それほど期待して観始めたわけではなかった。日本においてほとんど紹介されていないミヒャエル・グラヴォガーという名前に対し、いきなりその遺作から接するという躊躇もあった。
グラヴォガーはオーストリアの映画作家であり、近年『パラダイス』三部作(2012-2013)が日本公開されたことで記憶に新しい同じくオーストリアの映画作家ウルリヒ・ザイドルとも何度か共同で映画を作っている。遺作となった『無題』(UNTITLED, 2017)は、国内外における実験映像作品の祭典として毎年開催されるイメージフォーラム・フェスティバルにおいて上映された。今年(2017年)は「ドキュメンタリー:21世紀の我らがはらから」と題された小特集が組まれており、そのなかの一本である。同特集では他にも、グラヴォガーの監督作『ワーキング・マンズ・デス 労働者の死』(2017)、ジョシュア・ボネッタとJ.P.シニャデツキによる『エル・マール・ラ・マール』(2017)、ラティ・オネリによる『陽の当たる町』(2017)が上映された。
フェスティバルのチラシには、『無題』は「何の目的もなく1年世界を旅して完成させようと試みた」プロジェクトであると書かれている。途中リベリアでマラリアに倒れ命を落としたグラヴォガーに代わって、彼と長年タッグを組んでおり、『ピアニスト』(2001)や『白いリボン』(2009)などミヒャエル・ハネケ監督作の編集でも知られるモニカ・ヴィリが最終的に繋いで完成させたのだという。
だが、こうした前情報は妙な不安を煽る。「何の目的もなく」為される旅は、それがどのような時間や空間を経ていようと、世界=外部ではなく、内面を志向していることがしばしばあるからだ。しかも作家の死というセンセーショナルな要素が絡んでいる。極私的な、個人的な言い訳のような映画であったら嫌だなと思った。ふまじめな観客である私は、単に凄いショットを見て唸りたいだけだ。しかし、そうした杞憂は冒頭数ショットのうちに粉砕された。ここには、何よりもまず、内面に向けられた旅ではなく、世界にカメラを向けることの驚きや喜びがあったからである。いや、そればかりでない。これはあまりによく出来すぎている。旺盛なサービス精神と、周到に作られたカッコよさがここにはある。今回の小特集のなかで、とりわけ着目に値するこの映画について、画面上の具体的なディテールを思い出しつつ紹介したい。
ススキに似た、背の高い植物が一面に生い茂っている向こうに、HOTEL EDENという看板を掲げたビルが見える。誰かがワーッと大声で叫ぶやいなや、木々の間から無数の鳥たちが飛び立ち、凄まじい羽音を立て竜巻のような渦とともに空を黒く染める。この冒頭のシーンから、被写体の運動への驚きがすでに始まっている。画面上に文字でこの作品の成立の経緯が説明され、グラヴォガーが旅をしたバルカン半島諸国、イタリア、北アフリカや西アフリカの国々の名前が羅列される。だが、そのあとに続くイメージたちは国名を持たない。時系列もバラバラで、それがどこの国であるのかがまったく説明されないのである。この映画は、全編を通じてこの姿勢を貫く。それがどこであるか、いつであるか、といった説明は為されず、とつぜん現れる運動によって観る者はつねに不意打ちされるのである。たとえば、序盤に以下のような場面がある。
どこだかわからない荒野に、一台のトラックがやって来ている。トラックは荷台にゴミを満載しており、色とりどりのビニール袋に詰められた生ゴミやら何かの容器やら諸々のゴミ屑が地面にぶちまけられる。すると、それを待ち構えていたように子供たちがその山に群がっていく。そこにわずかに一歩遅れて、その一帯にいるヤギたちが群れをなしてそのゴミ山になだれ込んでくる。そのあまりの殺到ぶりと熱気、彼らの運動が示すざわめきに、まず不意打ちをくらう。何だ、これは。だが唖然とする間もなく、カットは次々と切り替わり、生ゴミを食い漁るヤギたちや、ゴミの取り合いをする子供たち、喚きながらプラスチック容器に残っていたジュースのようなものを飲んでいる老婆などが映されていく。