【Report】思考が祝祭される場所 「虹のキャラヴァンサライ あいちトリエンナーレ2016」展 text長谷部友子

トリエンナーレとはイタリア語で3年に一度の意で、3年に一度開かれる国際美術展覧会のことである。美術館やギャラリーで作品を見ることができるものを展覧会と呼ぶならば、そういった施設に限らない場所で多くのアーティストたちが出品するアートイベントと言えるかもしれない。最近では多くのトリエンナーレが開催されることもあり、どのトリエンナーレも出品する作家の顔ぶれやテーマが似たり寄ったりとの批判もある。

港千尋が芸術監督を務める「虹のキャラヴァンサライ あいちトリエンナーレ2016」は、いわゆるトリエンナーレとは一線を画している。港自身も南米での滞在経験を経て、フランスを活動拠点の一つとしているが、キュレーターにブラジル拠点のダニエラ・カストロとトルコ拠点のゼイネップ・オズを招聘し、現代アートの世界では未だ欧米主導のことも多いが、中南米、中東に大きく舵を切り、展覧会に出品経験がない作家、未発表の作品を重点的に取り上げた。また、絵画、写真、映像、モニュメント、パフォーマンス、インスタレーション等従来のアートとされるものに限らず、文学、文化人類学に及ぶ内容を取り上げ、アートの領域を問い直そうと試みている。あいちトリエンナーレ2016は、まさしく今ここでしか見ることができないアートイベントとなっている。

今回が3回目となる、あいちトリエンナーレ2016のテーマは「虹のキャラヴァンサライ」。キャラヴァンサライとはペルシア語で、隊商宿を意味する。広い中庭には厩や倉庫や取引所があり、二階に宿泊所を設けられ、キャラヴァンが旅の疲れを癒す休息の場所だ。 私たちは旅に出ている。どんな旅なのかはわからない。生まれ落ちた瞬間から、この長い果てのない旅に駆り出されている。一体どこを目指すのか、そしてどこまで来たのか。もっと遠くへ行こうとしたとき、来し方と行き先の境界となる現在地。現在地とは旅の最前線だ。その現場で、一体何がおこるのだろう。人は何故現地に赴き、そこで交わらなければならないのだろう。「あいち」という現場で交わった、いくつかの作品について紹介したい。

■松原慈「接触化石」他(N-16)現在地という境界を語るのであれば、境界を撫でるところからはじめたい。 モロッコ、エジプト、「あいち」の盲学校の子どもたちとのワークショップを介して生まれた陶磁器やブロンズによる形を写真やテキストを組み合わせ、独自の物語と空間を作り出した松原慈の作品は、J.L.Borgesの一説を引用する言葉からはじまる。

“ゆっくりと この身を囚えたのは 眠たい世界 夜明けも夕暮れも終わることのない 夜 誰一人いない ただ詩だけがある 無味な世界を象るための。”

松原はマラケシュの盲学校で出会った生徒たちに、「Did you dream last night?」と訊く。おぼえていない、教えたくないと相手にされなかったが、ある日土を渡し、心に浮かんだものをそのまま手で形にしてほしいと伝える。そこから生まれたつやつやとした陶器、ブロンズの欠片たちを松原は「内なる視力を集めたもの」と呼ぶ。そしてマラケシュから遠く離れた「あいち」の二つの盲学校でも、松原は「昨日の夜、夢を見ましたか?」と語りはじめる。

“夢。 わたしたちの目が対等な場所。無名の言語が支配する空間。”

夢の入り口、そこは見えると見えないの境目がなくなる地平。その境界を彼女は易々と越境するのではなく慎重に丁寧に撫でる。盲学校の生徒たちがつくったその光沢を放つ灰色の陶器を慎重に撫でるように。盲いた目が、世界を象り彩りはじめる。 視力の質感。 触角の色彩。 意味をなさない、無機質なその物質たちにどうして私はこれほどまでに見入ってしまうのだろう。そしてそれに触れたいと思うのだろう。それはある意味当然もしれない。薄闇の中で照らし出されるそれらは、思いを象ろうとしたものたちなのだ。これは思いが、物語が立ち現れようとする最初の形なのだから。 光に照らされる陶器とブロンズの作品たちが浮かび上がるその空間では、物語が立ち現れ、ここではないマラケシュと、ここの近くにありながらも私が赴いたことのない「あいち」の盲学校を思い起こさせる。ここではないどこか。私の行ったことがない、私の不在の場所を。

“意識と視覚が向かい合う戦場を支配したのは、無名の言語。 外界を説明するためではなく、内界を表すためだけに言語が存在しようとする世界に属する言語。”

視覚と盲目と、夢と意識とが交錯するこの場所は、夢現の仮想空間ではなく、この世にありありとした重みをもつ場所。
■味岡伸太郎「峠へ」(N-20) マーク・ロスコの「シーグラム壁画」と呼ばれるシリーズのうちの7点が収蔵されているDIC川村記念美術館にあるロスコ・ルーム。あの深い赤茶色の地に表れたのは、赤、黒、明るいオレンジで描かれた窓枠のような形。圧倒的な色彩を前に何を感じればよいのか不安になってしまう。味岡伸太郎の作品は一瞬そのロスコ・ルームを想起させた。

