小学校正門前にて。卒業時に仲良しの友人たちと。向かって一番右が筆者
開拓者(フロンティア)たちの肖像〜
中野理惠 すきな映画を仕事にして
第50話 美しい夏キリシマ③/ラスト・プレゼント
<前回 第48話、第49話はこちら>
いしだえりさんの・・・
「ウチには共産党の人たちや創価学会やキリスト教の信者の人たちも、たくさん来てくださるんですよ」
に続いて、高野さんは次のように言ったのである。
「それに、いしだえりさんのオッパイを見に来る人もいるでしょうから、明日はいい初日になるでしょうね」
映画関係の各賞を授与される
こうして、無事初日を迎えることができた『美しい夏キリシマ』は、2003年12月6日に岩波ホールで封切り、約12週間上映した後、全国に広がっていった。そして2003年の「キネマ旬報」ベストテンの第一位となり、黒木監督には同ベストテンの日本映画監督賞や、日刊スポーツ映画大賞 監督賞、仙頭プロデューサーには藤本賞奨励賞、柄本佑さんは前述(第48話)のように各賞を授与され、それぞれ実力を評価された。その他、日本映画復興賞や日本映画批評家大賞、報知映画賞や、香川照之さんに日本映画批評家助演男優賞、原田芳雄さんには報知映画賞助演男優賞などが授与され、10年以上を経た現在に至るも長く見続けられる映画になった。
棘の道をたどる映画も多い
映画は製作、配給、興行の三段階の業務を経て観客に届けられる。製作時に最終段階、つまり、興行(上映)まで考えずに製作に入ってしまうケースも多く、そうすると、陽の目を見るまでは棘の道となり、時には陽の目とは無縁の運命を辿るケースも少なくはない。
『美しい夏キリシマ』は、黒木監督が来訪された当初、棘の運命を辿るかもれない、と危惧した。黒木監督と仙頭プロデューサーにとっては棘の道だったのかもしれないが、結果として、製作、配給、興行の関係者がお互いを信頼し一体となることができ、上映に向けて努力したと思っている。それが、成功につながった要因の一つだと思う。もう一つの要因は、作品の質をあげなければならない。
視覚障がい者対象の副音声上映
『美しい夏キリシマ』公開から1年前に遡るが、2002年12月、日比谷のシャンテ・シネで公開中だった韓国映画『ラスト・プレゼント』で、視覚障がい者対象の副音声上映を実現させることができた。興行中の映画での実施としては日本初だったそうだ。
きっかけは1998年に配給したドイツ映画『ビヨンド・サイレンス』で、聴覚障がいのある人たちと知り合ったことだ。外国映画は字幕があるから見る、と聞き、では、視覚障がいのある人たちは、映画をどのようにして見るのだろうか、との素朴な疑問が湧いた。調べると、画面を説明するガイドをイヤホンやヘッドホンで聴きながら鑑賞すると知った。当事者の人たちに聴くと、ガイドには色も入れてほしい、とのことだったのをよく覚えている。
2002年12月29日に実施
『ラスト・プレゼント』を一緒に買い付けた他の二社(プランニングOMさんとスキップさん)や、劇場さんも大賛成だったが、初めてのことなので、12月29日(日曜日だった)の11時と夜の6時半の回の2回だけ実施、と手帖にメモが残っていた。装置は割と大掛かりだったと思う。詳細の記憶がおぼろげなのだが、提供三社のスタッフも劇場で立ち合った。当事者の方々が来場されたもの覚えている。また、窓口の担当者が慣れていなくて、当事者と付き添いの人たちの料金が混乱したような報告を、支配人から受けた記憶も残っている。
この原稿を書くために手帖を確認すると経費がメモしてあった。七桁に近いドキドキするような大きな数字である。慣例に従い、全額、配給側が負担した。今は、もっと簡便になり、かつ、珍しいことではなくなっているのは、嬉しいことだ。視覚障がい者が映画を見る活動をしている団体である<シティライツ>の平塚さんと知り合ったのは、この機会だったのではないか、と思う。<シティライツ>さんは、今や会員は100人以上になり、活動も広く知られるようになっている。これも嬉しい出会いであった。
2004年
副音声上映実施が2002年、『美しい夏キリシマ』公開が2003年。続く2004年は、郷里からの奇想天外な連絡で幕を開けることになる。
(つづく。次は7/15に掲載します)
中野理恵 近況
数十年ぶりに『ひまわり』(1970年/ヴィットリオ・デ・シーカ監督)をイタリア文化会館の大スクリーンで見た。ヘンリー・マンシーニの音楽とともに、いつまでも余韻が残っている。