ここはどこなのか。私が見ているものはいったい何なのか。だが、観る者は少しずつ、強烈なイメージ群を前にして、このどこだかわからない空間で起きている事態を呑み込んでいく。どうやらここでは、この大量の生ゴミが彼らの生活の資源となっているらしい。彼らはこれらの生ゴミをそのまま食べたり、ゴミの中から使えそうなものを手に入れ、それを売ったりして生活しているようだ。そう思った矢先、一頭のヤギが映される。ヤギは尻のあたりから、赤みがかった透明の、袋状の内臓(子宮だろうか?)を垂らしている。近くには生まれたばかりのヤギが、はじめてその四肢で立とうと頑張っている。そのヤギたちに、ターバンを巻いた老人が生ゴミ(餌)の入ったビニール袋を投げてやる。出産を終えたばかりの母ヤギは、仔ヤギを尻目にバナナの皮などがぎっしり入ったビニール袋に飛びつく。生ゴミを食べて生まれてきた子供。非常に印象に残るシーンである。事実このイメージは、画面上に現れては消えてゆく、様々な動物たちへとつながる導入にもなっている。
だが、あまりに出来すぎたイメージではないだろうか。偶然歩いていてこのような光景に遭遇するはずもない。ちょっとヤギに餌を投げてみてくれと、老人に対して指示の1つや2つ、与えているとしか思えない。本特集のパンフレットには監督自身の次のような言葉がある。「私は、世界の見方を示したいのだ。特定のテーマを追いかけたり批判したりせずに、漫然と進めていくときにだけ浮かび上がるものを。自分の興味や直感だけに従って彷徨いながら」。これは、半分は本当で、半分は嘘だろう。画面を見れば、まったくの無計画で放浪し、任意の対象にカメラを向けたとはとても思えない。むしろ、彼はきわめて周到かつ戦略的に、ショットを驚きで満たす対象を、カメラの前に置くことに専念していたはずだ。そのためには、多少の演出があっても構わない。「世界の見方」を示すためには、適切なフィクションが必要であることをグラヴォガーは理解していたはずだ。そして、まずそうした対象への驚きを運動において説明抜きに見せ、観るものの不意を突くという方法をとった編集のヴィリも、そうしたフィクションの作用に積極的にしたがっている。ちょっとやりすぎではないか、と思うくらいである。
たとえば、次のようなシーンもある。少年が何か乗り物に乗って滑走しており、移動カメラが背後からその少年を追っている。賑わっている夜の街だ。暗くてよくわからないが、少年はかなり小さな黄色い乗り物で、滑るように走っている。何だ、この乗り物は、欲しいと瞬時に思う。だが見ていると、それは水を入れた黄色いポリタンクであることがわかる。少年は、水をポリタンクに入れ、滑車に乗せ、それにまたがって坂道を下っていたのだ。まるでスケボーか何かに乗るように、見事な機敏さで彼はポリタンクを乗りこなしている。どうやら少年はその水を売って生計を立てていることが、重ねられるナレーションによって明らかになる。水売りの縄張り争いは厳しいらしく、少しでも他の者の領域を侵犯するとエラい目に遭うらしい。そうした切実な現状の説明がスッと頭に入ってくるのは、他でもない、まずその少年の見事な滑走運動が示されており、その運動への鮮烈な驚きがあるからだろう。この少年の滑走を背後から移動で追えばよいというグラヴォガーの判断、そしてその運動を、少年がポリタンクで水を運んでいると説明するよりも前に、真っ先に見せて驚かせようというヴィリの判断は、効果的に機能していると言うべきだろう。
こうした、驚くべき出来事をカメラの前で生起させるための周到かつ戦略的な準備は、同じくフェスティバルで上映されたグラヴォガーの『ワーキング・マンズ・デス』にも見て取れる。あまりに天井が低いために寝そべることしかできない炭鉱内で食事をする坑夫たちを適確にとらえる照明とマイクや、写真撮影をする観光客たちの前をいかにもわざとらしく通り過ぎてゆく硫黄採掘の労働者たちに与えられていただろう演出指示や、巨大な船の壁一面が切断され海に倒れこむ様子を幾つものポジションからとらえる何台ものカメラが、こうした周到な準備を画面の内外において雄弁に物語っている。この二作品のほかにグラヴォガーの監督作を観ていないのだが、少なくともこの二作品に限ってみれば、驚きの生成に向けられた周到な準備は、共通の特質として備わっている。