タイポグラファーとして高名である味岡は、豊橋の自宅を改築する際に東三河の色彩豊かな土と出会い、「あいち」の三河を中心に土の収集を始め、採取した土に木工用ボンドを混ぜ、綿布に定着させて「絵画」として発表した。採取した土を提示するだけであるが、それは無限の色のバリエーションと質感を備えていた。世界中の多くの場所で、同様の内容のインスタレーションを行い、多様性を示そうとする作品が多い中、味岡は「あいち」という特定の場所のみから採取し、その特定の場所が極めて多様性を持つことを否応なく示す。 グラディエーションを眺めながら土色とは何色であろうと思いを馳せ、近づいてそのマテリアルと質感を見る。 ロコスの絵が我々に内省を促さずにいられないように、味岡の絵は、原始的なそれでいながらも素朴な疑問を問うてくる。
■オスカー・ムリーリョ「高度、フリークエンシーズ、触媒‐THEM」(N-27)夏休み明け、自由研究の発表が飾られていた図工室のようだと思った。あの少しかび臭いような、土っぽく、子どもの奇妙な好奇心が雑多に陳列された部屋。 オスカー・ムリーリョの「frequenciesプロジェクト」(http://frequenciesproject.net/)とは、生徒の机の上にキャンバスを張り、通常6ヶ月間、普段通りの学校生活を過ごした後、キャンバスをアーティストが回収して展示するプロジェクトだ。子どもたちが自由に描いた落書きが重なり合うキャンバスには、教室で過ごした時間、他愛もないおしゃべりのような落書きが記録され、それらは日常でありながら、しかしそれ故にどうしようもなくある種の時代や地域を映し出されている。

これまでムリーリョはコロンビアやインドなどの多くの国々でfrequenciesプロジェクトを実施してきたが、今回は「あいち」の4校にて実施した。ムリーリョの関心は作品の完成というより、未完のプロジェクトそれ自体にこそあるように思われる。子どもの勝手な落書きでありながらも、そこにはグローバル企業のお菓子やアニメのキャラクターが描かれ、経済と労働の気配を濃密に感じされる。ケニヤの子どもたちのキャンバスは土色で色彩が少なく、レバノン難民キャンプの子どもたちの思いのほか鮮やかな配色に驚く。 むせかえるような社会のリアリティ。ここに幻想はない。あるのは、ありありとしたリアルの残骸だ。「あいち」で交錯した3名のアーティスト。 垣間見えるのはその知性。かつては一心不乱に絵筆を握る者が芸術家と言われたが、現在のアーティスとは作品制作者というより、あたかもプロジェクト管理者のような様相すら見せている。アートは美を追究することに止まらず、生を追求するものになった。世界に取り組むための巨大プロジェクト。それをプロジェクトと呼ぶのであれば、アートもまた企画立案が主となり合理性の罠に捉えられてしまったのだろうか。一心不乱に美を追究するあの純粋さは失われてしまったのだろうか。

今回のトリエンナーレのテーマにもある「キャラヴァン」とは、商品の輸送中に盗賊団などの略奪、暴行などの危険から集団的に身を守り、商品の安全やいざというときの保険のために、複数の商人や輸送を営む者が共同出資して契約を結ぶことによって組織されたものだった。安全や契約。芸術とは程遠いと思われる、その言葉たちをもこのトリエンナーレは含もうとしている。 私たちが未だかつて踏み入れたことのないところへ行こうとするとき、そこにあるのは無謀と蛮勇のみであろうか。 そこに計画と思慮深さは含まれてはならないのだろうか。我々は共に大きなプロジェクトを遂行している。人類という隊列を為し、未だかつて見たことのないはるか遠くを目指すそれは、いくつもの困難が待ち受けているだろう。 アートにつきまとう、考える前に感じよというあの重苦しい圧力が苦手だ。

しかし今回のトリエンナーレの作品たちは、軽やかな感性に訴えかけてくる。そして世界のあり様を考えさせずにはいられなくさせる。 太陽の光が空気中の水滴によって反射される一瞬にあらわれる虹は、今回のテーマの一つであり、「虹」とはアート作品における感性と理性の絶妙の、そして一瞬のバランスを表している。 はるか遠くを目指すため、軽やかさを失わずして思考することはいかにして可能か。 思考せよ。繊細に、奥深く。 感じよ。そして考えよ。 キャラヴァンたちが進む砂漠の先に、思考が祝祭される場所が蜃気楼のようにゆらゆらと見える。 ■あいちトリエンナーレ2016 虹のキャラヴァンサライ 創造する人間の旅
Homo Faber: A Rainbow Caravan

芸術監督:港 千尋
会期:2016年8月11日(木・祝)~10月23日(日)[74日間]
主な会場:愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、名古屋市内のまちなか(長者町会場、栄会場、名古屋駅会場)、豊橋市内のまちなか(PLAT会場、水上ビル会場、豊橋駅前大通会場)、岡崎市内のまちなか(東岡崎駅会場、康生会場、六供会場) 主催:あいちトリエンナーレ実行委員会 http://aichitriennale.jp/index.html

【執筆者プロフィール】 長谷部友子 Tomoko Hasebe 何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。