【連載】ポルトガル、食と映画の旅 第5回 リスボンのシネマテカ text 福間恵子

2004年10月のシネマテカのプログラム

シネマテカは日曜日と祝日は閉館、平日は15時前後から毎日5本の作品(広いスクリーンで3本、狭い方で2本という割合)を上映。つまりひと月に130本近くを上映している計算になる。これにジュニアを加えてもうすこし。日本のフィルムセンターの倍近い作品をひと月にかけていることになる。しかし、おおざっぱに言うと、フランス・イタリア・アメリカの古い作品が多く、自国ポルトガル映画は、10本もない月が多い。世界の新作はもっぱらシネコンなどの商業映画館。そこでもまたポルトガル映画がかかる機会は、きわめて少ない。

シネマテカでの上映作品のくくりは、監督や俳優特集、追悼特集、無声映画、ポルトガルの監督作品などなど、こまかく分けてある。そしてそのくくりには、小タイトルが付けてあるものが多い。

2004年10月のプログラムのメインはこういうものだ。

「スターたちの色あせぬ輝き」と題して、5人の俳優の出演作品29本。すべてを広い方のスクリーンで上映する。


1)アンナ・マニャーニ(イタリア、1908〜1973)6本
『無防備都市』(1945、ロッセリーニ)、『不幸な街角』(1948、マリオ・カメリーニ)、『噴火山の女』(1950、ウィリアム・ディターレ)、『ベリッシマ』(1951、ヴィスコンティ)、『黄金の馬車』(1952、ルノアール)、『マンマ・ローマ』(1962、パゾリーニ)

2)フランチェスカ・ベルティーニ(イタリア、1888〜1985)8本
イタリア無声映画時代に活躍した女優の、1911年から1919年までの短編含めた8本。
作品名はイタリア語タイトルなので訳して記せないが、この女優はロベルト・ロベルティ監督作品に多く出演したようだ。

3)ジェームス・ディーン(アメリカ、1931〜1955)3本
『エデンの東』(1955、エリア・カザン)、『理由なき反抗』(1955、ニコラス・レイ)、『ジャイアンツ』(1956、ジョージ・スティーヴンス)

4)ポール・ニューマン(アメリカ、1925〜2008)6本
『熱いトタン屋根の猫』(1958、リチャード・ブルックス)、『ハスラー』(1961、ロバート・ロッセン)、『ハスラー2』(1986、マーティン・スコセッシ)、『渇いた太陽』(1962、リチャード・ブルックス)、『引き裂かれたカーテン』(1966、ヒッチコック)、『ポール・ニューマンのハリー&サン』(1984、ポール・ニューマン)

5)エヴァ・ガードナー(アメリカ、1922〜1990)6本
『The Great Sinner』(1949、ロバート・シオドマク)、『パンドラ』(1951、アルバート・リューイン)、『モガンボ』(1953、ジョン・フォード)、『裸足の貴婦人』(1954、ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ)、『ボワニー分岐点』(1956、ジョージ・キューカー)、『イグアナの夜』(1964、ジョン・ヒューストン)


ほかのくくりには、「公開前」作品5本(うちポルトガル映画3本、すべて監督挨拶付き)、「蔵出し」ポルトガル無声映画5本、「観客のリクエスト」作品5本、ポルトガル語圏の作品(ブラジル映画)3本、追悼作品4本、フランスの映画祭で上映された作品5本などなどがあり、多岐にわたっている。

けれども、わたしの知る限りでは、2回上映する作品は希少、かつ2スクリーン同時に上映するので、すべてのプログラムを観るというのは不可能だ。

上映時刻は、15時30分、19時、19時30分、21時、21時30分、22時というのが通常で、最後の回が終わるのが24時をまわることもある。

さて、2004年の旅の最後の日、初めてのシネマテカに向かった。リベルダーデ大通りを歩いていると、人だかりのする建物があって、どうやら映画館のようだ。そして「INDIE LISBOA 2004」の大きな垂れ幕。なんと、インデペンデント映画祭をやっていた! Cinema São Jorgeサン・ジョルジュ劇場。ここは1950年に創設され、映画のみならず芝居も音楽も行なわれるりっぱな劇場なのだった。