ふたたび『無題』に話を戻すと、このような驚きに向けて提示されていく諸々のイメージは、特定の時間や空間を欠いたものとして表れている。肌の色、地域、国家のような機構を越えた、横断的なイメージとして、そうした運動は示されてゆく。複数の時間や空間をつなぐ存在として、たとえば動物たちがいる。冒頭のヤギたちをはじめ、荷車を引くロバ、運搬されるヒツジ、車に並走する犬、そういった物言わぬ動物たちである。ときにカメラは、どこともしれない道端に倒れた、死んだ犬やロバをも映す。車にはねられたのだろうか、腹から内臓を出し、無数の蛆にたかられている。そうした動物たちのイメージは、どこかで互いに繋がりあっているような感じがある。紛争地域の廃墟のなかで、薄茶色の仔犬が、毛布の中からおぼつかない足取りで這い出てくるさまは、生ゴミの山の中で生まれてくる仔ヤギの姿と重なり、異なる時間や空間を超えたものとして迫ってくる。
この、いつともしれない時間、どこともしれない空間の横断性は、異なる時間や空間のあいだに、なにか普遍的な、地球規模での共通性を見出そうとするものなのだろうか。しかしどうも、それほど単純でもなさそうである。むしろそれぞれの運動は、それぞれが特異なものとして記憶されている、という感覚のほうが近い。あのときのあのヤギの食べかた、あの少年の滑りかた、あの犬の走りかた、それぞれに特異な運動は、それぞれに特異な驚きを生んでいる。そして、そうした驚きが次々と連鎖していく。すべてを普遍的な共通性で覆ってしまうことはできない、しかし単独のものとして連鎖していくようなイメージたち。
詳しくは見たときのお楽しみだが、様々な言語が話されるアフリカのサッカーチームでは、サッカー選手の名前が単語としての意味を担っているという。ロナウドならこれこれ、メッシならこれこれの意味を持ち、彼らは互いに選手の名前だけで日常会話をする。しかもそれは全アフリカ中で通じるのだという。だが、ナレーションによって語られるこうしたエピソードが感動的であるのは、そうした諸言語間を超えた交流といったような普遍性の幻想のためではない。それは、サッカーをプレーしている彼らが、非常に躍動的であるからだ。彼らは身体障害者である。グラヴォガーは、ここであえて身体障害者のチームを選択している。だがここでは、その演出意図を云々することはしない。ここではただ、松葉杖をつきながら繰り広げられる見事なプレーがもたらす新鮮な驚きを思い出したい。ボールへと伸ばされる、あの躍動する片脚の動き。そうした単独の驚きを次々と連鎖的に配備する周到に仕組まれた戦略が、この作品を息づかせている。
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|開催情報
イメージフォーラム・フェスティバル2017
4/29-5/7 東京/シアターイメージフォーラム[会期終了]
5/12-5/20 京都/京都芸術センター
6/2-6/4 福岡/福岡市総合図書館
6/16-6/18 横浜/横浜美術館
6/21-6/25 愛知/愛知芸術文化センター
http://www.imageforumfestival.com/2017/
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|PROFILE
早川由真 Yuma Hayakawa
映画研究者。立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程後期課程在籍。論文「ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』における画面上の身体の存在論——加齢・接触・転倒の主題をもとに」(『立教映像身体学研究』第5号)など。