなかったけど、家で働いてくれる中国の人たちがいました。戦後3年ほど大連にいましたが、私は日本語しかできなくて中国語ができなかったから、日本への第一次引き揚げが終わって日本人が少なくなると、日本語だけで生活することは難しくなった。こんな話をしたことはないけど、第二次の引き揚げが始まったとき、「もしここに残るのなら、私のところで何とか世話する」と言ってくれた中国人がいました。


『薄墨の桜』


――『薄墨の桜』(77)は独特のシネポエムといいますか、非常に興味深く拝見しました。岐阜県根尾村にある樹齢1400年といわれる「淡墨桜」の古木を映画にできる、という発想をどのようにお持ちになったのかお聞きしたいのです。

羽田 この映画の制作のときは、どんなものになるか全くわからないで撮っていました。それでも撮りたいという強い気持ちがあった。はじめてあの古木の桜を見てから、その2年後にあまりに不思議な桜だから妹に見せたいと思って一緒に根尾村に行きました。妹も驚いてくれて、そのとき私はこの桜の姿を撮れば15分くらいの映画が作れるかもしれないと思ったんです。妹はフランス文学の研究者で詩も書く人だったので、彼女に詩をつくってもらい、それにあわせて映像を撮っていこうと思いついたんですね。

――畑中のおじいさんという登場人物が「この桜の下には塚があったといわれ、子供のころに掘ったら人骨が出てきた」というエピソードを披露しています。なにか長生きしすぎた古木の妖気を物語るおそろしい話です。それからもう一つ、白蟻の巣になってしまった根に、新しい根を接木すると甦ったという挿話も不気味ですね。

羽田 取材をしていくなかで、とにかく畑中さんを撮っておかなくてはと思いました。そこで撮影をはじめて、何かお話をして下さいといったら人骨の話をはじめたんです。私自身おじいさんの話を聞いている間、こちらが怖くなってしまいましたね。「淡墨桜」の歴史や謂れが、近くに立てられた看板に書いてあります。しかし、それが本当かどうかは分からない。70年代半ばに私が行ったときに立っていた看板は樹齢1300年となっていた。ところが今行くと樹齢1500年になっている。あの桜の古木に関する伝説も色々あります。あの土地に住む根尾族という人たちの墓地があり、そこに植えられた桜らしいというのがどうやら本当の話のようです。ところがその話は表に出てこず、6世紀の継体天皇のお手植えということになっています。

greyblossom1『薄墨の桜』 (c)自由工房

――この桜のように長生きするものもあれば、羽田さんの妹さんのように若くして亡くなってしまう方もいます。何かそのようなものが込められているような気もしてきます。特に『薄墨の桜』は、妹さんが書いた詩の言葉が全体をやんわりと覆っています。唯一のご姉妹である妹さんの死と、この映画の関連についてお話し頂けないでしょうか。

羽田 『薄墨の桜』の映画を撮ろうとしたとき、妹があんなに早く死んでしまうなんて全然考えていませんでした。それは本当に驚くようなことでしたね。妹はあの桜を一緒に見てから、2ヶ月後くらいに入院して、その翌年の桜の花が咲くころ、つまりは1年後に癌で亡くなりました。

――『薄墨の桜』が映像個展という形で上映されて以来、羽田澄子さんの映画作品は岩波ホールで上映され続けているわけですが、支配人の高野悦子さんとの出会いを教えてください。

