【連載】開拓者(フロンティア)たちの肖像〜中野理惠 すきな映画を仕事にして 〜 第35話,第36話 text 中野理惠

父に抱かれて。恐らく5才くらい

開拓者(フロンティア)たちの肖像〜 中野理惠 すきな映画を仕事にして <前回第34話はこちら> 第35話 Devotion〜小川紳介と生きた人々〜

バーバラは、何をどう調べたのかについては触れず、考え直した結果、小川プロの製作方法を無条件に素晴らしい、とはみなさず、関わった人々にインタビューしたい、と書いてあり、改めてプロデューサーを依頼してきていた。

   チラシの表裏 Devotion 小川紳介と生きた人々」資金作り

推薦者の一人である小野聖子さんと話して、彼女と二人でプロデューサーを引き受けることにした。資金作りのために、文化庁芸術文化振興基金と東京都女性財団の映画製作助成に応募した。東京都女性財団では第一次の書類審査に通り、面接に進んだ。審査員のお名前も、何を聞かれたのかも覚えていないが、質問には、自分でも呆れるくらいに淀みなく答えることができ、終了後、小野さんが

「私たち、大丈夫よ!」

と喜んでいたことは覚えている。芸術文化振興基金への申請は第一次の書類審査で落ちたが、東京都女性財団は面接にも通り、結果として、助成金支給の対象企画に選ばれた。受け取れた助成金は500万円だったとの記憶がある。

いよいよ撮影開始

製作を始めた正確な時期を覚えてないのだが、バーバラが、小川プロのスタッフに加えて、土本典昭監督と大島渚監督にインタビューしたい、と希望してきたことは覚えている。小川さんの作品は、ベルリン映画祭を始め、海外でも紹介されていたので、英語の資料もあるとはいえ、彼女がフィールドワークを重ねたことに感心した。

土本典昭監督へのインタビュー

土本さんと小川さんの付き合いが長いことは、日本のドキュメンタリー映画関係者の間では広く知られている。それに私は土本さんを大好きだったので、「これで土本さんに会える」とすぐに連絡を取ったのも事実だ。土本基子夫人に

「あなたいいわね、いつも土本さんと一緒で」

と言ったことすらあるほど熱烈なファンだった。土本さんには、インタビューを快くお引き受けいただき、バーバラと通訳と一緒に、踊るような気持ちでお宅に向かい、じっくり、というか、うっとりとして、お話しを伺った。

大島渚監督へのインタビュー

また、大島さんは1981年に『小川プロ訪問記』という60分ほどの作品をつくっているだけではなく、大島さんの著書や発言には、小川さんや土本さんへの憧れのような思いがあらわれていた。だが、大島さんを知っていたとは言え、いわば<雲の上>の人である。更に、1996年2月にロンドンで脳出血のため倒れた後、リハビリ中と聴いていたので、連絡を取るのにかなり躊躇した。ところが、思い切って電話をすると、「短時間ならば」、と快く引き受けてくださった。インタビュー場所として指定されたのは、確か東京駅の丸の内ホテルだったと思う。部屋を訪ねると、小山明子さんが傍らにいた。大島さんの口調は少し不自由ではあったとはいえ、開口一番、

「小川プロが存在したのは奇跡です」

ときっぱりと強く評価して始まった内容には、無駄が一切なく、インタビューは通訳を介してなのに、20分ほどの短さで、滞りなく終わった。語る内容の的確さにはバーバラも驚き、感動のあまり、それこそ飛ぶようにして二人で帰ったことを覚えている。お話いただいた内容はそのまま、ほぼ編集せずに本編に使われている(※第5話参照)。

イベントを告知するチラシ

小川プロスタッフへのインタビュー依頼

さて、では、その他のスタッフの方々はどうだったか。全てがスムースに進んだわけではなく、一部の方々への交渉は難航した。それだけ、小川さんという人が強烈だった証なのだろうが・・・。

第36話につづく)