【連載】 ポルトガル・食と映画の旅  第2回「アレンテージョの春」text 福間恵子

正装したヴィンディマドーレスの合唱隊。腕を組み隊列を作って、ゆっくり半歩ずつ進みながら歌う。2列目の左端に、顔半分見えているのがマヌエル。

ホテルにいったん戻って興奮した気持ちを少ししずめてから、腹ごしらえもかねて夜の村にもう一度出た。第一会場では若者たちのバンド演奏が始まってにぎやかだったが、人通りはだいぶ減ってきていた。さっきのバルにまた入った。チビアジの唐揚げをつまみながら白ワインを飲んだ。

祭りが終わるまでこの村にいたい、そう思いはじめていた。ポルトガル料理を勉強しようとしているわたしにとって、小さな村のおいしいものが集まる祭りに出くわすなんて、願ってもないことではないか。時間はある。

「オラ! オウトラ・ヴェシュ(やあ、また会ったね)」

振り向くと、さっきワインをごちそうしてくれたおじさんがいた。まだ正装のままだ。

「ここのワインが気に入ったようだな」

この再会でわたしたちは親しくなった。彼の名前はマヌエル・ルイス・フェロ。早口で少し訛ったポルトガル語なので、何度も「もっとゆっくり話して」をくり返しながら、少しずつ彼のことを知っていった。ヴィディゲイラで生まれて育ったマヌエルは、ずっとぶどう畑の仕事をしてきた。合唱隊にはもう20年近く在籍している。奥さんのリディアは南部アルガルヴェ地方出身で、わたしが泊まっている宿サンタ・クララのオーナーの家で家政婦として働いている。

「アレンテージョの男の合唱は、昔からある。ヴィンディマドーレスだけじゃなく、大農場で働く男たちが、歌いつづけてきたんだ」

そうか、労働歌でもあるわけだ。

「日本はマカオに近いだろ? 俺たちの合唱隊はマカオに何度も行ってるんだ。おととしは、俺も行ってきたよ」

「近いけど、まだ行ったことはない。マカオはポルトガル領だったものね」

「そうさ、だから建物も人間もポルトガルと似ているものがたくさんある。大勢の人が聴いてくれて、拍手喝采をあびたよ」

マヌエルはすこし自慢そうに言った。

明日の合唱の予定を聞いてから、勘定をすませようとすると、マヌエルはまたごちそうしてくれた。パンもチョリソも食べたのに、と言っても「スィ・セニョーラ」とニコニコするだけだ。

「明日も合唱を聴きにくるかい?」

「もちろんよ。祭りが終わるまでここにいるわ」

外に出ると、もう人通りもなく、夜の空が大きく広がっていた。

別れ際、マヌエルに丁寧にお礼を言うと、少しとまどうように彼が質問した。

「失礼かもしれないけど、よかったら歳を教えてもらえるか」

わたしは笑って答えた。

「52歳。あなたは?」

「同世代だ! おれは53歳なんだ」

予想が当たったのか外れたのか、マヌエルはとても喜んだ。彼のことをてっきり60歳以上だと思っていたわたしは、おどろいた。同世代のわたしたちは「アテ・アマニャン!(また明日)」と握手して別れた。

次の日も朝から青空が広がった。おととい降られた大雨がもう遠い日のことのように思える。10時を回ってから役場の前の広場に行く。ここで10時からヴィンディマドーレスが歌うのだ。なかなか始まりそうにないので、マヌエルたちのところに行って挨拶した。もちろん今日も皆正装している。

「ヴィディゲイラのワインは気に入ったかい?」

マヌエルが唐突にそう尋ねたので「もちろん。すごくおいしい!」と答えたら、自分の車のところに行って袋を提げてきた。「プレゼントだ」と渡されたその中には白と赤のワインが入っていた。当惑しているわたしに皆が「おれたちのワインだからな」と言いながらやさしい目でうなずく。思いもかけなかった贈り物に言葉につまって、ありがとうを繰り返すのが精一杯だった。