羽田 高野さんが岩波ホールの支配人になったことは知っていましたが、特に交流があったわけではありません。高野さんと知り合ったのは、岩波ホールの演劇シリーズで「東海道四谷怪談」を上演するときに、それをフィルムで記録しておきたいという依頼が岩波映画製作所にあり、私は会社から担当するように言われたのです。それを撮ったら、高野さんが喜んでくれました。ちょうどその頃『薄墨の桜』も完成したので、高野さんに見てもらったんです。それがはじまりです。そのときは『薄墨の桜』と岩波映画時代の作品を3本(『風俗画―近世初期』、『狂言』、『法隆寺献納宝物』)上映しました。
高野さんは今年(2013年)に亡くなりました。『薄墨の桜』を作品として評価してくれたのは、最初は高野さんひとりでした。この作品は仕事の合間につくったので、社長にも仕事に差し支えがなければ作っていいと言われました。それで、完成のときにまず会社のみんなに見せたんですが、映画が終わってみんな変な顔をして出てきて誰も感想をいってくれなかった。岩波映画の偉い監督さんに呼ばれて「ああいうものは他人に見せるものじゃない、押入れにしまっておけ」と言われたのを覚えています。付き合いのあった映画評論家2、3人に見てもらいましたが、誰もほめなかった。当時NHKのディレクターをしていた三枝健起さんが、21時のニュースのときに紹介をしてくれて、それで評判が広がったんです。

――この作品は、羽田さんの作品のなかで僕が一番好きなものかもしれません。羽田さんの映画ではどれでも「言葉の力強さ」を感じます。クレジットを「演出」にするのもそのような理由からでしょうか。

羽田 昔から記録映画でも「監督」という呼称を使いますが、私が「演出」を使うのは、岩波映画の製作部長だった吉野馨治さんが「ドキュメンタリーをつくる人間は監督ではない」と言っていたんです。劇映画では大勢のスタッフや俳優を監督するから監督なのであって、記録映画はそうではない、つくる人間は現実を演出しなくてはいけないという考え方でした。それで岩波映画では「監督」という言葉を使わなかった。私は岩波映画の創立から入って定年まで勤め上げた人間ですから、その考え方を尊重して「演出」といっています。ナレーションは自分で書くことが多いのですが、それを読むのは他人にやってもらうこと多かったです。ところが最近になって、自分の思いを表現するときに自分の声で言った方がいいと思う作品に関しては、自分で読んでいます。


『痴呆性老人の世界』

――これは非常に力強い映画で、心を動かされました。羽田さんは83年に田辺製薬の企画で『痴呆老人の介護』という学術映画を撮っています。この作品から自主製作のドキュメンタリー『痴呆性老人の世界』(86)の製作へといたる流れと、その裏にあった思いが何かあれば教えてください。

羽田 その頃は、痴呆性老人がどのような方々なのか知らなかったので、下調べで病院へ行ってみてびっくり仰天しました。現在は「痴呆」という言葉は使わず「認知症」ということになっていますが、当時は痴呆老人、それから痴呆性老人と呼んでいました。ちょうど田辺製薬が現代でいう「認知症」の薬をつくる事業をはじめたところでした。製薬会社がその薬を売るために、痴呆性老人がどのようなもので、どのような介護をしなくてはいけないかその内容がわかる学術映画をつくってほしいという依頼でした。『痴呆老人の介護』を撮った当時は、あのようなお年寄りを取材するということの前例はなかったんですが、医療の学術映画ということで特別に許可がおりました。

熊本の病院を選んだのは、現在も認知症の問題において中心的な役割をはたしておられる長谷川和夫先生が監修で入って下さり、どこで撮影したらいいかと相談したら、九州の熊本にある病院がいいだろうと紹介して下さった。それは50分くらいの学術映画にまとめましたが、撮影している間に、これは医療の学術映画でおさまる問題ではない、もっと一般の人に見てもらえる映画を作った方がいいと思いました。それで、改めて岩波映画の自主製作映画として作ったのが『痴呆性老人の世界』(86)なんです。イメージ (9)――16ミリフィルムで同時録音をしながら、予測がつかない行動するお年寄りの人たちを追いかけるのは大変だったのではないでしょうか。

羽田 すごく大変でした。撮影も大変でしたが、当時の技術でも何とか撮れました。さらに、痴呆性老人の方々が何やらおしゃべりしている声がきちんと録音できないと、この映画はダメだと思い、録音部に「どの老人の、どんな小さい声やつぶやきでもすべて録れるようにしてくれ」と頼みました。録音は滝澤修さんですが、彼とは彼が録音の仕事をはじめた頃から付き合いがあって、彼はとても張り切ってやってくれました。特製の長いハンドグリップをつくって、離れた場所でも録音できるようにした。それから、彼はカメラがどれくらいのサイズでどこを写しているかがよく分かる人で、カメラがズームで寄ればマイクも寄るし、引けば引くし、ということを全部やってくれました。それで当時としては珍しい同時録音撮影のカットで映画を構成することができたのです。

