【連載】「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」22回 『園遊会 昭和四十七年~五十三年春』


『昭和天皇独白録』は最強のインタビュー本

昭和天皇について、何か書こうとするのは気が重い。ずっと敬遠してきたからだ。崩御の後、レナード・モズレーの評伝『天皇ヒロヒト』(高田市太郎訳/1971 毎日新聞社)を読み、皇太子時代のヨーロッパ歴訪が大きな経験であったことを知ったぐらい。
言い訳めきますが、天皇にとっても国民にとっても最も過酷な時代である太平洋戦争から終戦(敗戦)までのことは、それなりに勉強した時期があるのですよ。

映像系の専門学校を1990年に卒業した後、ほぼ最初に来た話は、戦時中に起きたある事件を映画にする企画開発の下調べだった。アルバイトの合間に資料を集めては、1941年(昭和16年)から1946(昭和21年)位までのトピックをひたすらワープロに打ち込んだ。事件に関わった部隊を絞り当てるため、当時六本木にあった防衛庁防衛研究所の図書室にも数回通った。こんな毎日が丸2年近く続いた後、企画は自然消滅した。タダ働きだった。人間関係の不信と、A4印刷で200ページ以上の年表だけが残った。

なにを作るのか固まらないまま調べ物を続けるストレスと、いくら調べても〈なぜ日本は太平洋戦争に突入したのか〉がストンと落ちないもどかしさの蓄積で……寝込むことは無かったんだけど、この時代、ちょっともうカンベンと体が嫌がるようになった。今でも、戦争映画を見るのは(90年代に入るまでの邦洋のめぼしいものは見漁っていたのに)少し億劫。

しかし、昭和天皇のパーソナリティに触れる参考になるものを、と探したら、『昭和天皇独白録』(1995 文春文庫)を読まざるを得ないのだった。
1946年の春に数回かけて、陛下自ら張作霖爆殺事件から降伏に至るまで述懐するのを、側近が聞き書きしていた文書。1990年に発表されて話題になったのだが、あくまで天皇個人の所感であって歴史の一次資料として扱うべきではない、と説く議論は確か当時からあり、悩んだすえに僕は調べ物の真っ最中なのに手を付けなかった、と記憶している。



ここでは独白された事実の整合性などを置いて、昭和天皇のお人柄に近づくために読んだ感想を言う。『昭和天皇独白録』は……面白い! ムチャクチャな言い方だが、正真正銘のスター(なにしろ天子)が20世紀で一番大きな事件(戦争だ)についてありていに語っている。インタビュー本としては史上最強の部類。
人への率直な好き嫌いや苛立ち、後悔の数々から覗けるのは、非常にキレて、論理が通った道筋を好み、逆のことには不快を示す性格だ。自分は「曖昧な事は嫌ひ」とハッキリおっしゃっている。

大日本帝国憲法下の立憲君主制(君臨すれども人民を統治せず)に固く准じているので、戦争準備を進める軍に回避を「命令」はできない。よって天皇は強く「意見」する。大臣も軍部も自分の前では恭しく聴くが、結果は「意見」として置かれ、思い通りにならない。強硬な主戦論者の突き上げを抑える必要があるのです、などと後で報告がある。
この繰り返しで、フツーだったらもう臣下の顔も見たくない、となるタイプの陛下が、相当に苦しみつつ乗り越え、粘り強く状況に耳を傾けて「意見」を重ねる推移。読んでいて手に汗を握る。

「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」

せっかくなので、続けます。主戦論者の主張は、〈アメリカによる石油の対日輸出禁止で追い込まれた今、連合艦隊が米軍の兵力を上回るうちに叩いて和平交渉を有利に持って行くべき。機を逸すると完全屈服、亡国の途をたどる〉。
世論も排日移民法などに激して反米感情が高まり、軍はその声を味方にしていた。

そんなイケイケのムードの中で、開戦を認めない「命令」をすると、別の宮を立てる動き(クーデター)が起きる可能性があった、と天皇は打ち明けている。大きな内乱となり、さらに悲惨な国運となるだろうと。
しかし、それも全ては言い訳ではないか。結果的には、今なら勝算があると押し通す軍部を認めたではないか、とする天皇責任論について。僕はどう思うか。

あることはあった(ポツダム宣言を受諾する御聖断という「命令」は機能したのだから)。それでも天皇制解体といった主張には拠らないし、拠れない、が正直な気持ちです。
右と左どっちだ、と二者択一を迫られたら、左と答えるしか無い人間ではあるけれど、よしんば天皇のいない日本国になったとして、そこに明るいイメージを持てないのだ。〈君主のいない社会づくり〉に日本人はもともと向いていないんじゃないか、という思いもある。

戦後、昭和天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(日本国憲法第1条)として、80代半ばの高齢まで公務を続けた。そのありようは今上天皇に受け継がれている。
今、僕らは〈天皇陛下は国民の為にならないことをしない。エゴで負担を強要したりしない〉を最低限のコンセンサスにして生きている。イデオロギーの違いがどんなにあっても、この信頼感は共通するだろう。




よく考えたらこれ、凄いことなのだ。実はけっこう短気で潔癖な性格でいらっしゃった昭和天皇が、勤勉で穏やかな姿を示し続けた努力がまずあって培われた国民感情だからだ。
その努力こそが、国民の分裂を最も恐れ、ゆえに戦争を早期に止められなかった悔恨の証だったと想像できないか。『昭和天皇独白録』を読んで、ますます僕は、そういう落としどころを求めたくなっている。

ふう。身の丈に合わない話を長めに書いた。でも、ここまで粘ってから『園遊会 昭和四十七年~五十三年春』を聴き直すと、さらに面白みが増すのだ。

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