【連載】「ポルトガル・食と映画の旅」第7回 フォンタイーニャスを探して text 福間恵子


ポルトガル、食と映画の旅

第7回 フォンタイーニャスを探して

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ペドロ・コスタの作品を初めて観たのは、2004年3月のアテネフランセでの特集上映だった。『ヴァンダの部屋』(2000)が劇場公開されるのを前に組まれた企画だったはずだ。

『血』(『O Sangue』1989)、『溶岩の家』(『Casa de Lava』1994)、『骨』(『Ossos』1997)、そして『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこに隠れたの?』(原題はフランス語『Danièle Huillet, Jean-Marie Straub cinéastes / Où gît votre sourire enfoui?』 2001)の4本。『血』の、研ぎ澄まされた闇と光のなかのポルトガルの不安。『溶岩の家』の、かつてのポルトガルの植民地カーボヴェルデ。『骨』の、アフリカの人々が生きるリスボン。ポルトガルという国の入口に立ったばかりの当時のわたしに、ペドロ・コスタの初期3作品は、ガツンと大きな衝撃をともなって入ってきた。そして『ヴァンダの部屋』で決定的だった。リスボンに移民としてやってきたアフリカの人々が住むフォンタイーニャス(Fontainhas)という地区。その名前は、ヴァンダの咳がいつまでも耳に残ったように、心に刻みつけられた。

初めてのリスボンで驚いたことのひとつは、黒人の人たちが多いことだった。90年代中頃までのスペインでは、黒人の人を見かけることは少なかった。イベリア半島はそういうところだと思い込んでいたので、ポルトガルに来てあらためてスペインとの大きな違いをいきなり見せつけられた。単純に言ってしまえば、ポルトガルはアフリカに多くの植民地を持っていたからということになるのか。モサンビーク、アンゴラ、カーボヴェルデ、ギニアビサウ、サントメプリンシペ。大陸の果ての小さな国ポルトガルは、大航海時代以降にアフリカの小さな国々を支配したのだ。

さらに、人々を見ながら感じたことは、ポルトガル人は大きくなくて皮膚の色が白くないということ。東洋人とあまり変わらないくらいの背格好で(太り方は大きく違う!)、黄色人種に近い肌の色と髪の毛の黒さなのだ。わたしのように日本人でもとびきり小さい人間は、ヨーロッパではそのことを異常に意識させられる。誰もを見上げなければならない。しかし、ポルトガルではそれを意識しないで歩いている自分がいる。気持ちがラクになる。

ポルトガル人は混血をいとわないとよく言われるが、長い間にアフリカの血もアジアの血も混ざりあって、ポルトガル人という姿かたちが出来上がっていったのだろうか。

さて、時間は一気に現在に飛ぶ。2016年暮れから2017年新年にかけて、リスボンだけに2週間滞在した。年末年始のこの時期にしか休暇がとれなかったのだが、運よく安いチケットをみつけることができた。ひとりではなく夫と二人の旅の場合、こういうラッキーなことがよく起こる。

目的は、シネマテカでポルトガル映画を観ること、念願のフォンタイーニャス地区を探しだすこと、そしてお気に入りの食堂に毎日通うこと。フォンタイーニャスについては、これまでに何度か挑戦してきたが、残念なことにまだ見つけられていなかった。

映画を見れば深夜になるし、街はクリスマスと新年の休みがあるので、キッチン付きのアパートを予約した。

シネマテカのスケジュールは、ネットで調べておいた。12月は、2015年に82歳で亡くなったジョゼ・フォンセカ・イ・コスタ(José Fonseca e Costa)監督の特集が組まれていた。知らない監督だったが、アンゴラ生まれということに惹かれて、滞在中に上映される作品はすべて観るスケジュールを立てた。特集は12月14日から始まっており、監督した長篇作品が13本、TV作品含む短篇が23本、監督に関連した作品が2本という大々的なものだった。

