【Interview】メイシネマ祭の原点を語ろう〜主催者・藤崎和喜さん(5/3−5開催)

毎年、5月の連休中になると東京の下町、江戸川区の公民館で〈メイシネマ祭〉が行われます。小岩でガスとガス機器の販売をされている藤崎和喜さんが一人で始められ、ドキュメンタリー映画のファン、地域の人たち、また映画関係者の支持を集め、今や日本で最も長い歴史を持つ映画祭の一つとなりました。neoneo編集室では今年のメイシネマ祭を前にして、これまでの歴史に加えて、藤崎さんがどのような人物なのか紹介すべくインタビューを試みました。(インタビュー/構成: 藤田修平)


メイシネマの始まり

 ——メイシネマ祭は今年で何回目ですか。

映画祭(メイシネマ祭)として5月の連休中に行うようになったのは1996年からで、今年で22回目になります。自主上映会(メイシネマ上映会)を始めてから27年目です。

 ——ゆふいん文化・記録映画祭よりも前に始められ、ドキュメンタリーの映画祭としては山形に次ぐ歴史と言えそうです。どうして「メイシネマ」と名付けられたのですか。 

最初は江戸川とか小岩といった地名も考えましたが、地元に限定せずに遠くからもお客さんに来てもらいたいと思ったからです。それと少し前までドキュメンタリーと言えば暗くて難しい、お金を払ってまで観るものではない、と言われたこともあって、5月のさわやかさを感じてもらえる名前にしようと。

 ——そういえば秋に上映会をされていて、それも「メイシネマ」と称されていますね。

昨年は10月と11月の日曜日に1回ずつ上映会を行いました。毎年、秋にも上映会を行っています。もともとメイシネマ祭はメイシネマ上映会として始まって、1990年5月に『ニッポン国 古屋敷村』(小川紳介 1982年)を上映したのが最初です。この時に使った〈メイシネマ〉という名を大切にしてきました。

 ——最初の上映会についてもう少し教えていただけますか。

高校時代の友達に果物屋さんがいるのですが、3階建てのビルの1階に青果店、2階がその倉庫と事務所で、3階に20畳ほどかな、フローリングのスペースがあって、奥さんが子どもさん向けに絵画教室をやっていました。そこを使わせてもらうことにして、江戸川区からは暗幕、スクリーン、映写機から借りてきて、区主催の映画上映会で映写ボランティアをやっている方に映写をお願いして、第1回の上映会を開催しました。午前と午後に上映したのですが、映画を普段見ない友人と家族も動員した結果(笑)、各回20人の合計で40人ほどの観客数となりました。

 ——映画にあまり興味のない人たちの反応はどうでしたか。

とても長い映画だなあと言われました(笑)。ただ、情報誌『ぴあ』がよく読まれていた時代で、オフシアターのコーナーに載せてもらって、それを見て来た方も半分以上いました。遠くから来てくれた人もいて、勇気づけられましたね。その頃はまだ小川プロもあって、映画関係者の知り合いもいなかったので、直接、小川プロまでいって交渉してフィルムを借りてきました。

 ——本当に手作りの映画上映会ですね。そもそもどうして上映会を始められたのですか。

ドキュメンタリーは今のように劇場で公開されず、DVDやビデオにもなりませんでした。フィルムを借りるのは費用もかかるけれど20人でも30人でも集まれば、一人で借りるより安くできるだろうというのが一つ。もう一つはレーザーディスクが普及した時期で、映画をコレクションする人も増えていましたが、自宅で映画を観ていても拡がりがない。自分がいいと思った映画を他の人がどう感じているのか、確認してみたいという気持ちがあったのです。

 ——その時は何歳でしたか。

親から引き継いだ仕事も軌道に乗った時期で43歳でした。

記念すべき第1回メイシネマ上映会。藤崎さん手書きのちらし  (※画像クリックで拡大します)

 

映画漬けの大学時代

 ——メイシネマ祭といえば、東京の下町。現在は小松川区民ホールで行われていますが、5年ほど前までは小岩コミュニティホールが会場でした。なぜ江戸川区なのですか。

私の地元だからです。私は1947年小岩生まれで、2歳の時に今、店のあるところに引っ越してきてから、ずっとこの場所にいます。子どもの時は昆虫少年で、江戸川高校では生物部に入っていましたが、映画も大好きになりました。その頃は小岩にも7つも映画館があったのですよ。それで60年代の半ばすぎに獨協大学に入学すると、部員は数えるほどしかいませんでしたが、映画研究会に入って、シナリオ研究所にも通っていました。シナリオ研究所というのはシナリオ作家協会という日本のそうそうたるシナリオ作家たちが集まって作った学校で、シナリオの書き方とか映画の作り方を教えていました。今では映画学校とか映画を教える大学もありますが、当時はほとんどなかったのです。