プログラムを見ると、アニメーションのショートフィルムのコンペティションの、3つのプログラムのうちのひとつが19時から始まるところだった。チケットはまだあった。ふだんアニメを見ることなどほとんどないのに、会場の熱気に押されて、あっさりと予定変更。ポルトガル無声映画は次の機会までおあずけだ。

チケット代は3ユーロ、チケットと一緒に7本のアニメ作品への5段階評価表もついてきた。この投票がコンペに反映されるようだ。

2004年「リスボン インディペンデント映画祭」のプログラム

7本それぞれに面白くて、映画祭に出会えたうれしさもあって、しっかり楽しんだ。アイルランド、スペイン、スウェーデン、ベルギー、フィンランド、ポルトガルの監督作品だった。わたしも夫も1本見終わるたびに、暗闇のなかで点数をつけた。すべての上映が終わると、自作とともにリスボンにやってきている監督たちが挨拶した。若い人たちばかりで、女性の方が多かったと記憶している。

この映画祭の長篇コンペには、ミゲル・ゴメスの『A Cara que Mereces 』(「自分にふさわしい顔」)2004、日本未公開)が出品されていた。ミゲル・ゴメスは、2010年に東京のフィルムセンターなどで開催された「ポルトガル映画祭」で『私たちの好きな八月』が上映され、その後2013年に日本で劇場公開され話題を呼んだ『熱波』(原題『Tabu』2012)の監督である。ゴメスはいま、ヨーロッパの熱い注目をあびているポルトガルの映画監督の一人である。

おどろいたことに、長篇部門の「参考作品」として、日本の2作品が上映されていた。廣木隆一監督の『ヴァイブレータ』(2003)とSABU監督の『ハードラックヒーロー』(2003)。『ヴァイブレータ』はとても好きな作品だったので、ポルトガルで観たら果たしてどうなのだろうと思ったけれども、日程的にそれはかなわなかった。

だがこのとき、『ヴァイブレータ』撮影の鈴木一博さんに(すでに知り合いだったとはいえ)、わたしがプロデュースする福間健二監督作品の『わたしたちの夏』(2011)以降の作品で撮影を組むことになるとは思ってもいなかった。ましてや、主演の寺島しのぶさんに、最新作『秋の理由』に出演してもらうことになるなど、想像だにしなかったことである。

サン・ジョルジュ劇場を出たのは21時をすぎていた。シネマテカはまだ開いているので、映画は観れなくても中だけでも見ておこうと足を運んだ。ブックショップの隅から隅までチェックしながら、ポルトガル映画についての本を探した。1874年から1956年までに生まれたポルトガルの女性映画作家たち(映画関係者ふくめ)の集大成的な本『ポルトガルの女性映画作家』を見つけた。レジに持っていくと、対応してくれた女性はその本の目次を開いて、「これ、わたしの母です」と言って、マルガリーダ・コルデイロの名前を指さした。この「出会い」については、連載第1回の「トラス・オス・モンテス」に書いている。この夜シネマテカに行き、本を買い、偶然にも監督の娘と出会えたことが、ポルトガルの旅に映画を観る楽しみも加えてくれるきっかけとなった。

翌2005年2月の旅は、北部ミーニョ地方を訪ねることに終始したので、一度もシネマテカに行けなかった。でもプログラムだけはちゃんと入手していた。2005年2月のシネマテカは、2003年2月に亡くなったジョアン・セーザル・モンテイロの全作品上映がメインプログラム。モンテイロもまた、その作品を観たのは2010年東京の「ポルトガル映画祭」をとおしてだ。

リスボンのシネマテカで、実際にポルトガル映画を見る機会を持てたのは、2009年のことだった。シネマテカのこと、そこで観た映画のことなど、また書きます。

2005年2月のシネマテカのプログラム。どちらにもモンテイロの写真。

(つづく。次回は4月5日頃に掲載します。)

福間恵子 近況
アピチャッポンの、東京都写真美術館での「亡霊たち」に酔いしれ眠りこけ、国際舞台芸術ミーティング in 横浜での「フィーバー・ルーム」に感嘆の声をあげた。この人の作品は、観るというより体験するものだと思う。身体に記憶が刻まれる。