それと当時のフィルムは感度が低かったので、病院の建物のなかや夜のシーンではライティングをしなくてはならなかったんです。ところが、ライトを立てて撮影をしていたら、素人のお年寄りたちは緊張してしまうでしょう? そこで病院の天井に特設の枠をつけて、そこにライトを設置して撮影しました。舞台の上にいるように、お年寄りたちはどこにいてもライトが当たるようにしたんです。

イメージ (7)『痴呆症老人の世界』 (c)岩波映像


――映画のオープニングに撮影させて下さった方々への謝辞が出てきますが、痴呆症になってしまったお年寄りを撮影されたくない、世間に見せたくないという家族はいなかったのでしょうか?

羽田
 それは当然ありましたね。最初の田辺製薬の学術映画『痴呆老人の介護』を撮ったときは、それを見る人たちは医療関係者だけだということで、撮影を拒否する人はほとんどいませんでした。ところが、一般の人たちに公開する『痴呆性老人の世界』となると、前回は許可した人でも嫌がる家族はいました。それでも、「撮影することで、みんながこの病気のことを知るようになるのであれば、どうぞ使ってください」とおっしゃる家族の方も多かったですね。そのように許諾が得られた方だけの映像素材で、この映画は構成されています。ご家族には撮影したラッシュをお見せしました。許可をいただけた家族の方たちは、それがどんな情景であろうと使わせてくれましたね。

――お年寄りの認知症の問題と、家族が追い込まれる介護やケアの問題は深刻です。それにも関わらず、どうしてもこの映画にはユーモアが漂っています。それはお年寄りたちが話す熊本弁のいきた言葉のせいもありますが、人間の生のたくましさ、ヴァイタリティがここには写っているような気がします。ここには人間賛歌の面もあると思いました。

羽田 そうです。『痴呆性老人の世界』を見た方には、複雑な反応がありましたね。お年寄りが痴呆性になっているひどい姿を映画で見せている、と怒る人たちもいました。でも人間がこうなってしまうのかという不安とともに、思わず笑ってしまうシーンもあって複雑な想いでした。私はずっと岩波映画で映画をつくっていましたが、いわゆる文化映画ですから、上映会で一般の人に見せるということはほとんどなかった。ところがこの映画は、岩波映画が全国自主上映の母体となって、驚くほど多くの人たちに見られることになりました。岩波映画の歴史のなかにおいても、記録的にヒットした作品だということです。

『AKIKO― あるダンサーの肖像―』『そしてAKIKOは… ~あるダンサーの肖像~』

――アキコ・カンダさんはマーサ・グレアムのカンパニーに所属し、帰国後に日本で活躍した舞踊家・振付家です。85年の『AKIKO あるダンサーの肖像』は、アキコさんのナレーションという変わったスタイルで構成しています。このあたりからお話しください。

羽田 アキコさんを撮った最初の映画では、アキコさんの世界をどうにかして映画にしようと思いました。彼女の世界というものは、他人が説明できるものではない。観客がアキコさんの芸術を体感できるような映画にしなきゃダメだと思いました。そうすると、ご本人に話していただくしかない。そこで、まずは私がナレーションの原稿を書いて用意しておき、アフレコのような形で、編集した映像をアキコさんに見せながら、その場で自分の口ぶりに直してもらって声をあててもらいました。

――「ダンスの他に何もできない」と自認するアキコさんのあり方を象徴するのが、部屋のぬいぐるみと、埼玉の実家に預けられて育った息子さんのエピソードだと思います。これらが入ることによって、反対に芸術にすべてを捧げた人の潔さが出ていると思います。また、この映画の主役ともいえるダンスのシーンを撮る上で、カメラを何台使い、どのような気配りをしたのか教えてください。