リスボンに着いた翌日からわたしたちが観ることのできた作品は、1996年以降の長篇5本と、他の監督によるフォンセカ・イ・コスタへのインタビュー作品2本だった。

フォンセカ・イ・コスタがアンゴラ人だと思っていたら、じつはそうではなかった。たまたまアンゴラで仕事をする裕福な家庭に生まれて、12歳からは家族とともにリスボンに戻ったポルトガル人だったのだ。これにはちょっと拍子抜けした。ポルトガルがかつて支配した国からどんな映画の才能が生まれたのか、とても興味がわいていたのだ。

フォンセカ・イ・コスタはリスボン大学で法学を学び、在学中から映画批評を書き、卒業後テレビ会社の監督助手から始めて監督になっていった人である。1933年生まれ、ブラジルのグラウベル・ローシャや『恋の浮島』のパウロ・ローシャらとともに、「シネマ・ノーヴォ」のひとりとして期待されたそうだ。

ジョゼ・フォンセカ・イ・コスタ監督の評論・フィルモグラフィの本とシネマテカプログラムの特集記事

わたしたちは、フォンセカ・イ・コスタ監督が一番活躍したころの作品を見逃したことになったが、それでもたぶん後期作品からうかがえるものはあったのだろう。だが、ストーリーはムダのない展開で編集にもキレがあるにもかかわらず、物語自体はどこか古臭いところがあり、ハッとさせられる画にはなかなか出会えず、わたしにはあまりピンとくるものがなかった。とくに『Os Mistérios de Lisboa』(「リスボンの謎」2009)という作品は、詩人フェルナンド・ペソアの『ペソアと歩くリスボン』の一部を原作としているというものだが、まったくの「リスボン観光案内映画」で、いささかあきれた。観光協会がスポンサーとなった作品だったのか、「商工会」代表みたいなおっさん・おばさんがわんさか観に来ていて、クレジットが出ると大拍手が起こった。そして料金はタダだった。

けれども、最後の作品となった(死後に編集された)『Axilas』(「脇の下」)にはちょっと驚いた。ほかの4作品とはずいぶん違っていて、同じ監督の作品かと疑うほどだった。ブラックコメディであり、とんでもない男の物語であった。

男の名前はラザロ・デ・ジェズーシュ。イエスのラザロである。カトリック信仰の厚い大金持ちの老婦人の養子であるラザロ。彼はオーケストラのコンサートに行き、ヴァイオリニストの女性の脇の下に魅入ってしまう。この女性を必死で探しあて、近づき、彼女の部屋に行き、「脇の下」を抱きしめて恍惚とする。そして彼女を抱き上げ、窓にスイスイと向かったと思ったら、窓から放り投げて殺す。まるで太い棒切れを放り投げるように、あっけらかんと。彼女の葬儀が営まれ埋葬されるのだが、映画の後半で彼女は生き返っているように描かれる。ラザロとまわりの人々との会話のシーンから、ラザロが奇妙な性癖をもった人間であることがわかる。

ラザロを演じるペドロ・ラセルダは、フォンセカ・イ・コスタ監督の2006年の作品『Viúva Rica Solteira Não Fica』(「富豪の未亡人はとどまらない」、福間健二はこの作品を面白がった)にも出ていて、すぐに死ぬ役なのだが、その珍妙な個性がずば抜けている。『Axilas』も同様で、間抜けさと軽さに狂気と鋭さを加えて、忘れがたい役者として印象に残る。

『Axilas』は、監督不在の仕上げまでに、プロデューサーのパウロ・ブランコやカメラマンや監督の家族の間で、喧々諤々の論議があったらしい。

この特集の最終日が12月23日で、シネマテカは24日から26日までクリスマス休暇に入った。リスボン到着の翌日から3日間シネマテカに通いつづけ、7本の作品を観たわたしたちもひと休み。街はすっかりクリスマス一色になっていた。

そこで、フォンタイーニャス探しである。前に買ってあった、リスボンの通りの名前がすべて載っている地図帳を頼りに、たぶんここに間違いないというところを見つけた。「Rua das Fontainhas」フォンタイーニャス通り。リスボンの下町の中心からかなり離れて北西に位置するReboleiraレボレイラという地区の中に、その通りはあった。『ヴァンダの部屋』が2000年の作品だから、そのあたりはもうとっくに壊されて新しい住宅になってしまっているだろう。けれども、かならずヴァンダやヴェントゥーラの気配は残っているはずだ。

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