 ——シナリオ研究所でどんなことを学んだのですか。

初心者向けのコースを終えるとゼミナールがあって、ドキュメンタリーのゼミにも参加しました。講師はTBSの村木良彦さんで、テレビ作品を何本か16mmで見せてもらって、いろいろと議論したことを覚えています。他には山本晋也さんのピンク映画講座とか、若松プロの大和屋竺さんのゼミにも出ていて、大和屋さんの授業ではグループごとに8ミリで作品を作りましたね。

 ——やはり、43歳になって突然、映画の上映会を始められたわけではなかった(笑)。本当に映画漬けの大学時代ですね。

川喜多和子さんが主催していたシネクラブ研究会にも入っていて、鈴木清順問題共闘会議の呼びかけに応じて、集会に参加したり、プラカードをもって日活本社までデモにも参加したりしました。あれだけ多く作品を作らせておきながら、映画館でも見られないようするなど、あってはならぬと怒りを感じて(笑)。その頃は鈴木清順の他には劇映画では大島渚と今村昌平、記録映画では小川紳介、土本典昭に興味がありました。それまでの文化映画、つまり脚本があって、それに従って淡々と撮影していくといった映画と小川と土本の映画は全く異なっていて、主人公は時代の意識を反映した人物、ある政治的状況を反映した人物が選ばれていて、とても刺激的でした。

 

メイシネマの原点、現代シネマテーク

 ——藤崎さんは60年代後半に大学時代を過ごし、実験的な映画表現の洗礼を受けた世代ですね。湯布院映画祭やくまもと映画祭を始めた若者たちとは10歳近く年齢が離れていて、映画に対する好みが違うように思います。そのことといち早くドキュメンタリーの映画祭を始められたこととも関係があるのかもしれませんね。大学卒業後はどうされたのでしょうか。

卒業した後はシナリオ研究所の事務局におられた方が独立して、出版会社をすでに作られていたので、そのお手伝いを半年ほどしました。ポーリエ企画といって、新藤兼人のシナリオ出版を行っていました。そこで映画上映もしていこうということになって、16mmのカタログから映画を選ぶ時に、多くの映画を観ていた私に上映企画を任せられたのです。〈現代シネマテーク〉として3ヶ月で合計6回18本、赤坂公会堂で上映しました。冷房もなかった時代です。それ以外にはポーリエ企画で深作欣二特集、加藤泰特集を四谷公会堂で行った時に、スタッフとしてちらしを作って各地の自主上映会で配っていました。この時は監督にも来てもらいました。

 ——そのちらしは今のように手書きですか(笑)。

もちろん、当時のことですからガリ版です。

 ——そうするとこの上映企画が藤崎さんの原点とは言えないでしょうか。ここまで映画と関わりのあった方だとは知りませんでした。

ただ、その後は両親の仕事を引き継ぐことになり、仕事に追われて映画から遠ざかりました。25歳で結婚して3人の子どももできましたから。仕事は燃料屋、ガス屋とも言われますが、プロパンガスとか灯油とかの燃料の販売に加えて、ガス関連の住宅機器も販売しています。家族というか個人経営の会社です。そして、3人目の子どもが小学校に通うようになって、仕事も順調で少し心に余裕が出来た頃、42歳の時でしたが、少し大きな病気をして救急車で運ばれる、という経験をしました。それが人生の転機になって、自分のしたいこともやろう、再び映画に関わろうと思って最初の自主上映会に至ったわけです。

現代シネマテークのちらし。藤崎さんの筆跡による〈現代シネマテーク・アピール〉が興味深い。
(※画像クリックで拡大します)

 

個人で映画祭(定期上映会)を行うことについて

 ——その後は順調に回を重ねられたのでしょうか。

いえいえ、全く(笑)。第1回目の成功に勇気づけられて、その年の夏に小岩公会堂(後の小岩コミュニティホール)で3日間の上映会をやりました。初日は『大日向村の46年』(山本常夫 1986年)、二日目は『ゆんたんざ沖縄』(西山正啓 1987年)でしたが、平日の夜ということもあって、ほとんどお客さんがいない。3日目の『ゆきゆきて神軍』(原一男 1987年)だけは土曜日の昼だったので、少しは入ってくれたのですが、自主上映の難しさを痛感しました。赤字覚悟でないとできないなあと。それで翌年は力尽きて、メイシネマ上映会は1回だけになりました。こうして試行錯誤を重ねながら6年目に、映画祭という形でお祭りの雰囲気を出して、より多くの人に来てもらおうとなって、最初のメイシネマ祭を始めました。