羽田 とにかく、アキコさんがどんな人かというのを丸ごと捉えたいと思いました。彼女にはダンスの世界と、日常の生活における世界があります。ですが、その日常生活というものはダンスを中心にまわっているもので、一般の人たちの日常生活とは全然ちがう。それを撮らないと、アキコさんという不思議な人物をとらえたことにはならない。ふつうの人からみれば特殊かもしれませんが、彼女にとってはその生き方しかないわけです。アキコさんのダンスを撮るときには、2台のカメラを使いました。ダンス・カンパニー全体を撮るのはカメラマンには任せておいて、もう1台のカメラとカメラマンの側に私がいて、逐一指示をだしてダンスの撮影をしました。

AKIKO_sub3『そしてAKIKOは… ~あるダンサーの肖像~』 (c)自由工房

――『そしてAKIKOは… ~あるダンサーの肖像~』(12)は、同じくアキコ・カンダさんを撮った映画ですが、被写体であるアキコさんとの個人的な信頼関係がなければ、絶対に撮れない作品だと感じました。最初は2010年のダンス公演から映画の幕があけます。

羽田 アキコさんと、もう少し歳をとったら映画を再び撮ろうという話はしていました。いつもアキコさんの公演は、夫でプロデューサーの工藤充と一緒に見ていました。このときも工藤と見に行く予定だったのが、工藤が体調を崩していけないので「舞台の記録をとっておいてくれないかな」と頼まれたのがきっかけでした。それでアキコさんに電話をしたら「いいわよ」と許可が出て、スタッフを組んで舞台を記録することになった。それがはじまりです。舞台のすぐあとで、アキコさんが肺癌で入院したと聞いてびっくりした。それからは闘病する姿でも何でもアキコさんの身に起きることを撮っておかなくてはいけないと思い、本格的に映画製作に入りました。

――前半でアキコ・カンダのダンス作品を次々と見せていくシークエンスがあります。彼女の作品をダイジェストとはいえ、時代順に体験できることがこの作品を見る魅力のひとつです。

羽田 ええ。公演の記録映像自体はダンス・カンパニーが撮っていたビデオがあって、それを使っています。その膨大なビデオのなかから、まずはどのダンス作品がいいか、世評の高い作品を選んでいきました。それからダンスのテーマがわかりやすく、且つ画面の良いものを選んでいきました。もともと記録用に撮っているものなので、この映画に使えるものは限定されていました。

――前作に引き続き、アキコさんの自宅の部屋や生活を撮っています。よくまあ、彼女が素顔から闘病生活の細部にいたるまで、あらゆるプライベートをカメラの前で明け渡していることに驚きました。

羽田 本当にそうですよね。ふつうの人だったら、とてもあんな風に裸になってみせるということはない。闘病中の痩せて疲れ果てた姿なんて、ふつうの関係だったら見られるのも嫌でしょう。ましてや撮影されるなんてありえないでしょう。あのような撮影が可能になった裏には、アキコさんが私に対して絶対的な信頼感を持ってくれたということがあります。彼女は初めて会ったとき、私に「おかあさん」というあだ名をつけてくれた。私は自分に子どももいないのに。「おかあさん」なんて私の呼んだのはあの人ひとりです。10歳しか離れていないのにね(笑)。彼女とは長い付き合いだけど、だからといって度々会っていたわけではない。人生の節目節目みたいなときに、彼女は手紙を書いて送ってくれるマメな人でした。

――アキコさんはひょっとして、これが自分の最後のダンス作品になると直感し、あるいは自分の死すらも予感して、その上で羽田さんに映画にしてほしいとまで考えたのでしょうか。

羽田 それは分からないですね。ただ私が映画を撮りはじめてからは、これが映画作品になるということは理解していました。もう二十年ほど前になりますが『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』(92-94)という作品で、13代目片岡仁左衛門さんの晩年を撮った映画を見たとき、アキコさんは「おかあさん、また私も撮ってね」と言ってましたね。その作品では84歳から90歳になるまでの仁左衛門さんを撮りました。だから私はアキコさんに「じゃ、あなたが80歳になったら撮ってあげるわ」と言ったら、彼女は「そのとき、おかあさんは90歳よ」と言って、みんなで大笑いしました。若い頃からアキコ・カンダのようなモダン・ダンスを踊ってきた人が、年齢を重ねるとどのような芸術の境域へとむかうのか、そこに関心がありました。まだ先のことだと思っていたのに、それがこんな形になってしまって…。ただラスト・チャンスに間に合ったということです。