まもなく合唱は始まり、これを祭り第二日目の合図とするように、歌い終わると二つの合唱グループは会場まで人々を先導していった。この日はまる一日祭りを堪能し、ヴィディゲイラの村を隅から隅まで歩いた。

村には小さな坂がいくつもあって、坂の上に青空がつながる光景に何度も出くわす。いきなり人が現われておどろくけれども、みんな目で挨拶してくれる。村のはずれにあるサンタ・クララ教会は朽ちかけていて錠がかかっていたが、それがとりたてて立派な建物のない村全体の家並みとうまく調和していた。まわりに広がるぶどう畑の、まだ低いぶどうの木に新芽が伸びはじめている。新緑の草地には白と薄紫の小さな花が咲きみだれ、それを馬がのんびりと食んでいる。初めて体験するポルトガルの三月。アレンテージョの春だった。

決して豊かではないだろうこの村の暮らしのなかで、マヌエルのような心が昔もいまも生きている。それはここのみならず、ポルトガルのどこにも、たぶん当たり前に存在しているにちがいない。

この日もマヌエルに何度もばったり会い、仕事中の奥さんのところに連れていかれて、彼女と初めて挨拶をかわした。わたしと変わらないくらい小柄なリディアは、黒い瞳の人なつっこい女性だった。ささやかなおみやげにと渡したナデシコ柄の手拭いを首に巻いた彼女は、日本の女性のようだ。

「マヌエルからあなたのことは聞いてるわよ。よかったら夕飯をいっしょに食べましょうよ。ボレーゴ(羊)は好き?」

遠慮する気持ちがあったにもかかわらず、わたしは子どものように「ボレーゴ、食べたい!」と叫んでいた。

こうして祭りの最後の日、わたしはマヌエルとリディアの温かい招待を受けた。レストランに行くのだと思いこんでいたわたしは、自宅に招かれたことがわかってびっくりした。マヌエルにそう話したら、

「おれたちは貧乏だもの。レストランは高いからね」

と言われて胸が熱くなった。

リディアが用意してくれた料理はエンソパード・デ・ボレーゴとアロース・デ・パト。前者はアレンテージョの郷土料理で、羊の肉と臓物をじっくり煮込んだもの。「リスボンのガイドブック」とも呼ばれるアントニオ・タブッキの『レクイエム』に登場する料理である。後者はポルトガル中部地方の郷土料理で、細かく裂いた鴨肉と鴨のスープで煮たライスを合わせてオーブンで焼いたもの。どちらも、ずっと家庭で食べたいと夢みていた料理だ。じつにじつにおいしかった。すばらしかった。素朴でどっしりと、どこかなつかしいようなやさしい味。お母さんの味だ。そしてもちろんヴィディゲイラのワインを白も赤も。注いでくれるのはマヌエル。おいしくて止まらなくて、その作り方を聞きそびれそうになるほど食べた。おなかも心も幸せに満ちすぎて、写真を撮るのを忘れてしまったほどだ。

「今度来るときはホテルになんか泊まらないで、うちに泊まるのよ。狭い家だけど、娘たちが家族で帰ったときは12人にもなるんだから。つぎは必ず旦那さんといっしょに来てね」

リディアのその言葉は、心からのものだと痛いほどに感じた。

翌朝、このままヴィディゲイラにとどまりたい気持をふりきって、わたしは移動を決めた。リュックを背負ってバス停に着いたとき、ちょうどマヌエルが車で通りかかった。窓をあけて大きく手を振る彼の笑顔。ヴィディゲイラでわたしを待っていたのは、この笑顔だったのだ。そう思った。このあともわたしは、夫と一緒に、ヴィディゲイラをたびたび訪れることになる。

【今回の映画】

『Espelho Mágico マジックミラー』
(2005年/137分/ポルトガル)
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
※日本未公開

【筆者プロフィール】
福間恵子(ふくま・けいこ)
1953年岡山県生まれ。書籍編集者を経て、福間健二の映画をプロデュース。最新作『秋の理由』は全国各地で全国公開中。
『秋の理由』公式HP
http://akinoriyuu.com