 ——それから22年。人脈も組織も全くないなかで、個人の努力によってここまで大きくして、続けてこられたことは本当に驚きです。

逆に個人だからここまで続けられてきたのかもしれません。決断もすぐにできますし、自主上映は赤字になることもありますが、一人で責任を負うことで、割り切って負担することもできました。

 

プログラムについて

 ——ここでプログラムについて質問させてください。この映画祭のプログラマーは藤崎さんですが、毎年、テーマを決めて映画を選ばれているのでしょうか。

メイシネマ祭で上映するのは私が観てよかった、みんなに観てもらいたいと考える映画です。最初の頃は昔に観た作品のなかから選んでいましたが、新しい作品が次々と出てくるようになって、同じ監督の作品を気に入って、新作を上映することも多くなりました。とはいえ、できるだけ一つの傾向に収まらないようにバランスを考えています。1日に4本の映画を上映するわけですが、誰にでもどれか好きな映画があって、それだけでも観に来てもらいたいなと思っています。

ただ、映画を選んでいくとどうしても私の思いが出てくることになりますね。経済成長ばかりに目を向ける社会構造のせいかもしれませんが、近年の日本社会にはおおらかさがなくなって、相手を攻撃するけれども、他者を受けない、昔よりそういう傾向が強くなったのではないでしょうか。こうした閉塞した空気のなかで5月のさわやかな風を吹き込むような映画を上映したいと思っています。もちろん政治的なメッセージは時には必要だけど、一方的に声高に訴えるだけでなくて、もっと広い次元から問題を捉えて生活の豊かさを示すような映画です。実はメイシネマと名付けた時に、『となりのトトロ』に登場する二人の女の子、メイとさつきを意識したのです。そうした5月の風を吹き込む映画を上映して100人であれば、100人なりに感じたこと、考えたこと、その違いと共通点を一緒に確認しあう場にしたいと考えています。

 ——女の子のお子さんが二人おられるとのことですが、プログラムにおいてもやはり5月の映画(メイシネマ)を意識されているわけですね。本日はありがとうございました。

「メイシネマ祭名物、藤崎さんの手書きのプログラム」(※画像クリックで拡大します)

メイシネマ祭2017

2017年5月3日(憲法記念日)
10:30~ 『蝶々さん群馬にはばたく』監督:飯塚俊男 2016年 71分
12:30~ 『クワイ河に虹をかけた男』監督:満田康弘 2016年 119分
15:10~ 『いのちのかたち』監督:伊勢真一 2016年 82分
17:30~ 『ブラジルの土に生きて』監督:岡村淳 2016年 150分(2000年改訂版)

2017年5月4日(みどりの日)
10:30~ 『ダンスの時間』監督:野中真理子 2015年 88分
12:40~ 『早池峰の腑』製作:工藤充 監督:羽田澄子 1982年 186分
       工藤充プロデューサー追悼特別上映
16:40~ 『ガンを育てた男』取材:松原明・佐々木有美 2016年 60分
18:20~ 『風の波紋』監督:小林茂 2015年 99分

2017年5月5日(こどもの日)
10:30~ 『姫と王子たち 0歳から100歳まで』監督:森田惠子 2016年 105分
13:00~ 『ここに居(お)るさ』監督:宮崎政記 2016年 86分
15:10~ 『さとにきたらええやん』監督:重江良樹 2016年 100分
17:30~ 『杭い 記録作家林えいだい』監督:西島真司 2016年 100分

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【料金】
1回券:予約(前売)1000円、当日一般1300円、学生・シニア1000円、小中学生500円
1日券:予約(前売)3600円、当日一般4000円
3日間フリーパス:予約(前売)10000円、当日一般11000円

※各日ゲスト(監督・関係者)によるトークを予定しています 
※各回入替制(自由席)開場は上映の30分前
※予約(前売)は前日までに03-3659-0179 まで要FAX


【会場】

小松川区民館ホール JR平井駅下車 南口商店街徒歩8分 区民館2階 <地図>
〒132-0035
江戸川区平井4丁目1番1号 Tel:03-3683-5249

【主催・問い合わせ】
 メイシネマ上映会 TEL/FAX 03-3659-0179