――病院から青山円形劇場にのりつけて、やせほそったアキコ・カンダが最後の公演を終えます。そのあとの楽屋でアキコさんが、息子さんやお姉さんたちと抱き合ったり語ったりするシーンには心を揺さぶられます。あの場にカメラが入って、しかも正面からひとりひとりの表情をとらえ、特に息子さんを撮っていることがすごい。それでいて短く的確にモンタージュして甘い感傷は排しています。

羽田 あのシーンを撮ったカメラマンは宗田喜久松さんです。前のアキコさんの映画『AKIKO―あるダンサーの肖像―』も宗田さんが撮っていて、アキコさんが私と宗田さんにすごい信頼感を持っていてくれたということが、あのような映像が撮れたことの要因ですね。

AKIKO_sub2『そしてAKIKOは… ~あるダンサーの肖像~』 (c)自由工房


――羽田さんの著書『映画と私』を読むと、羽田さんの映画哲学をあらわす「ドキュメンタリーは撮る人、撮られる人の互いの信頼の上に成り立つものでなければならない」「映画をつくることはその人たちと一生の付き合いをすることなのだ」という言葉に出会います。まさにそれを現在まで実践されているのだなと思いました。一方で、現代ではビデオカメラとパソコン編集が一般化し、次々とドキュメンタリー映画がつくられて公開されていますが、そのような現代のドキュメンタリーのつくり手に対して何か言いたいことはありませんか?

羽田 このごろ思うのは、私が記録映画を作り始めた頃には、対象となる人の本当の気持ちとか、その人の飾り気のない素顔を撮ることは本当に難しかったということです。当時でもアメリカの記録映画を見ると、カメラの前でべらべら話す人物は珍しくなかったですが、その頃の役者ではない素人の日本人はカメラがあればしゃべらないし、しゃべるときはとても緊張して話すといった具合でした。岩波映画でいえば、京極高英さんが演出した『ひとりの母の記録』(55)という映画があり、信州の伊那谷に住む養蚕農家の主婦を撮っていますが、そこですら本当の素顔は撮れていません。同じ時代に羽仁進が『教室の子供たち』を撮って、やっと人間の素顔があれだけ写っていることにみんなが驚いたわけですね。

今や小さなビデオカメラがあって、誰でも撮影ができ、そういうことが全く珍しくなくなった。逆にいうと、そういうなかで緊張感のある本当の画を撮ることが難しくなってきている。昔の機材で撮られた映画で、被写体の人物が自然にふるまい、その人の真実と真実の情景がとらえられたカットの持っている緊張感と、いまビデオカメラで回しておいて後から編集をする場合とを比べると、画面の力が全然ちがうと思います。昔からのカメラマンでもビデオになると昔のような緊張感が持てずに撮るので、私はよく「フィルムだと思って撮って!」と言います。現代ではいろいろな映像が撮れるようになったというプラス面があるものの、その映像のなかに映画をつくる人間の思想や精神がどれだけ表現できているのか、そのあたりが薄まっているのではないかと思いますね。

 

『そしてAKIKOは… ~あるダンサーの肖像~』
監督:羽田澄子 製作:工藤充 出演:アキコ・カンダ
2012年/HD/長編ドキュメンタリー映画/120分
公式サイト http://www.jiyu-kobo.com/AKIKO/
6月1日~7月12日 岩波ホールにてロードショー、以降全国順次公開予定



【聞き手プロフィール】 
金子遊 かねこ・ゆう
映像作家・批評家。劇場公開作に『ベオグラード1999』『ムネオイズム~愛と狂騒の13日間~』、編著に『フィルムメーカーズ 個人映画のつくり方』など。neoneo編集委員。
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